【第六章】2027年6月11日 中国大使館(アイスの物語)
「……おい白ぅ、仕事しろよ仕事をよお」
宋科長のダミ声が降ってきた。
彼は話しかけてくるときに必ず身を乗り出し、わたしの髪や肩にわずかに触れる。明らかに故意だ。
気持ちが悪いので、わたしは宋科長が去るたび、服の触れられた箇所をこっそりウェットティッシュで拭いたり、トイレで髪にスプレーをかけたりしている。饐えたニンニクの口臭と加齢臭が染み付かないか心配なのである。
「申し訳ありません。しっかりやります」
口ではそう言っておく。
心を無に。ほぼ自動応答だ。
実のところ、「仕事」はとっくに終わっている。
8月に1泊2日で河口湖に行く、中国大使館員宿舎の団建──つまり、寮の慰安旅行のスケジュール作成。
バス手配は先週済ませており、今日は席決めと班割り、カラオケの順番の決定だ。各部門の領導幹部の持ち歌を重複させない配慮が必要となる。夕食はお刺身だが、苦手な人でも大丈夫なように中華料理も出さなくてはならない。宿泊先は大使館とコネを作りたがっている在日中国人経営のホテルだ。コックは全員中国人なので、そこはクリアできて……。
わたしはため息をつく。
──予定、団建2日目の朝礼。
ホテルのホール内で愛国歌『歌唱祖国』を全員で合唱した後、河口湖畔で人民広播体操。すなわち中国版ラジオ体操をおこなう。
傍目からはどう見てもあやしい集団だ。日本人から祖国がいっそう誤解されそうで心配になる。だが、中日間に国交が樹立された1970年代から続く大使館の伝統なので、変えられないらしい。
わたしは今年も、全員の前で声出しと模範演技をやらされる。
もはや左遷も3年目になると、他の館員たちの冷笑と憐憫が入り混じった目線を気にしない覚悟はできているが。
心を無にして過ごすのだ。もう慣れたはずなのだ。
──そう。わたしは慣れた。
中華人民共和国駐日大使館、総務部庶務雑務科。
他の仕事は館内のトイレットペーパーの補充、公用車の給油、清掃業者との調整、田舎の地方幹部の来日アテンド、華僑団体の避難訓練の通訳、その他の一切もろもろの雑用である。
「白ぅ、お前は愛想がないんだよ。いつもツンケンしやがって」
「もっと、日本の女みたいにニコニコして男を立てられんのかあ?」
宋科長ががなる。あなたが知ってる「日本の女」って、そういうお店の方々だけでしょ、と心のなかで思う。
彼はまさに庶務雑務科でしか生きていけない外交官だ。二十年ほど前に異性問題で失脚した人物らしく、わたしがセクハラ、パワハラ、といった不愉快な日本語の語彙を覚えたのは彼のおかげである。
通信内容が完全にモニタリングされる中国大使館のパソコンで、勤務中にいかがわしい動画や性風俗店のサイトを平気で見ているのはこの人くらいだ。官僚人生がはじめから終わっている人に、党内規律違反という概念は適用されない。なぜ、わたしのおじさまが処分されて、この人は無事なのか。考えても仕方がないことだけれど。
「あーと、なんだっけえ? お前の監視対象の山田とかいうやつ」
先日はそんなことを言っていた。誰なのよ山田。宋科長は過去2年半、わたしが提出し続けてきた翔平についてのレポートをほとんど読んでいないのだ。
他の科員たちも無気力な空気を漂わせている。
朝に『人民曰報』を読んだ後は、一日中ショート動画の健康情報を見ながら手足の爪を切っている老劉。
大使館内の男女関係の情報だけは異常なリサーチ能力で調べ上げ、あちこちで言いふらしている中年女性の楊喇叭。
中国共産党員なのになぜかDS陰謀論とオーガニックにはまり、口を開くと新世界秩序と小麦悪玉論の話しかしない王大師。
ああ、一人だけ英語の達人の李姐という女性がいる。テレビにも出ていた外交部スポークスパーソンの元夫が17歳年下の新人外交官と不倫して失脚し、とばっちりで左遷された気の毒な人だ。
李姐は科内で唯一、仕事ができて尊敬できる女性だ。だが、負のオーラがものすごすぎて、近寄るだけで気分が沈む。
わが科の館内でのあだ名は「島流し科」。
もしくは「元麻布の産廃ヤード」である。
■
しかし──。
先日、わたしは久しぶりに必死で報告書を書いた。
あの6月4日テロ。東京都内の犠牲者は合計214人。
同日午後11時59分に一切の動きがウソのように停止するまで、各種の攻撃は猛威を極めた。
インフラ混乱、ドローン襲撃、EV車の自動運転暴走。加えて夜には、都内のファミリーレストラン「すまいるらーく」12店舗で、中国製の配膳ロボがハックされる事件も起きている。
