帰還者
中央棟の自動扉が閉まると、外の音がすっと切れた。
空気が違う。温度が低い。消毒と金属と、紙の匂いが薄く混ざっている。照明は同じ白のはずなのに、ここは光が硬い。影ができない分、視線を逃がす場所がない。
入口警備の兵士に通され、ハクヤは数歩進んで――そこでようやく気づいた。
手に、購買のビニール袋を持ったままだった。
(……やべ。)
呼び出しの衝撃で忘れていた。今から上層部の棟に入るのに、歯ブラシや栄養固形食の袋をぶら下げているのは、さすがにみっともない。
ハクヤは足を止めそうになり、すぐに踏みとどまった。
(落ち着け。ここで変な動きしたら余計に怪しまれる。)
呼吸を整え、目立たないように壁際へ寄る。廊下には監視カメラがある。天井の角、柱の陰、通路の突き当たり。見られている前提で動かなければならない。
ハクヤは小さく袋の中身を確認し、支給服のミリタリージャケットを意識する。
ポケットが多い。
胸ポケットが左右。腰ポケットが左右。内側にも隠しポケット。ズボンにも左右と背面。寮で何度も「装備の携行はポケットを使い分けろ」と叩き込まれたあの仕様だ。
(よし……全部入る。)
ハクヤは素早く、しかし雑に見えない動作で、買った物を次々にポケットへ押し込んだ。
歯ブラシは胸ポケット。歯磨き粉は内ポケット。布巾、ボタン、糸は腰ポケットへ。指ぬき手袋の替えはズボンのポケットへ。栄養固形食は左右に分けて入れる。重さが偏ると歩き方が変わる。癖が出て、目立つ。
最後に、空になったビニール袋。
小さく畳んで内ポケットの奥へ押し込む。
驚くほど余裕で全部入った。
支給服の機能性に、今だけは感謝したくなる。
ハクヤはホッとため息をつく。
すぐにその息を飲み込んだ。ここでは息一つも緩みとして見られる気がする。
襟を正し、ジャケットの前を整え、背筋を伸ばす。
(よし……行け。)
中央棟の受付へ向かうと、そこはまるで別の入口だった。
低いカウンター。透明な防弾ガラス。端末。無駄のない椅子。白衣の職員と、兵士部門の警備が二名。視線が鋭い。
受付の女性は顔を上げ、名札ではなく、胸元の紋章で役職が分かるタイプだった。整った身なり、感情の薄い微笑み。
「呼び出し番号は?」
「……No.C137です。」
声が少し硬くなる。自分でも分かる。緊張が抜けない。
女性は端末に入力し、ハクヤを数秒見た。品定めする目ではない。照合する目だ。
「確認できました。第一面談室へどうぞ。」
「……面談、ですか?」
思わず聞いてしまう。反射だ。
女性は表情を変えない。
「案内が必要ですか?」
「……いえ。大丈夫です。」
質問すること自体が余計なものだと悟り、ハクヤは飲み込む。
女性は小さなカードを差し出した。薄い金属板のような質感で、表には番号だけ、裏には黒いバーコードと小さな刻印。
「これを携行してください。扉の認証に使用します。廊下を直進、三つ目の分岐を右。青線ではなく白線を辿ってください。迷った場合は立ち止まらず、最寄りの監視員に申し出てください。」
「……はい。」
白線。
赤でも青でも緑でもない線。部門の色が付いていない中央棟専用の導線。
ハクヤはカードを握りしめ、受付を離れた。
廊下を歩く。
音が吸われる。足音さえ小さい。壁は白いのに、圧がある。掲示板も少ない。情報がない。迷う者が悪いと言わんばかりの構造だ。
分岐を曲がるたび、警備兵が立っていた。彼らはハクヤを見るが、見ない。視線は通る。しかしそれ以上はない。無言の検問。
カードをかざすと、扉が無音で開く。
また扉。さらに扉。
まるで内側へ、内側へと引きずり込まれていく感覚。
(……俺、何しに呼ばれたんだ。)
身体検査の不備か。採血の結果か。毛髪提供の何かか。いや、そんな理由なら医療区画から呼び出せばいい。
中央棟で面談。
不安が、じわじわと形になる。
そして、突き当たりに小さな表示板があった。
第一面談室。
ハクヤは立ち止まる。喉が乾く。拳が無意識に握られる。
(……面談室?俺が?)
新人兵士が、入団初日に?
