Ⅲ 天山
前書きなんてこの物語にふさわしくない。
1755年、五月。イリ川の上流、ボロ・タラ。
遼鑠は、ジュンガル軍の最前線で、北の地平を見つめていた。
そこには、数万の清軍が、土煙を上げて迫っている。
先導役は、かつてジュンガルの有力者でありながら、清に臣従を誓ったアムルサナだ。
彼は乾隆帝の手先として、勝手知ったる故郷の道を軍勢に示している。
だが、その瞳に宿っているのは、清への忠誠などではない。
ハーンの座への妄執と、かつての同胞を斬らねばならぬ男の昏い熱量だ。
対するジュンガルの現ハーン、ダワチはイリの地で、かつて通泊で清を破った猛者たちをかき集めていた。
遼鑠は、硬い獣皮に事実だけを刻む。
「草原の理が二つに割れた。一方は、中原を呑み込み巨大化した満洲の龍。一方は、血統を重んじ、内側から腐りかけながらも誇りを捨てぬジュンガルの狼。どちらの刀がより深く肉を断つかのみが、次の覇を決める」
最初の大きな衝突は、カクダー山の麓で起きた。
清軍の先鋒、勇将阿桂は、旧来の兵法を捨てていた。
大砲を据え付ける時間さえ惜しみ、清朝最強の「索倫」騎兵を解き放った。
満洲の極北から徴募されたその男たちは、戦場で生きる野獣そのものだった。
衝突の瞬間、大地を揺らすような衝撃音が響いた。
銃声ではない。鉄と鉄がぶつかり、馬の骨が砕け、男たちが腹の底から絞り出す絶叫が空を割る音だ。
ジュンガルの戦士たちは、馬上から長槍を突き出し、ソロン騎兵を次々と串刺しにする。
対するソロンは、落馬しながらも敵の足に食らいつき、短刀で馬の腹を裂く。
そこには計算も戦術もなかった。
あるのは、ただ「目の前の敵を殺し、自分が生き残る」という原始的な生存の削り合いだ。
遼鑠は、血飛沫を浴びながら記録を続けた。
ジュンガルの将たちは、清軍の放つ火縄銃の弾丸を鎧で弾き飛ばし、逆に清軍の将校を馬から引き摺り下ろす。
一進一退。草原の土は、またたく間に両軍の血を吸って黒ずんでいった。
その乱戦の中、清軍の陣中にいた遼隠は、アムルサナの背中を見ていた。
アムルサナは、かつての部下たちが次々と清軍の刃に倒れるのを、無言で見つめていた。
その手は、手綱を握り締めるあまり、指関節が白く浮き出ている。
アムルサナは、やがて一言も発さずに刀を抜き、ジュンガル兵の真っ只中へと馬を駆った。
遼隠は、その背中を筆で追う。
「アムルサナ、血を欲する。それは敵への憎悪か、あるいは自らの裏切りを消し去るための自虐か。彼が振り下ろす刀には、草原を分かち、引き裂いた者の苦悩が纏わりついている」
かつての英雄が、自分たちを斬りに来た。
その事実は、ジュンガル軍の戦列に目に見えぬ亀裂を生じさせた。
数日にわたる削り合いの末、ジュンガルの防衛線は決壊した。
ダワチは天山山脈の南へと逃れ、ジュンガルの本拠地イリは、清軍とアムルサナの手によって制圧された。
だが、それは勝利の終わりではなかった。
占領されたイリの街に入った遼鑠は、そこで変わり果てたジュンガルの姿を見た。
清軍は略奪を禁じたが、アムルサナの率いる寝返り部隊が、かつての同胞の財産を容赦なく奪い合っていた。
遼鑠が血の臭いに顔をしかめていると、背後から一人の男が歩み寄った。
清軍の記録官としてイリに入った、遼隠だ。
二人の叙述者は、廃墟となった広場で、初めて会した。
「鑠。お前が記してきたジュンガルの栄光は、今、この煙の中に消えようとしている」
遼隠が差し出したのは、清朝の公的な戦勝記録だ。
そこには、乾隆帝の慈悲と武威が並べ立てられている。
鑠は、それを黙って一瞥し、地面に唾を吐いた。
「……隠、お前の書く言葉は綺麗すぎる。俺が今さっき見たのは、自分の腕を斬られても敵の耳を食い千切る男たちの姿だ。龍が狼を食ったのではない。一匹の狼が、仲間を売って龍の皮を被っただけだ」
イリを制圧したことで、戦いは終わったかに見えた。
しかし、アムルサナは気づいていた。
清の乾隆帝が自分に与えようとしているのはハーンという称号ではなく、ただの部族長という、首輪の付いた位に過ぎないことを。
イリの夜、アムルサナは遼隠を呼びつけ、暗い眼で告げた。
「草原の風を、籠に閉じ込めることはできん。……俺は、まだ終わらんぞ」
遼鑠は、アムルサナが再び野に放たれ、今度は清朝に対して牙を剥こうとしているのを、直感で察した。
草原の平定など、幻想に過ぎない。一つの帝国が崩れた瓦礫の下から、より深い憎悪と、生き残るための執念が芽生えようとしていた。
遼鑠の記録帖には、こう記された。
「イリの地、静寂に包まれる。だがそれは安息ではない。血を流し過ぎた草原が、次なる嵐を呼ぶための息を潜めているだけだ。アムルサナ、その眼の中に再び反逆の火が灯るのを見た」
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