15 先生からの『ご褒美』
俺は、学院から西へ最も近い素材市場を選び、秘密の調査活動を開始した。
最も近いと言っても、歩いて二キロ以上はある。
なにせ、学院は帝都の郊外に建てられており、賑やかな商業区からは、それなりに距離があるのだ。
帝都の素材市場は、アクシアのそれとは比べ物にならないほど巨大で、人の往来も桁違いだった。
ここで扱われる素材の種類もまた多種多様で、アクシアでは見たこともないような希少な素材や高級な加工品が、当たり前のように並んでいる。
もちろん、帝国の心臓部であるプレトリウムの物価は、度肝を抜かれるほど高かった。
アクシアではありふれていた製品の多くが、ここでは少なくとも三倍の値段で売られている。
帝都の経済水準の高さもさることながら、ここで売られている素材の大半が、帝国各地、あるいは国外から輸送されてきたものであることが、その主な理由だろう。
高額な輸送費や関税は、当然、価格に上乗せされる。
店の賃料に至っては、言うまでもない。
今うろついている、商業区の最も外れに位置するこの市場でさえ、店の賃料はアクシアの少なくとも五倍はする。
これが都心部ともなれば、もはや想像もつかない。
前回同様、一般客を装い、足早に店々を渡り歩き、こっそりと価格を頭に叩き込み、物陰に隠れては、それを急いで手帳に書き留めていった。
だが、ここの市場はあまりにも巨大で、すべてを調べ尽くすには、五、六日はかかるだろう。
仕方なく、代表的な店をいくつか駆け足で重点的に調べるにとどめ、他は断腸の思いで諦めた。
それでも、手帳はあっという間にページが足りなくなった。
空が徐々に暮れ始め、さすがに何日もここに滞在するわけにもいかない。
俺は手帳を閉じ、学院へ戻ろうと踵を返した。
その時、背後から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あら、アレックスくん。随分と楽しそうじゃない?」
勢いよく振り返ると、そこには赤い髪のお姉さんが壁にもたれかかり、人を食ったような笑みでこちらを見ていた。
ヴォ……ヴォルテール先生!?
なんでここに!?
やべっ!以前、サボるなと釘を刺されていたのに!
現行犯じゃねえか!
どうする、どうする!
「す……すみません、先生!私は、その……市場調査を……借金返済のために、その……」
恐怖で全身が震え、その場で土下座しかけた。
だが、予想に反して、先生の表情に怒りの色はなく、むしろ、楽しそうに笑みを深めた。
「勤労学生なんて、感心な子ね。いいわ、その努力に免じて、ささやかな『ご褒美』をあげる。」
「え?」
「さ、一緒に帰りましょうか。」
有無を言わさず、俺は先生と共に学院へと連れ戻された。
そして、案の定、先生が丹精込めて用意してくれた「ご褒美」――D級の木製ゴーレム――をいただくことになった。
「今夜はこいつを倒すまで寝かせないわよ。」
先生は涼しい顔でそう言い残すと、訓練場を後にした。
残されたのは、普段の訓練用ゴーレムより、何級も格上のそいつと、途方に暮れる俺だけだった。
その夜、俺はそいつに、文字通り殺されかけた。
血まみれになったのは言うまでもなく、全身数カ所を骨折し、何度か意識を失いかけた。
A級の治癒師が常に待機してくれていたものの、その痛みは、これまでのどの特訓よりも、遥かに強烈だった。
最後の力を振り絞り、ゴーレムの核を剣で貫いた時、空は白み始めていた。
数時間後には朝練が待っていると思うと、割れるような頭痛がした。
その夜、半殺しの目に遭わされたにもかかわらず、起業のことは諦めきれなかった。
たった一日の調査では、情報が全く足りない!
俺は、もう何度か、無茶を承知で決行することにした!
