【第四十八章】2027年10月21日 多重債務者(翔平の物語)
目を疑った。
なんで?
おれもそう言いたかった。
ホテル名と部屋番号は、庶務雑務科の蘭蘭に教えてもらっていた。
北京到着後にホテルに直行し、レセプションから部屋に連絡した。アイスは不在だった。夜まで待とうと思った。
横水坊胡同の残骸で作った床のことも聞いていた。自宅のカケラでも見られればと、3階中庭に立ち寄ってみた。すると、緑色のなにかが丸まっていた。
うずくまって慟哭する人間。他ならぬアイスらしいと気づいたときの驚きはいうまでもない。
両親の魂。転魂の影響で引き合ったのか? とにかく奇跡だ。
アイスは彼女らしからぬ、とろんとした目をしていた。
そして、相手がおれだとわかった途端に抱きついてきた。舌を入れてむさぼるようにキスされ、シャツやズボンの上から激しく身体をまさぐられた。普段のこいつが、屋外でこんなことをするはずがない。口から吐瀉物とバナナフレーバーの味がした。
「わかった、落ち着け!」
今度はまた泣き出した。普通じゃない。
「……なんで、ここにいるの?」
「説明は全部あとだ。逃げるぞ? いま、そういう状況なんだろ?」
うなずいた。落ち着かない彼女の手を引いて、ショッピングモールを抜けた。
▪️
この場を離れる。
北京のタクシーは車内に監視カメラがある。タクシーはよくない。
アイスは身体機能はまともそうだった。やや不安だったが移動が先決だ。シェア自転車を使った。予備のスマホを準備しておいて助かった。
走りながら水を買って飲ませ、西単の近くのユニクロで着替えさせた。彼女が着ていた旗袍はおそろしく似合っていたが、絶対にいらないというのでゴミ箱にぶち込んだ。化粧も落とさせた。
着替えた服装は、呪術廻戦コラボのジャンパーとローキャップとサングラス。普段のこいつが絶対にしないファッション。目元を隠せて、すこしでも監視カメラをごまかせる格好。支払いは現金だ。
なにがあったか。
想像もつく。本人が言うまで聞かなくて構わない。
いま逃げるうえで直面する問題だけ尋ねた。
状況はこうだった。
・北京市内は非常に危険。どこでも監視カメラで捕捉される。
・隣接地域の天津市や河北省も危険。キキやマックの父親──。つまり、敵とグルの連中の地盤だからだ。
・身分証チェックが必要な長距離交通機関とホテルは、すべて利用不可。
・合法的に中国を出国できることは望み薄。
対して、わずかな安心材料も一応ある。
・戴奇たちは今後も1時間くらい、祖父と孫で営んでいる(まじか)。手配にかかる時間も考慮すれば、追っ手が動くのは早くても数時間後。
・北京首都圏を抜ければ多少は安心。アイスは公的な重犯罪者ではないので、仮に全国規模の追跡命令が出ても、地方の公安は真面目に動かない。
・おれの個人情報はおそらく把握されていない。おれのスマホを使う限り、当面は捕捉されない。
「……あと、もうひとつ」
アイスが言った。
「わたし、外交部も党も辞める。中国国籍も捨てる。もう無理」
なので、職場の迷惑とか国際問題とかは、もはや完全にどうでもいい。
「翔平、お金はいくら持ってきてる?」
「税関をごまかして100万円くらいだ」
「足りなければこれを売ろう」
一族の翡翠のペンダントだ。すくなくとも数十万元(数百万円)になる。むしろ、腹が立つのでさっさと売っぱらいたいようだ。
どうするかな。
ひとまず数時間内の北京脱出はマストだ。
その後は上海にある西側諸国の総領事館に駆け込んで亡命申請……。北京と違って、特別な警備が敷かれている可能性は低いからだ。ただ、駆け込み時に捕まったり、大使館側に亡命を拒否された場合は即拘束。ここは祈るしかない。
ダメな場合は、最南端の国境からラオスやベトナムに密出国する。ただ、この場合はもっと日本に帰りにくくなる。最終手段だろう。
明らかなのは、とにかく南に逃げることだ。
「全部任せろ。意地でもおまえを守る」
そう言った。鉄道もホテルもタクシーも使えない。考えると絶望的になるが、いまのこいつに必要なのは安心だ。おれが動揺を見せてはいけない。
▪️
「……また断られたな」
ドアを閉じて走り去る車を眺めて、おれはつぶやいた。
民間の配車サービス。ガソリン車限定。
運転手に裏交渉。アプリのルートをキャンセルして現金払いに変更。北京からできるだけ遠くに走ってもらう。その際は、車内の監視カメラをオフに。
そんな危ない条件で請けてくれる運転手は、料金の割増を提案したってなかなか見つからない。
EV車を避けてアプリも切ってもらう理由は、市内から郊外に向かう走行履歴を追尾される危険があるからだ。
だが、車が捕まらず逃げられないのも困る。次の一台がダメなら、リスク覚悟で普通の車両に乗るしかないか。
「……わかった。行ってやるよ」
最後の一台。運転手がそう言ってくれた。
50代後半。人生なにも楽しいことがありませんと全身が語っている、くわえタバコのおっさん。目が死んでいる。左脚が不自由そうに見えた。
