序章
青空は、やけに澄み切っていた。
雲ひとつない空の下、白を基調とした支給服に身を包んだ青年が、巨大な建造物を見上げている。
その建物は、単なる施設ではない。
都市そのものだった。
高層の白い塔が幾重にも連なり、中央には冥土の紋章を掲げた巨大な主殿がそびえる。周囲には研究棟、兵舎、医療区画、行政塔、物流管制塔、祈祷堂、訓練場、空中回廊が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。道路は整備され、空には飛行船が巡回し、白い装甲車が規律正しく走る。
ここは巨大開発都市メイロポリス。
冥土が建設し、冥土が統治し、冥土が支える国家級都市。
「冥土」
主殿正面の壁面に刻まれたその文字は、単なる団体名ではない。この国の骨格そのものを指している。
ハクヤ――十八歳。
琥珀色の瞳が、まっすぐにその文字を捉える。
「ここが……メイロポリス。」
北の雪深い村フロウエルからは想像もつかなかった規模だ。巨大な白の都市は、まるで雲の上に築かれた別世界のようだった。
彼がここに立っているのは、偶然ではない。
数年前――
村の小さな学校で、教師に呼び止められた日のことを思い出す。
「ハクヤ、お前は身体も強いし、頭の回転も悪くない。冥土の兵士養成寮を受けてみないか。」
その時は、半分冗談だと思っていた。
だが家に帰ると、母が静かに言った。
「あなたならきっと受かるわ。冥土は尊い場所よ。救いの道を歩ける。」
母は信者だった。
白き夜の書を大切に抱え、祈りを欠かさなかった。村が飢饉に襲われたとき、冥土が物資を届けた。盗賊を退け、病を治した。母にとって冥土は神話ではなく現実の救いだった。
ハクヤはその期待を背負い、兵士養成寮に入った。
寮生活は厳しかった。
朝はまだ暗いうちに起床し、走り込み、筋力訓練、座学、銃術、剣術。失敗すれば減点、減点が重なれば退寮。甘えは一切許されない。泣いて帰る者もいた。逃げ出す者もいた。
だがハクヤは残った。
残り続けた。
強くなるために。
そして十八歳――最終試験。
剣術、銃術の模擬戦、体力測定、戦術判断、忠誠審査。
何度もふるい落とされ、最終的に残った者はわずかだった。
その中に、ハクヤはいた。
今日、正式に入団する。
(母さん……俺、受かったんだ。)
誇りが胸を満たす。
主殿前の大広場には、今日入団する者たちが集められていた。
だがそれは兵士だけではない。
白衣を纏った医療部門の候補生。
深緑のラインが入った研究部門の技術者。
灰色の装束の環境・都市開発部門。
黒の細い紋章を袖に刻んだ電子制御部門。
金縁の章を胸に付けた宗教部門の司祭見習い。
経済・物流部門の管理官候補。
ロボット・兵器開発部門の整備士。
メイロポリスは一つの都市国家だ。
冥土は奉仕団体でありながら、軍事、医療、研究、宗教、都市建設、産業、経済、すべてを内包する巨大国家機構。
今日の入団式は、その全ての新規構成員を迎える儀式だった。
白い広場に、数百人が整然と並ぶ。
空からは飛行船がゆっくりと旋回し、冥土の紋章旗がはためく。
壇上に立つのは、上層部の代表たち。
兵士部門長。
医療総監。
研究統括。
宗教長官。
それぞれが異なる色のラインを身に付けながら、同じ白を基調としている。
統一された白。
影を作らない色。
やがて、重厚な鐘が鳴る。
入団式が始まった。
「諸君。本日より汝らは冥土の一員となる」
声は拡声装置を通じて広場全体に響く。
「冥土は奉仕によりて救済を成し、救済によりて奉仕を求む。」
白き夜の書の一節が朗読される。
医療候補生たちが静かに頷く。
研究候補生は真剣な目で聞く。
宗教部門は胸に手を当てる。
兵士候補生は背筋を伸ばす。
