【第七章】2027年6月11日 紅い星(アイスの物語)
「仰っておられる意味がわかりませんわ」
玄関内に入ってドアを締めてから、わたしはそう答えた。
「ふん。あくまでもシラを切るわけですか」
謝雨萌が上目遣いに睨む。彼女はわたしよりも10センチほど背が低い。
メガネの奥のジトッとした目と、尖らせた口元。室内用のヘアゴムで無造作にまとめただけのひっつめ髪には、まだ20代なのに白髪が2本。
冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
謝雨萌──この陰険な監視者が、どれだけの情報を持っているのか。まずは知らなくてはならない。
「お言葉の意味を図りかねます」
「じゃあ質問を変えましょうか。……神社はお好きですか?」
わたしはかろうじて、表情を変えずに済んだ。
ただ、非常にまずい。
自分の失敗である。
宿舎内や大使館内はともかく、外でわたしは追跡されていないはずだ。自分なんかに、中国の限りある海外諜報のリソースが割かれるはずがない。過去2年半の経験上、そう思ってきた。だが、考えが甘かったのだ。
「……だんまりですか。まあいいでしょう。時間はたっぷりとあります。あなたは逃げ隠れもできませんからね。同志」
謝雨萌は酷薄そうに笑うと、呆然と立つわたしの側をすりぬけて出ていった。地下1階の集積所にゴミを捨てに行くのだろう。
人生で最大の危機だ。
考えろ──。
■
謝雨萌。わたしより3歳年上の29歳。
広東省中山市出身。中国共産党員。広東大学のマルクス主義毛沢東思想学院修士。
実は彼女は外交官ではない。
党中央機関紙『人民曰報』の駐日特派員である。
それなのに大使館宿舎に住んでいる理由は、政治的に正しいため。党の若手理論家として知られた人物だからだ。
直近の論文はたしか「新時代中国共産党員における革命的同志愛の実践路徑」。党理論誌『求事』に寄稿したものだ。近年の中国ではあまり聞かない「同志」という党員同士の呼称も、彼女は日常的に好んで用いる。
思想的には、現在の主席のイデオロギーに極めて忠実である。近年強まる「主席」自身に対する個人崇拝については、党員の間でもひそかに意見が分かれているのだが、謝雨萌は熱烈に賛意を示している。
わたしのおじさまである白錫来は、かつて「主席」との関係が微妙だった。そのため大使館側は、わたしと徹底的に相性が悪い人間をわざとルームメイトに選んだのだろう。
イジメ人事としては最適の人選だ。むしろ感心したくなる。
そのため、彼女が「神社」を知ったのは危険だった。
わたしと監視対象との私的な交流について、謝雨萌はしかるべき部門に確実に報告する。単なる服務規程違反にとどまらず、スパイ容疑その他の面倒な罪状もあれこれと騒ぎ立てるはずだ。
──本国召喚。処分。
比較的マシな場合でも、庶務雑務科どころではない再度の左遷は確実だ。ヒマラヤの中印国境紛争地帯の渉外担当アシスタントや、ミャンマーの中国系軍閥の駐在担当者の部下に回されるなら、まだまし。最悪の場合は10年以上の投獄である。おばさんになるまで牢屋ぐらしだ。
自分の脇の甘さを悔やむ。
しかし、わたしがなにをやったというんだ。あんな部署で20代の日々を潰されて、誰も評価しない非人間的な張り込み作業を強いられて。それが限界になって、翔平と話すようになっただけだ。他に悪いことなんかなにもしていない。
……いっそ、亡命しようか。
ふと思った。でも、どこへ?
日本政府は当てにならない。アメリカかEU主要国の大使館に駆け込むしかないだろう。しかし、仮に政治交渉で中国側に身柄を引き渡された場合、自分の立場はもっと悪くなる。元の罪状に逃亡罪や国家背反罪が加算されれば、終身刑も覚悟しなくてはいけない。
わたしは友だちがほしかっただけなのに。
なぜ、そんな処分を受けなくてはならないのか。
■
心の動揺をおさえて靴を脱いだ。
短い廊下を経て、共有スペースであるLDKのドアを開ける。
テーブルの上に、ストローを刺した王老吉(中華ドリンク)の缶。隣に未開封の角形2号封筒が5〜6通。
通常、わたしが9時台に帰宅することはまずない。なので、謝雨萌はさっきまでここで寛いでいたのだろう。共有スペース奥にある彼女の自室のドアも、めずらしく開きっぱなしだ。
郵便物の山に、わたし宛のものは混じっていないか。
いまさらそんなものを見ても仕方ないのだが、気持ちを落ち着かせるために手を伸ばした。
……あれ?
