表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
遊牧史Ⅴ 準葛爾絶ゆ  作者: 神箭花飛麟


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/5

Ⅱ 墓標

十五世紀、土木堡で明の正統帝を捕らえたエセンの死後、オイラトの覇権は一時瓦解した。

だが、その血脈と野心は中央アジアの草原へと深く潜伏し、独自の進化を遂げていた。


十七世紀、オイラト四部の一つ・準葛爾ジュンガル部から、稀代の野心家ハラフラが登場する。

彼は従来の遊牧部族の枠組みを壊し、中央集権的な国家体制の基礎を築いた。

その跡を継いだエルデニ・バートゥルは、ロシアとの交易を通じて銃器を手に入れ、農耕民や職人を強制移住させることで、自給自足可能な軍事工業拠点を構築。

遊牧の機動力と定住民の生産力を融合させた、全く新しい国の形を模索し始める。


そして一六七一年。チベットでダライ・ラマに学び、僧侶として生きていたガルダンが、兄の死を受けて還俗し、ハーンの座に就いた。彼はチベット仏教の権威を背景に、タリム盆地のオアシス諸都市を次々と制圧。

カシュガル、ヤルカンドといったシルクロードの要衝を支配下に置くことで、莫大な富と草原・イスラム・チベットが混淆する未曾有の版図を確立した。


この時、中央アジアに最後の遊牧帝国が完成した。

東では、元朝の国璽を継承し、中華の主となった大清帝国が版図を広げつつある。

西では、草原の理を近代的な軍事力へと昇華させたジュンガルが、チンギス・ハーンの夢を再興せんと牙を剥く。


遼一族の叙述者は、この二つの巨大な理が激突する宿命を予感し、筆を執る。

一七三一年。北京、紫禁城の奥深く。

遼一族の叙述者・遼隠は、雍正帝の背中が微かに震えるのを見た。

御机に叩きつけられた報告書には、清朝建国以来、一度も経験したことのない惨状が記されていた。

アルタイ山脈の通泊トング・ポにおいて、精鋭八旗軍一万余が壊滅。名将フスフは戦死。

生き残ったのは、命からがら砂漠を這い戻った三千に満たぬ敗残兵のみ。

「これが、鍛え上げえられた八旗の姿か」

雍正帝の声は、怒りを通り越して乾いていた。

清朝は明を滅ぼし、中原を統べ、自らを無敵の龍と信じて疑わなかった。

だが、西の果てから現れたジュンガルという狼は、その龍の喉元を容赦なく食い破ったのだ。

遼隠は、その沈黙を筆に刻む。

「皇帝の怒り、万雷のごとし。だが、その雷を落とすべき敵は、広大な草原の砂塵の中に消えて実体を持たず。軍機処の文官たちは、連日連夜、費やされた莫大な軍費と失われた武威の計算に追われる。清朝、建国以来の岐路に立つ」


 雍正帝は、この敗北を雪辱せぬまま世を去る。

だが、その執念は、若き後継者・乾隆帝へと、呪いのように引き継がれることとなった。


同じ頃、イリ川のほとり、ジュンガルの本拠地。

遼鑠は、勝利に沸く天幕の影で、大策零ツェリン・ドンドブが清軍から奪った戦利品を検分する様を眺めていた。

「鑠、見ろ。清朝の火器も、この草原ではただの重荷だ」

大策零が、捕獲した清軍の大砲を足蹴にした。

ジュンガルの強さは、遊牧の機動力に、都市の技術を接合した点にあった。

ヤルカンドやカシュガルのオアシスから吸い上げた富で、ロシアやスウェーデンの技術者を雇い、最新の銃火器を自前で製造する。

草原を駆けながら、火を噴く駱駝隊ザンブーラクが敵を蹂躙する。それは、清朝がかつて明を圧倒した「暴力の進化」を、さらに一歩先へ進めたものだった。

遼鑠は、獣皮の記録帖にその絶頂を刻みつける。

「ジュンガルの威信、天を衝く。北はシベリアの縁、南はチベット、西はカザフの草原まで、その号令一つで大地が震える。清朝を破った今、彼らは自らをチンギス・ハーンの正統なる後継者と任じ、中央アジアの真の主となった」