意味が分からないまま、背筋だけは伸ばす。
受付の女性が後ろから静かに言った。
「ここです。ノックを。」
ハクヤは頷き、扉の前に立つ。
静かにノックする。
――コン、コン。
音が吸われる。自分の鼓動だけがうるさい。
「入れ。」
男の声だった。低く、疲れているのに、妙に澄んでいる声。
ハクヤは扉を開けた。
室内は広くない。だが無駄がない。白い机、白い椅子、端末、ファイル、壁面モニター。窓はない。外が切り捨てられている。
一歩入った瞬間、空気の密度が変わった。
圧迫ではない。
観察される空気。
受付の女性が後ろで扉を閉める。
カチリ。
自動ロックの音。
逃げ道が消えた音。
机の向こうに座っていた男が顔を上げる。
白衣。研究部門の紋章。胸元には濃い緑のライン――研究統括クラス。
丸い眼鏡。
眼鏡の奥の瞳は虚ろで、寝不足の血走りが薄く見える。血行不良のクマが濃い。白髪混じりの長い黒髪が肩に落ち、毛先がわずかに乱れていた。
年齢は四十代後半から五十代。
だが顔つきが年齢を曖昧にする。
疲労と興奮が同居している顔。
人を見ているのか、データを見ているのか分からない目。
ハクヤは椅子に座る。
背筋を伸ばす。膝の上に手を置く。寮で叩き込まれた面談姿勢だ。
男は椅子にもたれたまま言った。
「……私はリンドウ。研究部門の統括司令官――つまりこの区画の最高責任者だ。」
その一言で、空気が変わる。
偉い人という言葉では足りない。
研究の頂点。
新人兵士が会う相手ではない。
ハクヤの背筋が無意識に伸びる。
「……君がC137。ハクヤ・ヴェルネ。」
「はい。」
リンドウは端末を操作し、モニターを点けた。
そこには身体検査の結果一覧。
数値、波形、項目が膨大に並ぶ。
彼はそれを確認しているようで、実際は結論だけを見ているようだった。
「出身は?」
「……北ヴィルダン北部、フロウエルです。」
「育ての親の氏名は?」
「……え。」
一瞬詰まる。“育ての親”という言葉に違和感が走る。
だが答えるしかない。
「……ヴェルネ夫妻です。父と母です。」
「母は冥土信者だな?」
「……はい。」
質問は矢のように続いた。
出生の状況。出生記録の有無。幼少期の健康状態。怪我の治癒速度。高熱の頻度。夜目。嗅覚。空腹耐性。動物への反応。恐怖時の身体反応。背中の違和感。
ハクヤは困惑しながら答える。
「……分かりません。」
「……覚えてません。」
「……普通だと思います。」
答えるほど、リンドウの目が変わっていく。
虚ろだった瞳に、粘つく光が宿る。
ハクヤはそれが怖かった。
(なんだよ……この質問……。)
自分の人生を、解体されていく感覚。
やがてリンドウは小さく息を吐いた。
安堵と興奮が混ざった吐息。
「……やはり。」
モニターが切り替わる。
白い背景の写真。
白いフード。
肩まである白い頭髪。
薄緑の患者服。
金属の首輪。
鋭い琥珀色の瞳。
廊下で出会った、あの女。
ハクヤの呼吸が止まる。
画面下に文字。
『生物兵器登録:No.006』
『分類:グリフォン』
(……あの女……。)
さらに画面が変わる。
顕微鏡写真。
細胞の拡大画像。
普通の細胞とは違う。形が均一じゃない。継ぎ接ぎのような歪み。膜の厚さが不均一。核が複数あるようにも見える。
生物なのに、不自然。
不気味。
リンドウが静かに言った。
「君の毛髪、血液、細胞……完璧に一致したのだよ。」
「……一致?」
声が震えた。
意味が分からない。
理解できない。
「君の細胞は通常の人間とは違う。そしてNo.006と同一系統だ。」
ハクヤの背中に冷たい汗が流れる。
「……何の話をされてるんですか。」
必死に言葉を出す。
「俺は……ただの一般兵で……今日入団したばかりで……。」
リンドウはゆっくり首を横に振る。
否定ではない。
訂正だ。
「違う。」
短い一言。
机の上に置かれる検査ラベル。
毛髪提供。
たった一本。
それが、ここに繋がっている。
「君は、君が思っているよりずっと重要だ。だから呼ばれた。」
ハクヤの膝が震える。
「……俺は……何者なんですか。」
震えた問い。
リンドウは答えない。
ただNo.006の写真を指先で示し、淡々と告げる。
「君の血は、ここへ戻るために流れている。」
意味が分からない。
だが分からないからこそ、怖い。
白い部屋の中で、ハクヤは初めて確信する。
自分は――ただ試験に受かっただけでここに立っているのではない。
最初から。
ここへ来るように仕組まれていたのかもしれない。
胸の奥がざわつく。
呼吸が浅い。
頭がうまく働かない。
その時だった。
――ジャラ……。
遠く。
中央棟のどこかで。
鎖の音が、微かに響いた気がした。
ハクヤは反射的に顔を上げる。
リンドウは、気づいていない。
いや――。
気づいていて、無視している。
その可能性に気づいた瞬間。
ハクヤの背筋に、冷たいものが走った。
冥土の白い壁は、どこまでも清潔で、どこまでも無機質だった。
だがその内側で、確実に何かが動いている。
そしてその中心に、自分が引き寄せられていることを――。
彼はまだ、理解していない。