おなじみのゆるキャラ的な配膳ロボの顔画面が、突如として「64」の数字に変わり、ドローン銃撃で客を皆殺しにすると大音量でアナウンスしたのだ。
現象が起きたのは建物の2階以上にある店舗だけだった。帰宅難民で満席の店内はパニックになり、階段に殺到した客たちが将棋倒しになり死者が出た。他にも、逃げようとした客による窓ガラスの破壊、そこから飛び降りた人の骨折、無人のレジの窃盗などの被害も報じられている。
群集行動操作テロ。避難者の密集地帯にデマを流すだけで、1発の銃弾も使わずに被害を生じさせる。カフェを襲ったドローン乱射テロ以上に、従来の世界であまり例をみない手法だった。
他にも報告すべき事案は多い。
なにより攻撃者だ。例のシーラとかいう嫌な女が攻撃に関与したこと、新中華界域がその主体であることは、おそらく間違いない。その首魁である王昊天、すなわちH・T・ワンの素性や思想傾向についても、しっかり洗い出す必要がある。
彼らの東京攻撃は一種の演習だった。ならば今後はどんな「本番」が──?
「あー、白。わかったから、読んだ読んだ。だがなあ、びっくりスパイ大作戦はうちの部署の仕事じゃないんだわ」
この人は絶対に読んでない。
情報の重要性を考えて、大使館内にいるインテリジェンス関連の人員に匿名でメールを送ろうかと思ったが、万が一に身元がばれた場合のリスクを考えて踏み切れなかった。
部署横断的な行動は、官僚社会では喜ばれない。なにより、自分のそうした行動から、白家の復権を望むような政治的意図を勘ぐられると困ったことになる。
「だいたい、当の日本人も大して気にしてないのに、お前が気にしてどうするんだ?」
これは宋科長の言う通りだった。日本国内の事件関連報道は、数日で沈静化していたからだ。無用な社会不安をあおらない目的があるのか、この国におけるテロ系のニュースは賞味期限が短い。
やがて事件の4日後、朝ドラ女優と人気キャスターと女性国会議員の不倫問題が3件連続で明らかになったことで、いまや報道の7割はこの話題に変わっている。喉元過ぎれば熱さ忘れる。日本のことわざはこれで合っていたっけ。
「美人議員の不倫はビビったなあ。真面目な女ほど乱れんだよなあああ」
自席でYahoo!ニュースを見ながらデリカシーなく騒ぐ宋科長を、不倫され妻の李姐が殺気のこもった目でにらむ。ゴシップワードを聞きつけた楊喇叭が立ち上がる。老劉と王大師はそれぞれ動画を見ながら意識をとおくに飛ばしていて──。
わたしは再び、大きくため息をついた。
時刻は午後5時前。勤務時間がようやく終わる。ここからは任務だ。
■
「……ゆるブラックとか、そういう系じゃねえの? おまえの部署」
「あ、日本語ではそう言うのね。それよ、ほんとそれ」
夜の神社。浅草橋。
わたしは右手に使い捨てのビニール手袋をはめて、つかんだ肉を直接かじりながら翔平に言った。
麻辣兔頭。
ウサギの頭の四川風煮込み。
この人は毎回、中華系フードデリバリーで絶妙にやさぐれたメニューを頼む。でも、おいしいのだ。
──あの日以来、わたしは翔平と普通に話ができるようになった。
例のカフェで大泣きをしてしまったし、翔平もご両親のノートが消えた後はかなり動揺していた。そのうえ、次から次に緊急事態が起こり続けた。
非現実的な状況が繰り返されるなか、ひとまず頼れる人間は相手しかない。おたがいに距離を取ることを忘れていた、というほうが実態に近い。
さすがに例のホテルからは──シーラが消えてから慌ててチェックアウトすることにして──気まずかったので口元にマスクをつけ、裏口から一列縦隊で出たのだが。
その後、翔平は綾瀬の自宅まで徒歩で帰り、わたしは任務の必要上、ついて行った。もはや慣れているので、覚悟を決めれば10キロ程度の道は歩けるのだ。
道中でも、スマホにはうんざりするニュースが届き続けた。
なので、シーラの正体やテロの性質、翔平の人体得意効能について……といった真面目な話もかなり喋った。ただ、道のりが長かったので、どうでもいい話もたくさんした。
同夜は、あらかじめ予約しておいた彼の自宅近所のビジネスホテルに、自分一人で投宿。去り際に「デスマ明けの戦友みてえだな」と言った翔平に、わたしは「うん」と答えた。
自分でもそんな気がしたのだ。
なるほど。人間同士の対等な関係とは、こんなふうに構築されるのか。でも、ブラック企業に勤めていない人たちは、世間でどうやって友だちを作っているのだろう?
