普通を選んだ
購買は、兵士部門寮の区画から少し歩いた先にあった。
白い廊下を抜け、赤線が交差する広い通路を進むと、突然生活の匂いがする空間に出る。無機質なのは変わらないが、ここには人の欲がある。必要なものを買い、必要なものを補う。冥土の中で唯一、少しだけ現実に近い場所――そう感じた。
空気が、少し違う。
廊下よりも温度がわずかに高く、人の気配が濃い。遠くで包装材の擦れる音や、金属トレーの当たる音が聞こえる。人が生きている音だ。
棚は整然としていた。
歯ブラシ、歯磨き粉、石鹸、タオル、髪留め、糸と針、簡易救急セット、靴紐、手袋の替え。兵士用の補修キット。小型の工具。規格品の下着やインナー。すべてが同じ色味で統一されているのに、用途ごとにきちんと並んでいる。
色彩は抑えられている。白、灰、淡い青。装飾はない。だが逆に、それが「管理された生活」を感じさせた。
ハクヤは籠を取った。
軽い金属製の籠。持ち手が冷たい。
(こういうの、故郷の雑貨屋とは違うな……。)
ハクヤの故郷、フロウエルの店は小さくて、木の棚で、季節ごとに並ぶものが変わる。店主がいて、少し話して、つい余計なものを買ってしまう。おまけに飴をくれることもあった。
ここは違う。
会話がない。笑い声もない。必要なものだけが存在している。
歯ブラシは規格が三種類。硬め・普通・柔らかめ。
ハクヤは“普通”を選んだ。寮の時、硬めで歯茎を傷つけたことがある。訓練で口の中を切ると最悪だ。食事に影響するし、感染も怖い。
歯磨き粉は薄いミント味と無味。
少し迷ってミント味にする。
(少しでも普通の生活っぽい方がいい。)
無味は効率的かもしれないが、生活の実感が薄れる気がした。
そして小物類。
携帯用の小さな布巾、靴の中敷き、予備のボタン、糸。指ぬき手袋の替えも手に取った。訓練が始まればすぐ消耗する。寮で嫌というほど学んだ。
装備を大事にできない者は、体も大事にできない。
それは教官の口癖だった。
最後に、軽食用の栄養固形食。
棚には、銀色の個包装がずらりと並んでいた。光沢のある包装はどれも同じ形で、味の違いは小さな印字でしか分からない。
甘味、塩味、無味。
高カロリー、低糖質、長期保存。
(……これが食事って感じじゃないな。)
手に取ると、ずっしり重い。小さいのに重量感がある。栄養が詰まっている証拠だろう。
村のパンやスープとは違う。
それでも、腹が減ればこれが頼りになる。
ハクヤは甘味と塩味をいくつか選んだ。
訓練が始まれば腹が減る。腹が減ると集中が切れる。集中が切れると――怪我をする。
籠を持って会計へ向かう。
会計カウンターは自動精算式だった。身分証をかざし、商品を置くと自動で金額が表示される。支払いは支給された小銭。冥土内でのみ使える通貨だ。
ピッ、と音がして支払い完了。
袋も簡易なもの。無駄がない。
ハクヤは購入品を受け取り、少しだけ肩の力を抜いた。
(これで明日は大丈夫だな。)
そう思った、その時。
天井のスピーカーから、無機質な電子音が鳴る。
――ピン、ポン。
購買の中にいた数人の兵士が、わずかに動きを止めた。
続いて、アナウンス。
『お呼び出しをします。No.C137、C137。至急、中央棟へお越しください。至急、中央棟へお越しください。』
時間が止まったような感覚。
ハクヤは瞬きをした。
(……C137?)
一瞬、理解が追いつかない。
だがすぐに気づく。
仮番号。
身体検査のときに割り振られた番号だ。
C137。
それは――自分。
周囲の空気が少し変わった。
近くにいた兵士が一瞬だけハクヤを見た。すぐに目を逸らす。だが「見た」ことは分かる。
中央棟。
その言葉の重さは、新人でも知っている。
そこは主に冥土の上層部たちが居る棟。
地図上では研究部門と兵士開発部門の棟の近くに位置している。兵士部門の生活区画からはかなり遠い場所だ。
普通、新人兵士が行く場所ではない。
(……なんで?)
心臓が少し速くなる。
何か検査に不備があったのか。
血液検査の数値がおかしい?
記録ミス?
不正を疑われた?
様々な可能性が頭をよぎる。
寮で教えられた言葉が浮かぶ。
――呼び出しは拒否するな。
――理由は聞くな。
――命令に従え。
ハクヤは小さく息を吐いた。
支給服のジャケットを正す。襟を整える。無意識に姿勢が伸びる。
袋を持ち直し、購買を出る。
廊下に出た瞬間、さっきまで感じていた生活の匂いが消えた。
白い世界に戻る。
床には色分けされたライン。
赤は兵士部門。
青は医療。
緑は研究。
黄色は生活支援。
中央棟へ向かうには、複数のラインを乗り継ぐ必要がある。
ハクヤは壁の案内図を確認した。
(……遠いな。)
兵士部門の棟からはかなり離れている。
だが迷う時間はない。
彼は歩き出した。
赤線を進み、交差点で緑線へ乗り換える。
通路の雰囲気が変わる。
研究部門区域は、兵士区画より静かだった。人はいるのに音が少ない。白衣の人間が端末を見ながら歩き、誰も目を合わせない。
ガラス越しに見える実験室。
大型の装置。
液体の入った円柱タンク。
金属のアーム。
意味の分からない機械。
(……すげぇな。)
思わず目が行く。
だが足は止めない。
さらに進むと警備が増えた。
兵士の装備が違う。腰の武器も、立ち姿も、雰囲気も。訓練兵とは明らかに格が違う。
中央棟に近づいている証拠だった。
やがて見えてくる。
巨大な建物。
白い外壁に、冥土の紋章。
他の棟よりも高さがあり、圧がある。
ここが――中央棟。
ハクヤは無意識に唾を飲み込んだ。
(……なんで俺がここに。)
答えはない。
だが呼ばれた以上、行くしかない。
入口の警備兵が無言で身分証を要求する。
ハクヤは提示した。
端末で確認される。
短い沈黙。
そして。
「……通れ。」
許可が下りる。
扉が開く。
冷たい空気が流れ出てきた。
ハクヤは一歩踏み込む。
その先に待つものが、自分の運命を大きく動かすことになるとは――
まだ知らないまま。




