散歩の者
食後、残りの休憩時間。
食堂から出たばかりの廊下は、人の流れがゆっくりとほどけていくところだった。兵士部門の赤線の上を歩く足音、医療部門の青線を行く白衣の擦れる音、研究部門の緑線から聞こえる端末操作の小さなクリック音。全部が混ざり合っているのに、妙に秩序がある。
ハクヤはイナバとグレイと並んで、廊下の一角にある巨大な窓へ向かった。
そこは、室内なのに外気が少しだけ近く感じる場所だった。窓は壁一面に広がり、透明度の高いガラスの向こうに、巨大開発都市メイロポリスの内側が切り取られている。
「……うおぉ。」
イナバが思わず声を漏らす。
ハクヤも同じだった。
窓の下には、広い中庭が広がっていた。白い石畳と、整然と並ぶ低木。噴水のような設備が中央にあり、日光を受けて水面がきらきら光っている。中庭の周囲には回廊が巡り、白衣の人々が小さな点のように行き交っていた。
中庭の隣には大型病棟。
建物は巨大で、外壁には青いライン。窓が多く、内部が明るいのが分かる。救急搬入口らしき広い通路には白い車両が並び、ストレッチャーが運ばれていくのが見える。病棟の最上階には、ヘリポート――ではなく飛行船の接岸スペースがあるらしく、空中回廊が伸びていた。
そして少し遠くには、高層ビルの群れ。
白と灰の高層塔が幾本も立ち、そこに黒いガラスのビルが混ざる。倉庫群、工場群、煙突、巨大な配電塔。さらに高層マンションらしき住居区画が連なっていて、整然と並ぶ窓が日光を反射している。
それは――村の「町並み」とは比べ物にならない。
(……ほんとに国だ。)
ハクヤは喉を鳴らした。
北の雪深い村フロウエルの景色――雪原と木々と、低い家々。あれが彼の世界の全部だった。なのに今は、窓の外に別の世界が広がっている。見れば見るほど大都会で、胸の奥が勝手に熱くなった。
兵士養成寮で過ごした日々も、思い出す。
薄暗い寮の廊下。朝の号令。冷たい水で顔を洗い、眠気を叩き落として走ったグラウンド。剣の握り方、銃の構え方、呼吸の合わせ方。失敗すれば叱責。怠れば減点。けれど――その中で、少しずつ「自分はここまで来たんだ」と思えるようになった。
グレイは無言のまま、窓の向こうを見つめている。けれどその横顔は、ほんの少しだけ柔らかい。驚いているのか、圧倒されているのか。目の光がいつもより明るい気がした。
イナバが肩をぶつけるように笑う。
「おいハクヤ。これ、やべぇな。寮のグラウンドなんて砂場だったわ。」
「……比べるな。」
ハクヤが言うと、イナバはニヤリとする。
「でも見ろよ。あの工場、煙吐いてねぇ。たぶん排気制御完璧なんだろ。あれが冥土の技術ってやつだ。」
「……詳しいな。」
「情報は武器だっつったろ。」
グレイがぽつりと言った。
「……ここで働く人間も、ここで暮らす人間も、全部冥土の中にいる。外に出なくても国が回る。」
その言葉が妙に重かった。
外に出なくても回る国。
それは便利で、強くて、完璧で――そして閉じている。
ハクヤは窓に手を当てた。ガラスは冷たい。けれど、外の光は温かい。日差しが白い廊下を照らし、床に薄い影を落としている。その影すら、均一に見えた。
「……すげぇな。」
ハクヤは素直に呟いた。
「だろ?」
イナバが満足そうに頷く。
三人の目が輝く。
見れば見るほど未来があるように思えた。ここなら強くなれる。ここなら何かになれる。ここなら――守れる。
その時だった。
背後から、鎖の音が鳴り響いた。
――ジャラ……ジャラ……。
空気が変わる。
さっきまで窓の外に心を奪われていた三人の意識が、同時に引き戻される。
金属が擦れる音は、あまりに現実的で、あまりに冷たい。食堂の雑音では紛れたものが、廊下ではまるで警告のように響いた。
イナバが真っ先に肩を強張らせる。
グレイは視線を落とす。反射だ。寮で染み込ませた「余計なものを見るな」という生存本能。
ハクヤだけが、ゆっくりと振り返った。
そこにいた。
白いフードの影。
猫背気味で、顔は見えない。フードが深すぎる。口元まで白い布で覆われ、息遣いも分からない。両手には手錠。そして足首には鎖が繋がっている。鎖の先を、後ろの監視員が面倒くさそうに握っていた。まるで犬の散歩のように――いや、犬よりひどい。
監視員は兵士部門の者だろう。白い制服に赤いライン。腰には警棒と短銃。目が死んでいる。慣れている目だ。こういう“散歩”に。
(……また。)
ハクヤの喉が乾く。
フードの奥から、琥珀色の瞳が覗いた。
その瞳が、まっすぐにハクヤを睨む。
――獣の目。
いや、獣よりも、人間の憎しみが混ざった目。
ハクヤは思わず息を飲んだ。
動けない。
足の裏が床に張り付いたみたいだった。身体が言うことを聞かない。目だけが、その琥珀を追ってしまう。
イナバが即座に目を逸らした。
グレイも同じだ。関わってはいけない。関わったら終わる。そういう匂いがした。
「お前は何故、ここに来た……。」
低い女の声。
布の奥から出てきた言葉は、冷たくて、荒れていた。怒りだけではない。痛みと、焦りと、諦めが混ざったような声だった。
ハクヤは喉を鳴らす。
「え……?」
返事が、間抜けに響いた。自分でも情けない。だが質問を投げられて黙れるほど、ハクヤは器用じゃない。
フードの女は、ハクヤの反応を見て、眉間をさらに寄せたように見えた。表情は見えないのに、空気で分かった。
身長は――ハクヤより一回り小さい。だが、存在は大きい。背丈の差なんて意味がないほど、圧がある。
「……出ていけ。」
その言葉は、命令に近かった。
「は……?」
ハクヤは反射的に聞き返してしまう。意味が分からない。冥土から出ていけ?何故?今日入団したばかりなのに?