全員が違う目的を持ちながら、同じ言葉を共有している。
「汝らはこの国を支える柱である。兵は盾となり、医は命を繋ぎ、学は未来を拓き、祈りは民を導く。」
メイロポリスの巨大な白い塔群が、背後にそびえる。
この都市そのものが冥土であり、冥土そのものが国家である。
ハクヤは拳を握る。
(俺は、盾になる。)
母が信じた救いを守るために。
教師が期待した未来を掴むために。
誓約書への署名が始まる。
長い机が並び、各部門ごとに列が分かれる。
兵士部門は最も人数が多い。
だが医療も研究も決して少なくない。
冥土は軍だけでは成り立たない。
研究が新技術を生み、医療が兵を繋ぎ、宗教が信仰を統制し、都市部門がメイロポリスを拡張し続ける。
この都市は成長し続ける国家だ。
ハクヤは名前を書く。
ハクヤ・ヴェルネ。
所属:兵士部門・一般兵。
ペン先が震えることはなかった。
登録後、全員は主殿内部へ移動する。
内部は外以上に白い。
壁、天井、床、全てが光を反射する。
巨大な吹き抜けホールの中央には、冥土の紋章が床に刻まれている。
周囲の回廊を、異なる部門の人々が行き交う。
白衣の医療班。
資料を抱えた研究者。
端末を操作する電子部門。
装甲車の整備計画を話す兵器開発者。
司祭と信徒。
都市計画図を持つ建設部門。
それぞれが役割を持ち、巨大な歯車の一部として動いている。
(すげぇ……。)
ここは単なる軍事施設ではない。
一つの文明だ。
やがて昼の鐘が鳴る。
「昼食。各部門ごとに移動。」
食堂は、主殿とは別棟の巨大区画にある。
そこへ向かう廊下は、部門ごとの色ラインで区分されている。
兵士は赤線。
医療は青線。
研究は緑線。
宗教は金線。
混ざり合いながらも、秩序は崩れない。
食堂は圧巻だった。
何百人も収容できる広さ。
天井は高く、整然と並ぶ長机。
兵士だけでなく、医療候補生も研究員も同じ空間で食事を取る。
冥土は“奉仕の輪”を可視化するため、部門間を断絶させない。
配膳は機械的に進む。
栄養設計された食事。
味よりも効率。
だが不足はない。
ハクヤは席につき、周囲を見る。
医療候補生が症例の話をしている。
研究部門が新型装置の試作を語っている。
兵器開発の整備士が部品の供給について議論している。
宗教部門は静かに祈りを唱えている。
この都市は、止まらない。
(俺は、この中で強くなる。)
そう思った瞬間だった。
「……おい。お前、早すぎ。」
背後から、聞き慣れた声が飛んできた。
ハクヤが振り向くと、赤線の入った兵士部門の列の中で、二人の男がトレーを持って立っていた。どちらも、あの兵士養成寮で同じ釜の飯を食ってきた同期――顔を見ただけで、身体が少しだけ緩む。
「ハクヤ!」
先に声を上げたのはイナバだ。黒髪で、目つきは鋭いのに口がよく回る。寮で一番うるさく、そして一番周りを見ていた男。何かあると真っ先に情報を拾ってくるタイプだ。
その隣で、少し遅れて会釈したのがグレイ。銀灰色の髪を短く整え、無駄な表情をあまり出さない。寮でも目立つ方ではないが、訓練では必ず上位にいた。静かなのに、妙に頼りになる。
「……イナバ、グレイ。」
ハクヤは小さく頷いた。照れ隠しのつもりで声が少し低くなる。
「おいおい、何その反応。久しぶりに同じ飯食えるのに、もっと喜べよ。」
イナバが勝手に向かいの席へ座り、トレーを置く。
「座っていいのか?」
ハクヤが言うと、イナバは肩をすくめた。
「ほら見ろ、田舎者ムーブ。ここは食堂だぞ?空いてりゃ座る。な?」
グレイは黙って席に着き、トレーを丁寧に置いた。視線だけで「問題ない」と言っているようだった。