再び捕まるのを避けるため、わざと人通りの少ない裏道を選んだり、夜陰に紛れて抜け出したり、休日以外の昼休みを削って調査に出たりと、様々な手を尽くした。
時には、もはや原型を留めないレベルで変装までした。
だが、そんな小細工は、全くの無駄だった。
抜け出すたびに、まるで幽霊にでも出くわしたかのように、必ずヴォルテール先生と「ばったり」会ってしまうのだ。
そして先生は、いつも初めて会ったかのように、あの人を食ったような笑みを浮かべるのだ。
「本当に、悪知恵だけは働くのね。」
捕まった後の顛末は、一度目と同じくらい、いや、それ以上に悲惨だった。
前日の訓練メニューを、倍の難易度でやらされたり、転がり落ちてくる岩石の陣を、木剣一本で受け止めさせられたり。
ある時は、強烈な重力魔法をかけられた状態で、ゴーレムの攻撃を15分間耐え続けさせられたこともあった。
毎回、半死半生の目に遭わされ、普段の地獄のような授業が、むしろ「優しく」感じられるほどだった。
もちろん、何度も謝罪し、どうかご勘弁をと懇願した。
だが、先生はいつも、「あら、あなたは何も間違っていないわ。私も罰を与えているつもりはないのよ。ただ、あなたの才能が埋もれてしまうのが忍びなくて、特別に『強化訓練』を施してあげているだけ」と、悪魔のような笑みで言い放つのだった。
しかし、これらの「強化訓練」は、筆舌に尽くしがたい苦痛をもたらした一方で、俺の実力を飛躍的に向上させたのも事実だった。
少なくとも、自分では、特別クラスの他の生徒たちより、頭一つ抜け出し始めたと感じていた。
これが「最後」と心に決めた調査を終え、またしても地獄の特訓を完遂させられた後、ベッドに倒れ込み、ようやく、本格的な起業準備に取りかかれる、と思った。
だが問題は、市場調査の時間すら、まともに捻出できないこの状況で、それ以上に時間も労力もかかる起業活動など、どうやって進めればいいのか、ということだ。
俺は、食堂で四人の仲間たちにこの件を相談することにした。
これまでの経緯を話すと、全員が、あんぐりと口を開けていた。
「お前、頭おかしいのか!」
「ただのドMじゃねえか!」
ボルグとテオが、驚愕の声を上げた。
「でも、判断は間違っていないわ。事業を始める前に市場調査を徹底することは、初期コストを抑制する上で不可欠よ。」
フレイヤは冷静に分析する。
他のメンバーも、自分たちでは到底できないことだと、口々に賛同してくれた。
その後、今後の計画について話し合った。
現状、学外で起業するのは、どう考えても非現実的だという結論で、皆の意見が一致した。
「あの……まず、学内でサークルを立ち上げるのはどうでしょう?サークル活動という名目なら、先生方も、少しは寛容になってくれるかもしれません。」ルナが提案した。
「それだ!サークルを利用すれば、時間の融通が利く普通クラスの生徒たちに、仕事を手伝わせることもできるぞ!」
すぐにその案に飛びついた。
そして、休日の朝、俺たちは連れ立って、学生課へと向かった。
「サークルを立ち上げたい、だと?何をするつもりだ?」
いかにも融通が利かなさそうな、おばあさんが、厳しい顔で問い詰めてきた。
「えっと……商業交流活動と言いますか……その……」
「学業に関係のない活動は、一切認めん!」
「い、いえ、全く関係ないわけでは……その、魔物の素材を収集しに……自己鍛錬も兼ねて……」
「学内での私的な物品の取引は、一切認めん!」
「ち、違います!学内では取引は……」
「教員の同行なき、学外活動は、一切認めん!」
終わった!このおばあさん、鉄壁すぎる!
失意のまま学生課の扉を出た時、目の前に、意外な人物が現れた。
「あら、平民の皆様。何かお困りのようですわね?」
イザベラ・フォン・ローレンツ。
美しい紫色の巻き髪が特徴的な、貴族の少女だ。
特別クラスの同級生で、フレイヤと同じく、ヴァレリウス先生の指導を受けている。
「なんで、ここに?」
「たまたま通りかかったら、皆様が少しお困りのようでしたので。よろしければ、このアタシが、一肌脱いであげましょうか。」
彼女は、完璧な淑女の笑みを浮かべていた。