【第五章】2027年6月4日 魔道士(翔平の物語)
「あら。そんなに怖い顔をしないでくださいな」
シーラが言った。
「新中華界域(NSF)代表者の王昊天──通称H・T・ワンは現在30代後半です。これはもう、たまたま、偶然の一致なんです」
「38年前、あなたの両親を殺した犯人と同姓同名なのはね」
彼女はにっこり笑った。なんでもお見通しってわけか。
──王昊天。
その名前だけで、おれの心はザラつく。さっき、母さんが書いた文字を人生ではじめて見たからなおさらだ。
ああやって普通にペンを持って、父さんの職場のノートに思いを綴っていた普通の主婦。超能力があることを除けば、おれの両親は北京のどこにでもいる普通の人間だった。
その生命を、おれの目の前で奪った男。
当時そいつが相討ちで死んだのは知っている。同姓同名、って話も事実だと思うが。
「親族、ってことはないのか。2人の王昊天は?」
「血縁関係はないですよ。それに、親戚が同じ名前を名乗るわけないじゃないですか」
楽しそうに言う。思わせぶりな喋り方をしやがって。
自分の過去が、手のひらの上で弄ばれている気がする。
■
「翔平。ミャンマーの新中華界域は、ただの経済都市じゃないの」
アイスが言った。おれに話すポーズで、シーラに聞かせているのだろう。
「中国の西南国境外の安全保障関連レポートで、頻繁に耳にする。ここ十数年で一気に台頭した軍閥──」
「ふふ。物知り」
シーラが笑う。
「さすがは、中国外交部30年に1人の逸材。白希冰さんなら当然かしら」
「そんな方を庶務雑務科に置く、中国大使館の人事体制は問題ありですね。もっとも、最近はご本人も翔平さんと過ごす時間を楽しんでいるみたいですが」
アイスのアーモンドアイの目尻が、一瞬ゆがんだ。
白希冰という本名。
過去のプロフィール。
中国大使館内の人事事情。
さらに、おそらく昨夜の神社の一件。
──シーラはすべて知っている。
加えてこいつは、おれやアイスにどの情報をどんなタイミングで、どう開示すれば最大限に動揺を誘えるか。すべてを計算し尽くしている。
1文字、1行ずつ。芸術的な精緻さで構築されたスクリプト。仕事柄、そんな連想が湧いてくる。
「シーラさん──。私の雑談を聞いてもらってもいい?」
アイスが妙なことを言った。
「もちろん。どんなお話をするの?」
「いま東京で起きている、テロやサイバー攻撃の理由について」
「わあ。すごく楽しみです」
坂道系アイドル女は、屈託のない表情で笑ってみせた。
■
「……攻撃者たちは、日本に恨みや野心があって攻撃しているわけじゃないと思う」
「ふうん」
「さっきのカフェの銃撃も、個々の被害者に襲われる必然性はなかった。各人の死はたまたま生じた結果で、単なるデータにすぎない」
「へえ。なかなか」
アイスの言葉に、シーラは得心がいったように相槌を打っている。さっぱり意味がわからない。
「じゃあ、なぜ攻撃を?」
「一種のフィールドシミュレーション」
「すごい。続けて」
頭のいいヤツ同士で、禅問答みたいな会話はやめてほしいんだが。
おれがその後、じっくり理解した限りでは、アイスの認識はこういうことだ。
2027年6月4日、東京に未曾有の攻撃を加えたヤツラは、日本国家を侵略しようとか、どこかの神様のためだとか、そういう政治的・宗教的な動機で動いているわけじゃない。
ヤバい力を持つ連中が、実際にヤバいことをやったらどうなるのか知りたかった──。
いわば、それだけの理由だというのだ。
もちろん、連中は特定の国家じゃない。