ハクヤも席に着く。トレーの上には、先ほどと同じ栄養設計の食事が並んでいる。スープ、パン、肉、野菜。匂いは薄く、色味も控えめで、まるで食事というより処方だ。
イナバがパンを一口かじり、渋い顔をした。
「……やっぱ薄いな。寮の飯の方がまだ味したぞ。」
「寮の飯も薄かっただろ。」
ハクヤが返すと、イナバは笑った。
「それでもこっちは、味がしない薄さだ。違いがある」
グレイがスープを一口飲み、淡々と呟く。
「味より効率だろ、冥土らしい。」
「そうそう、冥土らしいってやつ。」
イナバはその言葉を面白がるように繰り返し、今度はハクヤを見た。
「で?どうだよ、ハクヤ。メイロポリスの感想は。」
ハクヤは少し間を置く。言葉にするのが難しかった。
「……でかい。」
「だよな。」
「俺の村の……何十倍だ。」
「何十倍で済むか?何百倍だろ。」
イナバはケラケラ笑い、箸代わりのフォークで天井を指した。
「空中回廊見たか?あれ、俺たちが寮で走ってた距離より長いぞ。頭おかしいって。」
グレイは淡々と頷きながらも、目だけは周囲を見ていた。食堂にいるのは兵士部門だけじゃない。医療、研究、宗教、建設、物流、電子、兵器開発――部門が違えば制服のラインも違う。会話の内容も違う。空気の流れさえ違う。
「……本当に国みたいだな。」
ハクヤがぽつりと呟くと、イナバが口を尖らせた。
「国みたいじゃない、国だ。メイロポリスは冥土の国。ここに住んでる連中、ほとんど冥土関係者だし。行政も物流も医療も冥土が回してる。」
「詳しいな。」
「寮で暇なときに、掲示板読み漁ってたからな。情報は武器。」
イナバは胸を張り、すぐに表情を緩めた。
「それにしても、ハクヤは相変わらず可愛がられてんな。」
「……は?」
ハクヤの眉が動く。
「さっきから周りの視線、気づいてないのか?あっちの先輩たち、ちょいちょい見てるぞ。」
「見てない。」
「見てる見てる。田舎出身のくせに礼儀だけ妙にちゃんとしてるし、目が真っ直ぐで変に擦れてない。そりゃ可愛がられる。」
ハクヤはむっとしてパンをちぎる。
「俺は別に……。」
「別にって顔してるのがまた。」
イナバは笑い、グレイが小さく息を吐いた。
「……ハクヤは反応が素直なんだよ。寮でもそうだった。」
「グレイまで言うな。」
ハクヤが睨むと、グレイはわずかに口元を緩めた。笑っているのかどうか、ぎりぎり分からない程度の表情。
イナバはスープをすすりながら、急に声を落とした。
「……なぁ。今日の式、兵士だけじゃなかったの、やっぱ変な感じしなかったか?」
「変?」
「だって普通、軍の入団式って軍だけだろ。なのに医療も研究も宗教も全部まとめて入団だぞ。これ、組織ってより国家だよな。」
ハクヤは一瞬、壇上の言葉を思い出した。
――兵は盾となり、医は命を繋ぎ、学は未来を拓き、祈りは民を導く。
確かに、全部が噛み合って一つの都市が動いている。
「……冥土って、すげぇんだな。」
ハクヤが素直に言うと、イナバはニヤリとする。
「ほら、そういうとこ。いい顔するなぁ。」
「うるせぇ。」
ハクヤはフォークを握り直した。少し恥ずかしい。だが、その恥ずかしさは嫌ではなかった。同期がいる。寮で生き残った仲間がいる。これだけで、心の負担が軽くなる。
グレイが肉を切り分けながら、ふと真面目な口調で言った。
「……一般兵は、明日から銃も始まるらしい。」
「銃術か。」
ハクヤは頷きながら言う。寮でも銃は触った。だが、ここで扱うものは別物だろう。戦場を想定した本格的な訓練になる。
イナバが肩をすくめる。
「剣だけでも死ぬほどキツかったのに、銃まで本格とか、俺たち生き残れるか?」
「生き残ったから今ここにいるんだろ。」
ハクヤが言うと、イナバは口を尖らせた。
「そういう正論やめろって。田舎者の癖に正しいこと言うな。」
