【第四十七章】2027年10月21日 蹴る(アイスの物語)
「やめてください。今すぐにです」
わたしはしっかりした口調でそう言って、自分の手で老人の頭を引き離した。
振った右足がトニーの顎に当たり、彼が顔をしかめた。舌を噛んだらしい。
自分の指先が、まだ光っていた。
──痛いの痛いの飛んでいけ。
燕芳の人体特異効能。
さっき、翔平のことを考えてすこしだけ理性が戻った。
それで思い出した。軽いけがや体調不良だけ治せる能力。なので、指先を自分の頭に当てて、思い切り気持ちを込めた。ある程度は効いた。
まだ感覚がかなりおかしいが、ギリギリで理性が勝っている。
服を直して立ち上がった。
「あれ? やっぱりゼリーの量が」
そう言ったトニーの顔面に、散打の型を思い出して正蹬腿を叩き込んだ。旗袍のスリットは右側に入っている。右足で蹴れる。
この人は蹴っていい。絶対に許せない。もっと蹴った。笑みを浮かべていた。腹が立ち、叫んで思い切り蹴りまくった。相手が伸びた。
軸足の太ももを、戴奇がもぞもぞと撫でてきた。引き離してから禿頭を平手でぶん殴った。党で4番目に偉い人を殴ってしまった。
戴奇がよろめき、伸びているトニーに倒れ込んだ。
当たりどころが悪かったのかと思ったら、孫の股間にむしゃぶりついていた。痩せた老人なので、薬物の効きがいいのだ。
モニターのなかでは、河北省書記が娘のキキの尿を顔じゅうに浴びながら、娘婿のダニエルに犯されて喜んでいた。
「気持ち悪い」
言った。
党も、この国も、白家も、学友も。
すべてが気持ち悪い。最低だ。
■
ハンドバッグと、ホテルの部屋にあったミネラルウォーターを持って、走って部屋を出た。エレベーターのボタンを押し、開いたドアに滑り込む。
逃げる。
どこに?
わからない。ハンドバッグのなかにあるのは、パスポートと財布。ただし所持金は日本円の3万円と、人民元の現金1000元しかない。
でも、逃げるしかない。
スマホがないので配車サービスは使えない。適当にタクシーを拾ったとして、行き先は……?
わからない。
まだ体調がおかしいなかで、思考がぐるぐる渦を巻いた。
3階。ここから隣のショッピングモールに抜けられるはずだ。正面玄関よりは、目立たない。
気ばかりが急いた。ゼリーの影響がぶり返しそうになり、慌てて人差し指をこめかみに当てた。他の客の目を考えて、小走りに移動した。
3階部分。建物が吹き抜けになった場所に、広大な中庭が設けられていた。
竹が植えられた中華風庭園。海外要人が喜ぶつくり。
またゼリーの感覚が戻ってきた。庭園内に亭子(あずまや)を見つけた。周囲に人はいない。すこし迷ってから、亭子の陰の地面に向けて身をかがめ、のどに指を突っ込んでげえげえ吐いた。ケーキの断片が草の上に落ちた。
ペットボトルの水で手を洗い、残りをがぶ飲みした。すこし、感覚がもとに戻った気がした。
肩で息をしながら、目を落とした。
レンガやコンクリートの欠片が敷き詰められた亭子の床。
……え。
■
なぜ。
混乱した。自分の名前を見たからだ。
筆跡は明らかに、わたしのもの。
その上には──。
翔平のクセのある文字。
……幸福的家。
……希冰
……5.20
「福」の字が、上から書き足されて太くなっていた。
見覚えがあった。インキがかすれて、わたしが上から書き足したものだ。
1989年5月20日。
転魂4日目の午後に落書きした、寝室の石造りの窓枠。なぜ、ここに。
亭子の壁にパネルがはめ込まれていた。
”横水坊胡同”
”1998年、北京市政府の再開発により、かつての古くて不衛生な街は、現代的な都市環境へと生まれ変わりました。党と国家の正確な指導のもと、現在のこの地域は北京の金融センターとして偉大なる祖国の発展を支えています。この亭子の床は、かつてこの胡同で暮らした住民の思い出を継承するため、破壊された建材の一部を敷き詰めて作られ──”
■
気付いた。
このホテルの場所は、西城区金融大街。
新しい地名である。中国経済の高度成長が軌道に乗った30年ほど前から、金融センターとして整備された土地なのだ。
以前の地名は、横水坊胡同。
つまり、ここは──。
1989年の家族がいた家の、ほぼ真上。
足に力が入らなかった。へたり込んだ。
逃げなくてはならないのに。立てない。
落書きをもう一度眺めて、優しく撫でた。
私の名前のとなり。あのとき調子に乗って書き足したハートマークが割れ、右上のわずかな部分しか残っていなかった。石枠はそこで折れていた。
──ばかやろう。
偉大なる祖国の発展?
党と国家の正確な指導?
ふざけるな。
住民の思い出なんか考えたことないくせに。
古くて不衛生な街?
うるさい。
ここにあったのは、あたしと亭主と息子の家だ。お前らよりもずっと幸せで人間らしく暮らしていたんだ。人の家に文句を言うな。
紅二代も官二代も大嫌いだ。
大事なものを全部、奪いやがって。
■
石枠を撫でながら泣き続けた。
こんなことをしている場合じゃないのに。
でも立てない。翔平が書いた文字を、ずっと触っていたい。
おい。
彼の声が聞こえた気がした。
ああ、会いたいな。
でも、冷静な思考が戻ってくるほどに、もう無理なことがわかる。
戴奇は北京市の前トップだ。市の公安に圧力をかけられる。
たとえ逃げても、市内にいれば補足される。だが、中国ではホテルも鉄道も飛行機も、利用時に身分証を照会する。データは公安部と直結し、部屋番号も号車も座席番号も即時に筒抜けだ。市外に出るには野宿と徒歩しかない。
仮に空港に行ったって、パスポートを出した時点で拘束される。そもそも、日本に帰るチケットを買うお金がない。
市内にある西側諸国の大使館に駆け込む手も──。無理だ。こういうとき、政治力がある国の大使館前は真っ先にマークされる。
おい。
また聞こえた。だめだ。気持ちが耐えられなくなっている。
わたしは錯乱している。なにもできない。
「おい、しっかりしろ」
旗袍の肩をつかまれた。
知っている手だった。
なぜ。
……なんで?