封筒の下に、薄い冊子がある。
なにかのパンフレットか、と思ったが、表紙に少女漫画風? の美しいイラストが描かれていた。
漫画?
わたしは生い立ちの関係で、子どものときから漫画やアニメをほとんど見たことがない。日本赴任が決まってから、文化理解と語学習得のために『名探偵コナン』や『君の名は。』に触れた程度だ。なので知識はかなり浅いのだが、日本の漫画はコンパクトなサイズの厚い本が多いイメージがある。
冊子を手に取ってみた。どこにもバーコードがついていない。
こんな形式のものは初めて見──。
バタン。
慌ただしい足音とともに、いきなり廊下のドアが開いた。
「その……。手を、離せ」
謝雨萌だった。
慌てて戻ってきたのか、左手にゴミ袋を持ったままだ。息が上がっている。
「なんですか? 謝記者」
「離せっつってんだろ!」
ゴミ袋を置いて近づいてきた。
無視して冊子を開く。最初は扉絵。
鬼気迫る形相の謝雨萌に背を向け、慌ててページをめくった。
自分はこれから、彼女の手で政治的に抹殺される可能性が高い。
そうである以上、わずかでも牽制の材料になるカードがあるなら、それにすがりたい。
……え。
なぜ?
冊子には、いかがわしい漫画がびっしりと描かれていた。
??
しかも、男性同士の???
■
「……謝記者、いいご趣味ですね」
そう話しかけた。
自分の手のなかにある漫画と、以前に報道で読んだ中国国内の事件が頭の中でつながったからだ。
──耽美。もしくはBL。
2024年、この分野の小説の作家が中国各地で50人以上も逮捕されている。なかには4年半の懲役刑を受けた例もある。
目にしたのは初めてだが、おそらくこの奇妙な漫画はその実物だ。
「極度に低俗で、扇情的な書籍の閲覧と所持。あなたはわたしに、生活指導をおこなえる立場なのですか?」
できるだけ明瞭に、ゆっくりと話す。
ここは大使館員宿舎だ。当然、個々の室内にも国家安全部門が盗聴器を設置している。
「日本赴任の結果、謝記者に深刻な精神汚染が生じた──。これは党員の修養を考えるうえで大きな問題になりますよ?」
これ以上、声に出して喋られると謝雨萌も困るだろう。
耽美漫画の所持くらい、大した事案じゃない。それはわたしもわかっている。ただ、ことと次第によっては、若手党員の政治的ダメージになり得る問題なのだ。
軽微な逸脱はおたがいさま。そういうことで、わたしの事案と相殺とはならないか。
「うっせえっ。低俗とは何だ! 返しやがれっ!!!」
判断を誤った。
謝雨萌が逆上し、なりふり構わず殴りかかってきたからだ。
左手の握り拳が顔に飛ぶ。
本人は必死の形相だが、子どもがポカポカと殴るようなパンチだ。
避ける。
第2撃がくる。
避ける。
3撃、4撃──。
ずっとこの調子だった。
やむをえない。制圧しよう。
幼少期からの習い事で、護身術の散打をかじったことがある。
稽古は十年近くご無沙汰だが、スポーツは得意なほうだ。
身体の動きは覚えているつもりである。素人相手ならたぶん通用する……と、思う。
第5撃。
右肘を下げて格擋し、パンチの軌道を横にそらした。
そのままスッと相手の懐に入る。
左肘で思い切り当て身を仕掛ける。
哈!