「田舎者って言うな。」
二人のやり取りを聞きながら、グレイは淡々と付け加える。
「銃の適性、寮でも差が出てた。ハクヤは反射がいい。イナバは……。」
「俺は?」
「……口がうるさい。」
「適性関係ねぇだろ!」
イナバが即座にツッコミ、周囲の兵士候補生が少しだけ視線を向けた。すぐに逸らされるが、食堂の空気はどこか、私語を許すが、騒ぐなという線引きがある。
イナバは咳払いをして声を落とす。
「……でも、銃ってさ。剣と違って、距離があるだろ。」
「当たり前だ。」
「だからさ、戦場ってもっと……。」
イナバは言いかけて止めた。冥土の兵士がどこで戦うのか、あまり軽々しく口にしていい話題じゃない。食堂には他部門もいる。宗教部門の者もいる。情報は漏れる。
ハクヤは、その沈黙を変えるように話題をずらした。
「……寮の先生、喜ぶだろうな。」
イナバが一瞬目を丸くし、すぐに笑う。
「出た、田舎者の優しさ。お前、学校の教師に推薦されたんだっけ。」
「そうだ。」
「母親も信者って言ってたな。家で聖書とか読むタイプ?」
ハクヤの胸がきゅっとなる。母の顔が浮かぶ。祈る背中。手を合わせる指。
「……読む。俺も昔は、よく聞かされた。」
グレイが静かに言った。
「だからハクヤは冥土に憧れてる側だろう。」
「……悪いか?」
ハクヤは少しだけ刺々しく返す。自分でも意外な反応だった。
イナバが慌てて手を振る。
「悪いって言ってねぇよ。むしろ羨ましい。俺なんて、家が貧しくて、入れば食えるってだけで寮入ったし。」
「……俺も、強くなりたいだけだ」
ハクヤはそう言って、肉を噛んだ。味は薄い。それでも噛むほどに生きている感覚が戻ってくる。
その瞬間。
食堂の入口付近が、わずかにざわついた。
空気が冷えたように感じたのは、気のせいじゃない。
イナバがすぐに気づき、声をさらに落とした。
「……来た。」
「何が?」
ハクヤが聞く前に、グレイが目だけで入口を指した。
白いフードの人物。
顔を隠し、口元まで白い布で覆い、手には拘束具。付添いの兵士がついている。歩く速度は遅い。だが、周囲の兵士の緊張は明らかだった。護衛というより、警戒。
ハクヤの視線が吸い寄せられる。
(……さっきの。)
あの、琥珀色の瞳。
イナバが低く呟く。
「見るなよ。面倒になる。」
「……知ってるのか?」
「寮の先輩が言ってた。“散歩中のやつ”には関わるなって。あれは一般の兵士じゃない。」
グレイが短く言う。
「……危険度が違う。」
危険度。
その言葉に、ハクヤの背筋が僅かに冷える。
だが視線は逸らせなかった。
フードの奥――ほんのわずかな隙間から、琥珀色の瞳が光った。
そして。
その瞳が、一瞬だけハクヤに向いた気がした。
胸の奥が、ざわ、と動く。
理由のない違和感。既視感。血が騒ぐような感覚。言葉にならない何か。
「……おい、ハクヤ。」
イナバが眉をひそめる。
「お前、まさか……目合わせた?」
「……分からない。」
グレイが小さく息を吐いた。
「……分からないなら、もう見ない方がいい。」
ハクヤは喉の奥が乾くのを感じた。スープを飲み干しても、熱は消えない。食堂の空気は、また元の機械的な静けさに戻っていく。だが、ハクヤの中には戻らないものが落ちた。
(なんだ、今の……。俺に何か……あるのか?)
イナバはわざと明るい声を出し、場を戻すように言った。
「ま、飯食え。午後は銃も装備も説明あるらしいし。今日から一気に兵士だぞ、俺たち。」
「……ああ。」
ハクヤは頷き、パンをちぎった。
拳を握る。
(強くなる。)
銃も剣も。
この国家機構の歯車の中で、自分の役割を果たす。
そう決めたはずなのに――。
胸の奥のざわめきだけは、消えてくれなかった。




