【第四十六章】2027年10月21日 ケエキうまいで(アイスの物語)
インタープラネット北京。
エクストラスイートルーム。3001号室。
午後4時半。
トニーの祖父が指定した場所は、わたしのホテルの最上階の部屋だった。
会談にはちょうどいい密室。例によって室内の盗聴器は外してある。党の常務委員クラスになれば、なんでもできる。
わたしの服装は旗袍のままだ。
形式としては、見合い後のご挨拶という名目である。
彼は10月15日まで党の四中全会(重要会議)に拘束され、その後に北朝鮮で朝鮮労働党の建党式典に参加した。帰国後も会議づくしで、今日の午前中はベラルーシ大統領と会談。ただ、この時間からは空いているという。范中行はわたしを送り届けたところで帰っている。
「噂通りのべっぴんやな。白一族は美人揃いやけど、希冰ちゃんは別格やね」
室内の応接ルーム。開口一番に、福建訛りの中国語でそう言われた。
この世代の男性であれば、親愛の表現として受け取るべきだろう。
戴奇。党中央弁公庁主任。70歳。
トニーと違って痩せ型だ。中国の高官は染髪やカツラで若さを装いがちだが、彼は禿頭で通している。外見は年齢相応、いや、もっと老けて見えた。
服装もこだわらず、ただの白シャツに黒のウインドブレーカー。もっとも、これは年配の高官ならありがちなファッションだが。
手ずから淹れてもらった地元の龍井茶を、恐縮していただいた。
トニーは先に要件を伝えてくれていた。
「食べえ。地元のケエキや。うまいから」
ミルク色のソースがかかった、一口サイズのチョコレートケーキを目の前に置かれた。
■
ああ、うん……。
その後、戴奇主任はわたしの話を、目を細めながら聞いてくれた。
「白家の功績に敬意を払わん者は中国共産党員やない。安心しなさい」
よかった。飛び上がって喜びたい気持ちを抑えた。
ところで。
「希冰ちゃん、ケエキ食べへんの? うまいで」
一口いただいた。ケーキは高級品だが、ソースは安っぽい化学合成のバナナフレーバーの匂いがした。彼のご世代からして、こういう味が贅沢に感じられるのかな。
それから10分近く、戴奇主任は若き日の自分が白一泉にいかに憧れていたかを、滔々と語り続けた。
──なんだろう?
わたしは違和感に気づいた。すこし、自分の目がよくなったような感覚があったのだ。
「……梓豪。あの量で大丈夫なんか」
「大丈夫だよ、じいちゃん。4分の1でもそこそこいける。最初ならこれで十分だ」
なんだろう。
トニーが、フランスのアートの話をしていたときと同じ、人懐っこい顔で笑いかけた。
「アイス。見なよ。キキはすごいんだ。自由の女神だぜ」
彼はそう言うと、スマートテレビのリモコンを手に取った。壁一面を覆う85インチモニターの電源が入る。彼は手慣れた様子でクラウドを呼び出した。
信じがたい映像が、再生された。
女の1人は間違いなくキキだった。
「おとうさま、私が一番なのよ!」
キキは彼女の夫とは別の男性に覆いかぶさられて、そう叫んでいた。その隣で、夫のダニエルが別の女性に同じことをしている。キキを抱いている男性は──。わたしも見覚えがある彼女の父親だった。公安部元副部長の河北省書記。
そして、彼らに話しかける撮影者の声は、トニーのもの。
「今日の午後、手抜かりないか。もっぺん教えてくれ」
部屋に響くキキの嬌声に混じって、戴奇主任がトニーに尋ねた。
「ああ。お見合い3時間。アイスがトイレに立った回数は1回。庭をたっぷり歩かせて、汗をかかせた」
「それはごちそうや。むれむれ。たまらんな」
■
異常だ。
もっと異常なことは、わたしが動けないことだった。
身体が痺れているわけじゃない。
普段ならすぐに視線をそむけるような動画から、目が離せない。
「嫌」
がんばってそう言った。全身にかゆみのような変な感覚がある。翔平に会いたい。いますぐに、この画面のなかと同じことを。してほしい。
おかしい。明らかに不自然だ。危険な状況だ。なのに、なぜそんなことを考えるんだ。理性を保て。わたしはおかしい。おかしい。
まさか。
「……破処昇官。むかしはわしも散々、主席に貢ぐ側やったけど」
やる側のほうがええな。
戴奇はそう言って、ウィンドブレーカーのポケットから長方形のパックを取り出し、じゅるじゅると口に含んだ。トニーも同じことをしている。
パックに見覚えがあった。
今年の夏。界域から逃げる夜。
翔平が宋科長に渡した賄賂だ。性欲を異常に亢進させる、恐ろしいゼリー。
「白錫来のお願いや。我慢せえ」
「……。どういうことです?」
戴奇の言葉に、かろうじて応答できた。
「あいつ、失脚から3年間。高官の全員に何通も手紙送っとるんや。希冰の処女を差し上げますから、ここを出してください、言うてな」
「だから、僕が面会して直接聞いた。なぜ、カナダに逃がした実の娘じゃダメなんですかって」
希冰はそれ専用の人間だ。
白錫来はトニーにそう言ったという。
■
──これは現実じゃない。
理性で思う。だが、わたしは叫んでいた。
快感。幸福感。
1989年の世界で、燕芳の頭のなかで味わったのと同じ感覚。
羞恥心が自分の頭から抜け落ちている。
深緑の旗袍の裾を割って、太ももの間に枯れた木のような背中があった。全裸の戴奇が頭を深く突っ込んでいる。体温の低い指が脚を撫で回し、すんすんと間欠的に息を吸い込む老人の鼻や舌先が下着に触れるたび、自分でも驚くような声が出た。
右足の靴が、いつの間にか脱がされていた。
トニーが一心不乱に、ストッキングに包まれたわたしの足の指の匂いを嗅ぎ、舐めていた。彼も一糸まとわぬ姿だ。なぜか、前に翔平と行った水族館のシロイルカを思い出した。
「嫌」
よかった、わたしはまだ。こう言える。
「リラックスしなよ。翔平くんにされていると思えばいい」
そうか。なんだ。彼がしてるのか。
うれしい。
脱がせて。ほしい。触って。
もっと。
違う。だめだ。わたしはおかしい。理性を戻せ。違う。わたしはおかしい。
翔平。
わたし。おかしい。