衝撃。
……まずい。失敗した。
力の加減がわからず、やりすぎてしまったのだ。
■
「ごめんなさい! 大丈夫!?」
謝雨萌は半開き状態のドアにふっ飛び、そのままよろけて自室内の本棚にぶつかって崩れ落ちた。衝撃で何冊か書籍が落ちる。『社会主義核心価値観実践過程』『主席新時代媒体人士工作指南』。いかめしい本ばかりだ。
「……馬鹿野郎」
謝雨萌が呻いた。
すぐに立てないようだ。ケガの確認と応急処置をしたほうがいい。
「……やめろ。来るな。入るな」
救護を拒否しているが、構わず近づく。
望まぬ同居がはじまって2年半。彼女の自室に入るのは初めてだ。
わたしは足を踏み入れ──。
息を呑んだ。
「BL主義♡核心価値観」
毛筆で大書された横断幕が、デスクの前の壁に貼られていた。
その下には、ディアルモニター構成の巨大なデスクトップMacとペンタブ。
他の壁には、さっきの冊子と似たような絵柄の、頬を染めたアニメ調の美青年を描いた巨大なポスター。
室内には本棚が並んでいるが、党の書籍があるのは、彼女がぶつかった1棚だけだ。残りの蔵書はすべて、コミックス、作画資料集、薄い冊子。棚の空きスペースにはフィギュアやアクリルスタンドが几帳面に並んでいる。
なにより、目を引いたのはMacだった。
「6/22 夏コミネ一ム缔切」
「CP案 前总理×主席◎ 美总统×主席◯」
「落败病娇攻 × 高位孤独受」
日本語と中国語が交ぜ書きになった、意味不明なポストイットメモで飾られたディスプレイに、漫画の表紙が表示されている。
作者名は「Red★Star」。
そこに描かれた人物は、中国人なら誰もが知る──。
「すべてを見たな。貴様」
謝雨萌はそう言って、よろよろと立ち上がっていた。這いずるように部屋の奥に向かう。さっきの衝撃で足元に落ちたアニメキャラクターのアクリルスタンドを拾い上げ、傷がないか確認してから大事そうに本棚に置き直す。
■
「あなた……。自分の行為を、理解しているの?」
ようやく、絞り出すような声が出た。
漫画の単純所持どころではない。
この女は制作する側だったのだ。
しかも内容は──。
党と政府の指導者を、極めて不健全な描写で表現したもの。
その冊子を印刷して頒布。
仮に露見すれば、わたしの左遷どころではない超法規的な処罰が下る。裁判もなく拷問を受けるおそれが強い。その後、仮に釈放されたとしても、正気を保って社会生活を送ることは不可能だろう。
いったい、この人はなにを考えて──。
「抜けるからだよ」
謝雨萌が言った。よくわからない。
「主席、むちゃくちゃエモくてシコいんだよ! しょうがねえだろうがっ!」
党、国家、イデオロギー。そんなものは知ったことか。自分の人生の最優先順位はBLにある。好きな漫画を描き、自分が美しいと思うものを作って何が悪い。
おおむねそういった内容の主張を、謝雨萌はとんでもない早口で喋り続けた。
「貴様にはわかんねえだろうけどなあ、見ろよあたしのPixavに寄せられたフォロワー3万人のコメントを! 『主席と前総理の悲恋に本気で泣きました』『先生の作品で人生変わりました』だぞ? あたしはなあ、あたしって人間はなあ…!」
彼女のケガは重くなかったんだな、と、場違いなことを思った。
「極北ジャンルの中国現代政治ナマモノを描きながら、こってりした激エモ激シコ作品で世界のBLファンを唸らせる天才覆面同人作家──。革命的同志愛の伝道師・レッドスター先生とはあたしのことだッ!」
▪️
わたしはしばらく沈黙して、考えを巡らせた。
状況を把握しづらい。だが、そうしたときは原則を踏襲するしかない。
「……ごめんなさい。党員として、あなたの行為は看過できない」
こう、言わざるを得ない。
「ああ、外面はいい子ちゃんのお前らしいな」
「いい子であろうとなかろうと、それ以前の問題です」
謝雨萌は「……問題、ねえ」と意地悪く笑った。
「監視対象のイケメンと昼間からハメまくってるクソビッチが、言えた立場か?」
は?