その瞬間、イナバがハクヤの袖を掴んだ。
「おいハクヤ、無視しろっつって……!」
声は焦っている。イナバは冗談を言う時の顔じゃない。目が真剣だ。寮で何度も見た顔だ。危険を察知したときの顔。
ハクヤは袖を掴まれたまま、フードの女を見た。
「で、でも……!」
言葉が出る。止められない。相手が危険かどうかより、相手が人間の声で喋っていることが、ハクヤの中の何かを刺激していた。
フードの女は一歩近づいた。
鎖が鳴る。
監視員が面倒そうに鎖を少し持ち上げる。足首の鎖が引かれ、女の歩幅が強制的に制限される。それでも女は進もうとする。
「お前はここから逃げろ。」
今度は少し声が大きかった。
怒鳴っているわけじゃない。だが必死だ。必死に言葉を届かせようとしている。
ハクヤの背中に汗が浮く。
(なんで……俺に?)
初対面だ。なのに、まるで昔から知っているみたいに。いや――違う。女の方が一方的に知っているような言い方をした。
監視員が舌打ちした。
「おい。喋るなって言ってんだろ。」
そう言って、鎖を強く引いた。
――ガンッ!
足首の鎖が引かれ、女の身体が前につんのめる。フードが揺れる。布越しに、短い息が漏れた。
それでも女は顔を上げた。
琥珀色の瞳が、ハクヤを刺す。
「……お前は、ここに来てはいけなかった。」
低い声。
今度は、怒りよりも断言に近い。
ハクヤの胸がざわつく。
(何だよ、それ……。)
「……俺は、試験に受かって来たんだ。」
口が勝手に動いた。
「俺はここで強くなる。冥土の兵士になる。盾になるって――。」
言い切る前に、女の目が細くなる。
それは嘲笑じゃない。怒りでもない。
悲しみだ。
一瞬だけ、琥珀が揺れた。
「盾……?」
女が呟く。
その言葉が、まるで遠い昔の夢みたいに。
「……ここでお前は、盾じゃない。ここでは――。」
女は言いかけたが、監視員がさらに鎖を引いた。
「黙れ、時間だ。」
女の身体が強制的に後ろへ引かれる。足がもつれ、鎖が床を擦る音が廊下に響く。
――ジャラ、ジャラ、ジャラ。
イナバがハクヤの腕を強く引く。
「やめろ!関わるな!お前、初日で詰むぞ!」
「……でも!」
ハクヤは反発する。心臓が早い。頭が熱い。状況が理解できない。
グレイが低い声で言った。
「……ハクヤ。今は退け。」
静かなのに、有無を言わせない声だった。寮で何度も助けられた声。グレイは空気の危険を嗅ぐのが上手い。
ハクヤは歯を食いしばる。
フードの女は、引きずられながらも、ハクヤから目を逸らさなかった。
そして最後に、掠れた声で言った。
「……お前はまだ、何も知らない。」
意味が分からない。
なのに、その言葉だけが胸に刺さる。
女は監視員に引かれ、廊下の角へ消えていく。
鎖の音が遠ざかり、やがて消えた。
残された廊下には、白い光と、巨大な窓の外の青空だけがある。さっきまで輝いて見えた都市が、急に遠く感じた。
ハクヤは息を吐こうとして、うまく吐けなかった。
「……何なんだよ、今の。」
イナバが苛立ったように言い、頭を掻く。
「お前、マジで焦った。ああいうのに目ぇ付けられたら終わるんだって。寮でも聞かなかったか?散歩中のやつは触れるなって」
「……触れてない。」
「触れてなくても目を合わせたら終わる場合があるんだよ!」
イナバの声は荒い。だが、それが冗談じゃないことだけは分かる。
グレイが窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「……メイロポリスは綺麗だ。でも、綺麗な場所ほど、汚れを隠す。」
その言葉に、ハクヤは背筋が冷えた。
(汚れ……?)
さっきまでの感動が、じわじわと不安に侵食される。
ハクヤは拳を握りしめ、窓の外の白い塔群を見た。
(俺は……何も知らない。)
その事実が、初めて怖くなった。
だが同時に、胸の奥に別の感情が芽生える。
――知りたい。
あの女は誰だ。
なぜ俺に「出ていけ」と言った。
なぜ、あんな鎖を付けられている。
なぜ、俺の目を見て悲しそうにした。
ハクヤが口を開きかけた、その瞬間。
廊下のスピーカーから、無機質な声が響いた。
「兵士部門・新規入団者。午後のオリエンテーションを開始する。指定区画へ集合。」
現実が引き戻される。
イナバが舌打ちし、グレイが小さく頷く。
「……行くぞ。」
「……ああ。」
ハクヤは頷いた。
だが歩き出しても、頭の中には琥珀色の瞳が残っている。
鎖の音が、耳の奥でまだ鳴っていた。
――ジャラ……ジャラ……。
冥土の白い廊下は、眩しいほど清潔で、整然としている。
なのに。
その白さの中で、確かに異物を見た。
それがただの異物ではなく、ハクヤ自身の運命に繋がっていることを――。
彼はまだ知らない。