こちらはわたしの今後の課題である。
「でも翔平、今週はずっと、退勤が異常に早いよね。日没前に会社を出たのを見て、最初はクビになったかと思ったよ」
缶チューハイを一口飲んで言った。
もう緊張していないから、今夜は飲みすぎることはない。たぶん大丈夫だ。
「例のサイバーテロだよ。納品したばっかりのドローン宅配事業も、その次に入ってた地方都市のスマート化事業ほか数件も、プロジェクトが全部吹っ飛んだ」
テロの結果、日本社会では「ITはこわい」みたいな意見が盛り上がり、官公庁がその手の案件を軒並み凍結したらしい。
日本人のこうした思考パターンや政府の場当たり的な意思決定は、いまだによく理解できない。もっとも翔平も「マジで意味わかんねえ」らしいのだが。
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「とにかく、会社がホワイトになってよかったじゃない」
「いや。わが社の場合、労働環境のホワイト化は経営が傾いたことを意味する」
翔平は笑いながら缶ビールを傾けた。今日の彼はビール党なのだ。
「社員がその発想になる職場、やばいね」
「そうなんだよ。同僚に加賀っていう極まったヤツがいてさ」
「あ、前に言ってた! 翔平の友だち」
「それそれ。あいつ、仕事が楽だと逆に元気なくなるんだよ。どんだけブラック魔人だって話で」
「うける。超能力者を上回る魔人いるんだ」
……あれ? すごい。
わたし、他の人とこんなにどうでもいい会話してる。なのに、けっこう楽しいぞ。
「ま、会社潰れるのって初めてじゃねえし。潰れてもよそに移るか、しばらくフリーランスで食いつなげば済む話だしな。どう働いたってブラックだけどさ」
「翔平は自由だよね。いいなあ」
「いやあ、自由じゃねえだろ。むしろ、激しく不自由だと思うんだがな」
言われてみれば、まあ。
でも、わたしの目からは自由に見える。
「所属先がなくなっても平気って、すごく自由じゃない?」
「うーん。ブラック社員をうらやむ公務員って、世界でおまえぐらいしかいないと思うぞ」
いや、そういう意味じゃないんだけどな。
「職場が嫌なら辞めりゃあいいじゃん。おまえのほうが、俺よりよっぽどツブシきくだろ。外国語もたくさん喋れるし、若いし頭いいし」
「理屈としてはそうかもだけど……」
「でも、おまえがこのあいだシーラにスカウトされたときはヒヤッとしたけどな」
あのときを思い出して、酔いが冷めた気がした。
「あの女に分析を喋ってるときのおまえ、目がキラキラしてて優秀官僚オーラばりばりだったぞ。キャリアチェンジって言われたときも、一瞬ビクッとしていて──」
「やめて」
自分で思ったよりもきつい声が出ていた。
翔平は、白一族のことも左遷のことも、なにも気にせずにわたしと接する人だ。
それはすごく楽である。
でも、だから彼にはわからないこともある。
わたしみたいな人間にとって、党体制を離れる人生がどれだけ不安なのかを。
実のところ、先日のシーラの誘いには一瞬だけ心が揺れた。
理由はもちろんお金じゃない。
厳密に言えば「キャリアへのこだわり」でもない。
──新中華界域の社会が、中国共産党体制とそっくりらしいからだ。
党が存在する空間であれば、わたしは中国での政治的経歴をリセットして、以前と変わらない感覚で生きていける。
そんな誘惑を感じたのだ。
ありえない。人間をあれだけ平気で殺す人たちがいる場所なのに。
■
──午後9時20分。
わたしは広尾駅を出て、南部坂をひとり歩いていた。