「事実無根です。取り消して」
「はいはい。そういうリアクションいらねえから」
謝雨萌がマウスに手を伸ばし、画像フォルダを呼び出した。
主席が描かれた耽美漫画にかわり、一眼レフで撮影したらしき高画質の写真が大きく表示される。
タイムスタンプ、6月4日 15:35。
場所、東京都台東区湯島。
「例のドローン事件のとき、上から現場を見に行けって言われたんだわ。そしたら、湯島のラブホから出てくるところを文春砲だ。マスクしてるけど、間違いなくおまえだよな?」
言葉が出ない。
「あたしを党に報告する? やりゃあいいじゃねえか。だが、死なばもろともだ。白家のお姫様の規律違反と性的放縦、党にきっちり暴露して共倒れにしてやる」
「待って。違う」
「お互い、次に会うのは新疆ウイグル自治区の収容所だな。あっちでルームメイトになったときは仲良くやろうぜ」
▪️
「ごめん。誤解があると思うの。謝雨萌さん、聞いて!」
わたしは叫んでいた。
「あーあ、マジめんどくせぇ。普段から『ワタシは庶民とは違います』って顔でエラそうにツンケンしてるヤツは、往生際が」
「違う」
「違うもクソもあるか。周囲の人間、ぜんぶ見下しやがって。みーんな、てめえにムカついてんだよゴミ貴族が。……ジジイが革命の元勲? ドラ息子のオッサンが失脚して全部パーじゃねえか。いつまでお姫様のつもりだ?」
「……思ってない。そんなの」
つらい。
自分の生まれや日々の振る舞いを、面と向かってここまで罵倒されたのは初めてだ。でも、みんな本当はそう思っているのかもな。
「でも、あの人は本当に違うの。高田さんは、あの」
「友だちです、ってか? 不倫がバレた清純派アイドルかよ」
「……本当に、友だち」
「バッカじゃねえの? てめえなんか、ハメたい男はいても友だちになるヤツなんていねえよ。知ってんだぜ。幼稚園から大学までの友だちは全員、党と一族が決めた『ご学友』だったってな。人民曰報に入った後輩から、全部教えてもらってっし」
ぽたり。
足元になにかが落ちたことに気づいた。
あれ。
だめだ。わたし。
「今度は泣き落としか? でもなあ、てめえが泣いたときに機嫌取ってくれた連中も、ぜーんぶ『ご学友』だから。党の命令で嫌々やってただけだから。てめえに友だちなんて、一生──」
「いるもん」
「います」
「いるの!」
ここからはよく覚えていない。わたしはどうやらその場でへたり込み、ぎゃんぎゃん泣いてそう言い続けたようなのだ。
「もう、誤解されたままでもなんでもいい」「党に言えばいいじゃない」「新疆でもどこでも行ってやる」「でも、いるの」「友だちは」
■
いつまで嗚咽し続けていたのか。
しゃくりあげていたわたしは、目の前のハンドタオルに気づいた。
「……あたしも正体がバレてテンパった」
なによ。うるさい。黙れ。
「お豆腐メンタルのお子様を、多少いじめすぎた気がせんでもない。後生が悪くなりそうだ」
反論したい。
わたしは過去にこんな泣き方をしたことはない。カフェで翔平が撃たれたときだって、もうちょっとしっかりしていたはずなのだ。
「あー。おまえやっぱムカつくわ。限定のグッズに鼻水ついた」
ハンドタオルを見ると、露骨にあられもないデザインの裸の男性が描かれていた。わたし、こんなもので顔を拭いたのか。
だが、気持ちはすこし落ち着いた。
「あの。思ったんだけど、いいかな」
「なんだよクソビッチ」
「その解釈は否定します。でも、よく考えたら、あなたは好きな漫画描いてるだけだし、わたしは友だちとご飯食べてるだけだし。これって他の国の人だったら普通だと思うので……。密告合戦、やめない? ばかばかしい」
「相互不可侵条約か。それでいいんじゃね」
「でも、どうしよう? 部屋の盗聴器。会話をだいぶん聞かれたと思うんだけど」
「心配ない。装置は全部、仲間の手で外してもらっている」
謝雨萌──すなわちレッドスターは、メガネをかきあげてポーズを取った。
よくわからないが、たぶんアニメの人物の仕草なんだろう。
「宿舎の盗聴担当の陳さん、重めの腐女子だからな」