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【第四十九章】2027年10月25日 理想家(翔平の物語)

「夜景、きれいだね。こんなときじゃなければなあ」

 ローキャップをかぶったアイスが言った。

 先日とは別の帽子だ。変装用なのにコーデはしっかり決めている。

「界域から逃げるときも、ミャンマーの星空を見て似たようなこと言ってたな」

「うん。なんでわたしたち、いつもこんな目に遭うんだろう?」

 逃亡4日目。

 10月25日。夜。

 ──上海。


 陸家嘴るーじゃーづいから眺める外灘わいたんの夜景。この街を象徴する旧租界の街並み。旅行会社のパンフレットでも有名な景色だ。

 ああ、普通の旅行で来たかった。


「人生で見納めかもしれん。よく見とけ」

「そうだよね」

 アイスの出国は、どんな方法であれ中国政府が望まない形になる。北京も上海も、今後は何十年も来られない可能性が高い。

「……やっぱり、密出国なのかな」

「それしかないだろうな」

 その場合、さらに1000キロ南の国境へ。相当しんどい移動と、危険をともなう密航ブローカーとの交渉が待っている。

 無事に出国できても、密入国者。不安定な身分になる。気は進まない。


 おれたちが、上海の隣の江蘇省南通市に着いたのは2日前。土曜日の昼過ぎだった。

 宿泊先は例によってヤミ民泊である。劉偉民は翌朝に北京に帰った。相場より多めにお礼を渡した。彼ははじめ固辞したが、最後はおれの肩を抱いて喜んだ。

 日曜日はあまり出歩かずに過ごした。

 宿のキッチンで2人で料理を作ったりしながら、時間を情報収集に当てた。腐女子とお受験ママが、おれたちが体制内の動向を探る情報ソースだ。


「組織的に追跡体制を組んでるのは北京市と周辺だけっぽい。ホテルや飛行機は、他の都市でもやめたほうがよさそうだが。データが北京に共有される」

 まず、謝雨萌いわくそういうことである。監視カメラやアプリの追跡は、上海や南通ならそこまで気にしなくても大丈夫らしい。

 いっぽう、大使館の情報が入る蘭蘭。

「……白ちゃんの出入国禁止措置が出てる。戴奇の圧力でしょうね。地方空港からでも、無理だと思う」

 やはり、アイスが合法的に中国を出ることは不可能なのだ。


 月曜日の今日、西側大使館経由の逃亡計画も頓挫した。

 上海市内にある西側各国の総領事館を、2人で下見に行ったのだ。

 アイスは外交官だ。マークが薄いカナダやオーストラリアあたりなら、警備する中国側の警官に警戒されず通してもらえそうに見えた。だが、午後にドイツ総領事館を下見中、不運な事件が起きた。

 目の前で中国国内の民主活動家が亡命を図り、失敗して拘束されたのだ。

 おれたちも慌てて逃げた。今後は当分、各総領事館付近で警備が強化される。駆け込み亡命作戦は見送るしかない。


 ……結果。

 がっかりしたまま夕方になったので、繁華街のなんじんるーを2人でうろついて気分を直した。それから外灘の夜景を見に陸家嘴にやってきた。

 デートをしている場合じゃない。もちろんだ。しかし、たまにはこういう時間を作らないと心が持たない。おかげで今日のアイスは泣いていない。


「女の子と来るにはうってつけですな」

 黄浦江の川沿いの遊歩道。

 化粧を直しに行った彼女を待っていると、隣から声をかけられた。

 スーツ姿。堅物そうなおっさん。

 メガネのレンズに東方どんふぁん明珠みんぢゅーたぁの光が映えていた。誰だろうか。

 ええ、いい場所ですね。

 生返事した。


「運が良かったものです。まさか、劉偉民の車に当たるとはね」

 ──!

「私も若いとき、偉民と面識がありました。彼が元気そうで嬉しい限りです」

 おまえ、何者だ。どこかで見覚えのある顔のような気がした。

 敵か、味方か。


 ──いや、たぶん敵だ。

 なぜなら、戻ってきたアイスが、信じられないという顔で男を見ている。瞳に畏怖の色が宿っていた。

「……ふぁん司長」

 名前を呼ばれ男は鷹揚に笑った。

ハク君。外交官は感情を表に出すな、と前に教えたはずだが。……もっとも、私はもう上司ではないがね」

 まずい感じだ。

「北京から、わたしを連れ戻しにいらしたのですよね。でも、どうやって探し当てて──」

「質問は1回あたり1問にせよ、とも過去に教えなかったかね。まあよろしい。最初の問いの答えはノーだ。私は戴一族の使用人じゃない。あっちは勝手にそう思っているがね」


「2番目はどういうことだ? 中国の公安は彼女を補足できてないんだろ?」

 おれは口を挟んだ。

「……ええ、中国の公安ならば。ただ、()()()()は別です。中国全土の監視カメラ映像と配車サービスの履歴、シェア自転車の利用履歴、偉民のスマホのGPS。サーチできない情報はない」