坂を登りきり、右手に折れる。
有栖川宮記念公園の森の匂いがする、閑静な高級住宅街だ。
ただ、行き先は心休まる場所じゃない。
自宅。
つまり、中華人民共和国駐日大使館の館員宿舎である。
さっきは翔平に悪いことをしたなと思う。
わたしの口数が減ったことで、神社の夕食ははやくにおひらきになったのだ。
「悪酔いしてないか?」
駅までの道で、翔平はそう言って水を買い、手渡してくれた。
不機嫌そうに見えていたのだろうか。相手に機嫌をとってもらうのはよくない。もっと自分をわかってもらえるコミュニケーションを取れるようにならなきゃ、たぶん対等な人間関係にならない。
でも、わたしが迷った理由。それは知ってほしくないな。
考えながら、顔認証ゲートを抜けて敷地内に入る。
宿舎は3年前に完成したばかりで、地上9階地下2階。ぱっと見た目は日本の他の高級レジデンスと変わらないが、守衛や清掃要員も中国人だ。日本人は誰一人いない。
なので、内部は完全に「中国」である。
制度上、家族を帯同する既婚者館員は外にも住めるが、新宿舎に変わってからはほとんどの人がこちらに移り住んだ。新華社やバンク・オブ・チャイナのような政府系企業の特派員や駐在員も、一部の希望者は居住を許可されている。
建物内には大量の監視カメラと盗聴器がある。だが、それらを気にする必要のない、政治的にまともな中国人ならば、家賃が安くて新築の住居のほうがいいに決まっているのだ。
──ただ、濃厚な「中国」の空間は、現在のわたしには居心地が悪い。
たとえ祖国は愛していても、である。
悪い意味で有名人であるわたしの行動は、知らない間に誰かに伝わる。敷地内ではなにをやっても人の目を感じてしまう。
地下階にある館内ジムやプールを使うのも気が引けて、自腹でエブリタイムフィットネス広尾店の会員になった。そのくらい、無駄な出費と気苦労が多い。
わたしの居住先は、そんな場所なのである。
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4階。独身女子館員フロア。
406号室。
指紋認証キーでドアを開けようとすると、扉が内側から勝手に開いた。
黒縁メガネにひっつめ髪の、陰気な女が顔を出す。
顔色は不健康に白くて猫背、上下灰色のスウェット姿。
片手には大量のカップラーメンの殻と紙くずが詰まったゴミ袋。
ルームメイトの謝雨萌だった。
「……あら、珍しくお早いお帰りですねぇ。同志」
彼女は望まざる同居人だ。
中国外交部は海外に赴任中の若手外交官に対して、寮における2人以上の同居を義務付けている。
建前上の理由は若者の相互研鑽と組織のチームワーク強化。本当の目的は、西側的価値観の浸透による思想汚染を防ぎ、亡命や敵国通謀の兆候を早期に摘み取ること。
ルームメイトとは名ばかりの相互監視制度である。
謝雨萌は粘着質かつ陰険な性格で、しかも現在の主席のイデオロギーを教条的に信奉している。自宅にゲシュタポがいるようなものだ。
「お酒の匂いがしますね。ちかごろ、ずいぶんお元気そうで」
「ええ、夕食時にすこし。おかげさまで元気ですわ」
わたしの返答が気に食わなかったのか、彼女はキツネのような目元をいっそうキッと細くした。
やがて、なぜか嗜虐的な匂いのある笑みをこぼした。
「〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇」
口から出た言葉。
わたしは耳を疑った。彼女はこう言ったのだ
「……監控対象とのデートは楽しいですか? 白三等書記官」