「彼らが東京を狙った理由──。それは実質的にノーリスクだから。海外テロリストの越境攻撃に対して、日本政府は『遺憾の意』以外の現実的な対応をとれない」
遺憾の意。
前例がないので判断がつきません、だからなんにもしません……。そんな意味の、日本の官僚が発明した魔法の言葉だ。
「しかも、日本はインテリジェンス能力もサイバーセキュリティも、先進国としては考えられないほど脆弱。ハードルは驚くほど低い」
「警察の海外捜査能力だって、実は彼ら自身が思ってるほど高くない。自衛隊は法的制約が強くて動けない。同盟国のアメリカも当てにならないわ。情報だけはたっぷり抜いていくでしょうけどね。他方……」
弁説流麗、論旨明快。
こいつ、ほんとは北京でこんな感じの情報レクをやったり、国際会議で他の国を説得したりしたかったのかな。そう思わせる喋り方だった。さっき本人が撃たれかけたのに、よくここまで冷徹な分析ができるもんだ。
「攻撃者側は明確な犯行声明を出さず、確たる証拠を掴ませない。仮に攻撃データやノウハウの供与と引き換えに、どこかの国連常任理事国と事前に話を通していれば、より安全。国際的制裁は回避できる」
「小結……。攻撃者たちから見た東京は、巨大な都市規模に比して防御態勢がザルに等しい。しかし、情報開示の透明性は比較的高く、被害データの収集は容易。これほど魅力的なテスト先はない──。事態の性質は、そんなところだと思うのだけれど?」
凍りつくような目で言い切った。
思考回路から情緒や良心を意識的に切り分け、完全に中国の党官僚スイッチを入れた表情。正直、おれはこの顔のアイスは嫌だ。ただ、これも本来の彼女の側面なんだろう。
どこかのイカれた連中にとって、おれたち日本の民は弄るのにちょうどいいモルモットなのだ。そんな理由で大混乱が起きて、たくさんの人が死んだ。
クソったれが。だが、現在の事態はそういうことだった。
■
「Oh! Lovely... FAAAAAAACKING GENIUS!!!!!」
シーラが叫んだ。
神ゲーマーの実況動画を見たギークみたいな歓声を上げる。彼女はなぜか、まったく音を出さずに手を叩いていた。
「素晴らしいわ! 大好き。最高に濡れちゃう。ねえアイスちゃん、クソみたいな中国外交部なんか辞めて、本気でキャリアチェンジしない? 10年契約7億ドル。世界を変えて新しい価値を創造する仕事よ。あなたなら、私たちのいい友だちになれるわ」
表情はそのままなのに、食い気味にまくし立てた。その契約条件、ドジャースが大谷翔平に出したのと同じ数字じゃないか?
「……お気持ちだけいただくわ」
キャリアチェンジ、という単語に、アイスは一瞬だけ眉を動かしたが、すげなく誘いを断った。よかった。なぜかおれは安堵した。
「私は本気よ。気が変わったらいつでも来て頂戴。そうね……。あなたに敬意を表して、お礼をしたいわ」
シーラはしばらく考えてから「ネコちゃん」とつぶやいた。
「……は??」
「学猫叫・六四号。XMJ-Type64 "Learning Cat"」
「なに」
「あなたたちもよくご存じの、フィールド観測デバイスよ。人民解放軍のロボット犬を私が改造した──21世紀の中華ネコ型ロボット。日本各地の神社でよく寝てるの」
どこまでもふざけた話ばかりだ。なんなんだよ、こいつは。
■
「……そうね。デバイスといえば。わたし、今日は素敵な出会いでびっしょびしょ」
はいはい、そりゃよかったな。
「身体が熱いわ。だからシャワーを浴びたいな」
はい?