 待ってくれ。アイスの元上司というこいつ、まさか。

「申し遅れました。私、新中華界域国際事務戦略協調局の副局長、范中行と申します。ところで高翔平君」

 彼は言葉を継いだ。

「驚きましたよ。あの高老師(せんせい)の息子が、私の元部下と2度も駆け落ちするとはね。今後も白君をよろしく頼みます」


 ──范中行。

 1989年、父さんと協力して党の打倒を目指していた、食えないタイプの民主派の大学生。

 その後、活動歴をごまかして中国外交部に就職。アイスの上司を務めた後、中国政府と界域政府が合弁で設立したシンガポール企業に出向。定年後は同社に籍を残しつつ、界域政府の外交官僚に転身。

 そして、トニーとアイスのお見合いの、仲人役をつとめた。


「単刀直入に聞く。なにをしに来た?」

「解釈によります。私は『人を紹介しに来た』。高君と白君から見れば『助けに来た』となります」

「誰を紹介するんだ? なぜ、界域の人間がおれたちを助ける?」

「1番目の回答は、お会いすればわかる人物。2番目については、その人物と会えば結果的にそうなるからですよ」

 外交官は面倒だ。玉虫色の答え方をしやがって。


「明日、朝10時。滞在先にお迎えにあがります。お2人の身の安全は保証します。パスポートをお忘れなく」

 そんな話、信用できるか。

 おれが言いかけたところで、アイスが制した。

「……われわれ外交官は、完全な嘘は口にしない。相手の解釈に委ねる言葉は話しても、明言した内容には履行の努力を払う。それが理想である」

 過去、こいつにそう訓示されたらしい。

「その通りだ白君。昨今の中国外交はこの理想を裏切っているが、私は理想家だよ。むかしからね」

 はっきり言い切った話はウソじゃないと言いたいわけか。

 伝えることは伝えた。そう言って、范中行は去っていった。


「……あいつの言うこと、本当に信じるのか?」

 黄浦江の河畔に取り残されたおれは、アイスにそう尋ねた。

「わからない。ただ、あの人は本物のプロ。『助けに来た』ことは事実だと思う」

「逆に言えば、明言していない部分に謀略があるんだろ」

「そう。常に」

 彼が界域の幹部なら、戴奇やトニーのゼリー中毒を知らないはずがない。すべてを知ったうえで、なに食わぬ顔で仲人をやっていたのだ。

 それは明言していないから構わない。外交的ルール。


 ──同夜。さらに翌朝。

 本当に誘いに乗るべきか、2人で話し合い続けた。

 最終的な結論。

 乗る。


 いや、乗らざるを得ない。

 仮に逃げたところで、界域の連中からは居場所をすぐ特定される。監視カメラだらけの中国国内ではなおさらだ。

 加えて、安全に日本に戻る方法が他にない。

 怪しい密航ブローカー経由で密出国するのと、いずれがマシか。どっちもどっち。それなら「東京に戻れる」という言葉を信じたほうがいい。范中行はプロフェッショナリズムについては信用できる人間らしいからだ。

 選択肢があるようで、実際に選べる答えはひとつだけ。

 界域の連中が得意な、詰め将棋みたいな話しの進め方である。


 朝10時ちょうどに、宿の前に地味なEVセダンがやってきた。

 助手席に范中行が乗っている。

 行き先は空港。

 ただし、日本からの民間航空機が就航するぷぅどん国際空港やほんちゃお国際空港ではなかった。

 上海大場(だーちゃん)空港。人民解放軍が管轄する、100%の軍用空港。


「安心してください。拘束はされません」

 文民の戴奇が手を回せるのは、せいぜい公安部系統の出入国管理官まで。軍には手出しできない。

 事実、范中行が身分証を出すと、警備の軍人はそのまま敷地内に通してくれた。車はターミナルの駐車場ではなく、滑走路へ。

 車を降りると、制服姿の女性軍人が無表情でパスポートを受け取り、公用スマホにデータを打ち込んだ。当然のように、中国出国スタンプを押す。


 目の前で、白い小型の飛行機がアイドリングしていた。

 ガルダストリームG900。

 最新鋭のプライベート・ジェット。1機あたり数十億円近く。


「……ねえ、界域でここまでできる人って」

 滑走路を先に歩く范中行に聞こえないよう、アイスが日本語で耳元に囁いた。

 意味はわかる。

 こんなものに平気で乗れる人間は、ひとりしかいない。

 

 ──だが、予測は外れた。

 通された機内。

 ホテルの応接室のようなキャビン内で、悠然とソファに座っていたのは、仕立てのいいスーツを着た細身の男だった。隙のないエリート然とした雰囲気だ。

 隣りにいるアイスが、驚きと納得が入り混じった顔を浮かべた。

「ようこそ」

 男が座ったままで言った。


 新中華界域でもう1人、プライベート・ジェットを乗り回せるほどの財力と権力を持つ男。

 界域序列2位。シンガポール出身の高級経済官僚。

 ──ライ・クアンミン。

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