 だが、遼鑠は同時に、組織が膨れ上がるゆえの軋みも見ていた。富が増えれば、それを奪い合う身内が増える。ハーンの座を巡る野心が、見えない毒のようにジュンガルの内部に染み渡り始めていた。


少し前、フスフ率いる清軍は、ジュンガルの本拠地を叩くべく、アルタイ山脈を越える困難な行軍を強行した。

彼らは、数千両の輜重車と重砲を連ね、大地を削るように進んだ。

だが、その動きはすべて、ジュンガルの斥候に把握されていた。

大策零は、清軍を通泊と呼ばれる、周囲を断崖に囲まれたすり鉢状の盆地へと誘い込んだ。

「奴らは、水も逃げ場もないこの場所に、自ら飛び込んできた」

遼鑠は、崖の上からその光景を目撃した。

清軍が盆地の底に軍を休めた瞬間、山壁の影から一斉に駱駝の嘶きが上がった。

数千頭の駱駝の背に据えられたザンブーラク小砲が、一斉に火を噴く。

上空から降り注ぐ鉛の雨。

八旗の精鋭たちは、敵の姿さえ見えぬまま、自らの血で泥を捏ねる。

「放て! 一人も生かして帰すな!」

ツェリンの号令とともに、ジュンガル騎兵が雪崩のように斜面を駆け下りる。

彼らは馬上で銃を扱い、清軍の隊列を正確に断ち切っていく。

清軍の重砲は、一度もまともな反撃を行う隙さえ与えられず、ただの鉄の塊として戦場に遺棄された。


遼鑠は、フスフが最期に放った絶叫を今も忘れない。

「草原に、理などないのか……!」

その首をジュンガル兵が撥ね飛ばしたとき、通泊の地は、清朝の傲慢を飲み込む巨大な墓標となった。


歳月は流れ、1754年。

北京の紫禁城で、乾隆帝は遼隠を傍らに呼び、古びた通泊の調査報告書を広げた。

「隠よ。朕は、父や祖父のように、ただの戦いで済ますつもりはない」

乾隆帝の目は、冷静な狂気に満ちていた。

この二十年、清朝は沈黙を守りながら、ジュンガルを内側から崩す機会を待っていた。

そしてついに、その時が来た。ジュンガルの指導者層がハーンの位を巡って分裂し、有力者アムルサナが、清朝に亡命してきたのだ。

 「奴らを利用し、道案内をさせる。そして、ジュンガルという存在そのものを、歴史の地表から消し去る」

乾隆帝が求めたのは、和議でも従属でもない。文字通りの絶滅であった。

遼隠は、軍機処で発行される膨大な軍令を記録しながら、清朝という龍が、かつての武人の誇りを捨て、組織的な殲滅へと変貌していく様を目の当たりにする。


対するジュンガル側では、遼鑠が荒廃したイリの街に立っていた。

「かつての無敵の軍勢は、今や身内同士で刀を向け合っている。清の龍が口を開けて待っているというのに」

かつて通泊で清軍を圧倒した英雄たちの子孫は、今や互いの領地を奪い合い、民は飢え、草原の結束は砂のように崩れていた。


1755年。乾隆帝は、ついに総攻撃の命を下す。

「二路から進撃せよ。アムルサナを先導に立て、ジュンガルの心臓部へ一気に突き刺せ」

北京を出発する八旗の軍勢は、かつてのフスフの軍とは違っていた。

彼らの後ろには、清朝が中華全土から吸い上げた圧倒的な物資と、万全の兵站網が控えている。

遼隠は、進軍する軍列の最後尾から、北の空を見上げた。

「通泊の借りは、今ここで、ジュンガルの血をもって清算されるのだ」


一方、ジュンガルの奥地でそれを待ち構える遼鑠は、静かに筆を走らせる。

「一七五五年、春。清朝の軍勢、再び国境を越える。今度の龍は、かつてのように咆哮しない。ただ、冷たく、巨大な影となって草原を覆い尽くそうとしている。ジュンガルの最期の季節が始まるのやもしれない」

かつての通泊での栄光は、いまや遠い伝説となった。

迫りくるのは、文明という名の重圧と、一民族を消去するための冷徹な行軍。

遼一族の二人の叙述者は、それぞれの陣営で、一つの時代の終焉を書き留める準備を整えた。

レビュー、評価、感想をしてくだされば嬉しいです!!!!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