アプリ評価はガタガタの★3.1、劉偉民さん。
わざとダメそうなドライバーを選んで正解だった。職業倫理が薄く、客が付きにくい。裏交渉に応じてくれると思ったのだ。車両は15年落ちの上海大衆サンタナ。車内の監視カメラなんて、最初からない。
「でも、おまえら。訳アリだろ」
価格、2000元。相場の10倍以上のぼったくりだ。しかも、北京のすぐ隣の涿州市まで。市内中心部から30キロしか離れられない。足元を見やがって。
やむを得ず、シートに穴のあいた後部座席に乗り込んだ。
「おれ、北京は久しぶりなんです。街がずいぶん発展しましたね」
「……どうでもいい。おれと関係ない」
だめだ。世間話も難しい。
むかしの職場にもいたタイプだ。人生は挽回不可能、社会に絶望。やりたくもない仕事をやり、半自動的に生きているだけの人。
隣のアイスの表情も冴えなかった。そうだよな。このおっさん、伝説のブラック魔人のおれですら生気が吸い取られるもの。
いや、でも仲良くしておこう。
密告リスクを減らすためにも、人間関係は大事だ。
北京の発展、確かに戸惑うよな。そう話を続けてみた。
「おれ、むかし金融大街のあたりに住んでてさ。でも、もう街はないんだ」
「……よく知っている。いい街だった」
「まじか。ほら、隣の胡同に写真館があって、近くに澡堂(銭湯)が」
「……あった。親父とよく行った。喧嘩ばかりだったが、いい親父だった」
おお。地元トークは無敵だ。おっさんに多少の人間性が戻った。
──ん、待てよ。
澡堂。喧嘩する親父。
アプリの履歴をもういちど確認した。運転手の名前、劉偉民。
まさか。
「あんた……? 天安門事件の戒厳令の夜に、テレビ見ながらガンコ親父と殴り合っていた偉民か?」
「なぜ、知っている」
「横水坊胡同の高志軍。おれはその息子だ」
彼が運転席から、バッと振り返った。
瞳に生気が戻っていた。
▪️
「まさか高老師の息子さんとはな。むかし勉強を教えてもらった。やっと恩返しができらあ」
制限速度ギリギリで飛ばすサンタナの車内。
カーステレオから大音量で流れるテレサ・テン。上機嫌の北京弁で、偉民が捲し立てていた。
劉偉民。
1989年当時は専門学校生。やがて6月4日に戒厳部隊から左脚を撃たれ、現在も不自由。
横水坊胡同が再開発で取り壊された後、ほどなく頑固親父は死んだ。偉民はやがて市の外れで飲食店を開いたが、コロナ禍のとき大量の負債を抱えて倒産した。資産ゼロ。離婚。子どもからも見離された。
以降、永遠に返せない借金苦にさいなまれながら、配車サービスの運転手。慣れない仕事でアプリ操作は苦手。完全に惰性で働き続けてきた。
「心配すんな翔翔児。涿州どころか、俺が行ける限界まで行ってやる。……金なんざどうでもいい。みんな胡同の家族だ」
いや、ちゃんと払うよ。生活しんどそうだし。
でも、心意気だけでも嬉しい。
「しかし、美人を連れてどういう事情だ?」
答えを悩んだ。
「大丈夫だ。俺の左脚を見ろ。党に嫌われる事情だって理解するさ」
車が京津高速に入った。
インターチェンジの監視カメラに、アイスがすこし顔を伏せる。
あっさり北京市の範囲を抜け出し、肩がすこし軽くなった。ハンドルを握る偉民はひっきりなしにスマホを触っている。危険運転だが、おれたちを助けるための行動だ。
夜通しで走れば上海まで行ける。だが、大丈夫か?
「いや、徹夜は俺のトシじゃ無理だ。別の当てがある」
▪️
……深夜11時。
山東省淄博市、という謎の漢字の地方都市で、サンタナが高速を降りた。幹線をしばらく走り、そこから道を外れる。
田んぼ。
荒れ地。
その先に、周囲の光景とは不似合いな高層マンション群が見えてきた。ただし、ほぼ明かりが消えている。近くで見ると、建物はボロボロで安っぽかった。メンテナンスされていない。
──鬼城。中国版ゴーストタウン。
好景気の時期に乱開発したものの、誰も住まなかったマンション群。当時、投資目的で部屋を買った人間は資産が塩漬けになった。中国不動産バブルの残骸だ。
あるマンションに入った。一階ロビーはブレーカーごとフロアの電源が落ちている。つまり、監視カメラは機能していない。
「中国で失信人(身分証利用が制限された多重債務者)が夜逃げする時に使う宿だ」
借金苦のやつだけが知る、この社会の秘密。偉民はそう言って笑った。
日租房。ゴーストマンションの部屋を持てあました大家が、お尋ね者に貸し出す違法民泊。借金取りの追跡を逃れるための場所なので、ある意味ではセキュリティが万全だ。
鍵をもらって部屋に入った。
室内は殺風景。ただ、それなりに清潔だった。
アイスはベッドでずっと泣いていた。さっきシャワーで足の汚れを落としたときに、いろいろ思い出したらしい。布団のなかでおれが頭をなでていると、やがて泣き疲れて寝息を立てた。
苦しそうな寝顔を見て、おれもふつふつと怒りが湧いた。
だが、心を乱すのは今夜だけだ。
明日から考えることはひとつ。
──綾瀬の自宅に、2人で帰る。