おれが呆れていると、シーラはいきなり──。
服を脱ぎはじめた。
「あれ? このボディデザイン、美乳でパイパンなんだけど。見ないの?」
キャミソールとパンティだけの姿で、片膝を立てて座る。
頭のネジがここまで外れたやつの裸なんて、仮に見てしまうとその後が怖い。
「脱衣所。……はやく行って」
アイスが不愉快そうにつぶやいた。
「日本の清純派アイドルのえっちな3次元ストリップ、見せたかったのに」
「見たくありません。翔平にもちゃんと目をつむらせますから」
言われなくてもそうするよ。
瞼を閉じたおれの耳に「残念ね。じゃあ」とシーラの声が聞こえた。
「またね」
■
────。
──。
「翔平、ちょっと」
「なにか変。目を開けていいから。ねえ」
アイスに身体を揺さぶられた。
「なんだ?」
「シャワーの水音が聞こえない」
アイスはおれに、現在いる部屋を調べるように指示してから、自分ひとりで浴室に向かった。
「翔平!」
短い叫び。
向かう。
脱衣場。使った形跡がない。
タオルを触った様子もない。
バスルームの扉の向こう。
内部には──。
誰もいなかった。
「まさか飛び降りたか?」
慌ててバスルームに入る。
窓は人間が通れる大きさじゃない。加えて内部からは40°程度しか開かない。
上、横、下。
念のため、開けて確認してみたが、女が潜んでいそうな場所はどこにもなかった。もちろん身を投げた形跡もない。
ふわり。
そのとき、なにかの影が頭上を飛んだ。
──蝶?
黒地の羽に蛍光に近い水色のラインが入った、やけにサイバーな模様の蝶だった。アオスジアゲハ。小学生のとき自由研究で採集したぞ。上野公園から室内に迷い込んだやつが、小窓が開いて出ていったのか。
いや、台東区の昆虫の生態はいい。問題は女だ。
「まさか普通に玄関から帰ったのか?」
「それはない。わたし、念のために薄目を開けてドアのほうを見ていたし。それにさっき、翔平に部屋を見てもらったはず」
相変わらず行動にムダのないやつだ。
おれとアイスは再びベッドルームに戻り、軽く探した。
だが、もちろんシーラがいるはずはなかった。
彼女がソファに脱いだ服さえ存在しない。
「……おい。ウソだろ?」
そして、おれは短く叫んだ。
なにげなくスマホを開き、さきほどのPDFファイル──。つまり、両親が書いたノートの中身を見ようとしたのだ。
だが、データは消えていた。
母さんが苦労して綴った、あまり上手ではない不揃いな文字はどこにも見当たらない。
かわりに、よくわからない文字列。
それが一行だけ記されたページ1枚に置き換わっていた。
「"LUNA" was here. — Root Archmage」
ふざけるな。なぜ、ここまで残酷なことがやれるんだ。
Root──システムの最上位管理者権限。
Archmage──究極の大魔道士。
LUNA──。
月?
なんだよ、これは。
■
怒りを覚え続ける時間はなかった。
室内で点けっぱなしのテレビの画面がスタジオに切り替わり、緊迫した表情のアナウンサーが登場したからだ。
”臨時ニュースを申し上げます。都内各地のすくなくとも50か所以上の公共施設に車両が突っ込み、多数の死者やけが人が出た模様です”
アイスが慌ててリモコンを探し、音量を上げる。
”被害施設には幼稚園・小学校や警察署、駅、商業施設などが含まれる模様です。車両の多くは中国メーカー製の電気自動車・EVとみられ「ハンドルとブレーキが突然効かなくなり、自動的に運転して突っ込んでいった」とする複数の運転者の証言も──”
画面が切り替わる。
NHK放送センターから数百メートルの距離にある幼稚園の建物に、運送会社の中型EVトラックがめり込んでいた。第一報の直後、カメラマンがすぐに取材できた場所なのだろう。
事故車両のエンブレムには「BRD」とある。中国語で比瑞迪。近年、SDGsを旗印に日本の自治体や運送会社に盛んに車両を納入している、中国広東省のEV最大手企業だった。
悲鳴。泣き声。サイレン。ストレッチャー。
緊迫した救急隊員の声。
これ同じ状況が、他に50か所以上も──。
「……もういや」
画面を呆然と眺めながら、アイスがつぶやく声が聞こえた。