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【第四十五章】2027年10月21日 チャイナ・ドレス(アイスの物語)

 目の前で、茶藝師が魔法のような手つきで中国茶を立てていた。

 桂花に似た香りがここまで匂う。

 雲南省勐海(めんはい)、トニーの年齢に合わせた28年(ちぇん)ぷぅあるしょんちゃあ。市場には出回らぬ、中央幹部専用の特供品。

 場所は国子監ぐぉづじえんにほど近い、清末のさる親王の邸宅を改装したがおじぃふぃすぉだ。調度品のいくつかは、今日のために故宮(紫禁城)から運ばせたという。

 

 私は王府井わんふぅじんの店で仕立てられたちぃぱお、つまりチャイナドレスを身にまとっていた。

 艶を抑えたシルク混の高級サテン地。落ち着いた深緑色。上半身は七分袖。右側に太ももの上のほうまで高くスリットが入っている。

 首元には翡翠のペンダント。昨晩、ホテルの従業員からうやうやしく届けられた、白一泉の2番目の夫人の愛用品である。


 朝に旗袍を着て、ホテルでメイクをされた後。

 鏡の前に立って息を呑んだ。

 たぶん、人生でいちばん似合う服だ。容姿をさほど誇りに思わず生きてきたつもりだが、鏡の中のわたしは掛け値なく美しかった。

 翔平に見てもらいたいな。

 一瞬そう思ってから、現在の自分の立場に暗澹とした。


 まだしもの救いは、見合い相手──。

 党常務委員の孫のトニーが、話せる相手であることだ。

 昨夜、わたしたちは6人でいろいろな話をした。トニーの発想は自由で、家に縛られないタイプに見えた。保守的なおじいさまの大反対を押し切って、フランスの美大に留学した人物なのだ。


 アートは自分を解放できる環境じゃなきゃ生まれない。

 中国の芸術と芸能に、最も欠けているものだ。

 同感だった。

 欧州諸国や日本は、中国よりも小さくて弱い。なのに、彼らの映画や音楽や絵画はなぜ素晴らしいのか。昨夜はそんな話で盛り上がった。


 お茶をいただき、清朝宮廷式の高級中華がゆっくりと運ばれてくる。

 落ち着いて形式的に。

 伝統的な中華服にすこし遊びを入れた格好のトニーは、見合いらしいあたりさわりのない会話を……。していたが、そんな話すら意外とおもしろかった。


 かつて、この邸宅の主人は清朝きっての親仏派だったらしい。なのでトニーの祖父は「西洋に頭を下げた人間の家は」と、今朝になり難色を示したそうだ。

「でも、僕もアイスさんもフランスが好きだ。親仏派でなにが悪い。そう言ってやったよ。いいものはいいんだ」

 すこし笑ってしまった。

「……しかし、昨日はバカ話をしたのに、堅苦しい言葉づかいも息が詰まるな。普通に喋ろうか」

「自分は構いませんが、それでは……」

 わたしの隣には、もうひとり男性が座っている。


 ──范中行ふぁんぢょんしん

 左遷前の上司で、当時の肩書は連合国司(国連部門)の司長。日本でいう部長クラスだ。わたしの血筋を気にせず、褒めるときは褒め、失敗は厳しく叱る人だった。おじさまの失脚後も、日本赴任の日まで態度を変えずにいてくれた。

 尊敬できる社会人。恩師に近い。しかし、リラックスできない。

 今日の彼は仲人なこうど役で、わたしの付き添い人を兼任していた。一族が政治的に全滅しているので、保護者がわりに選ばれて同行したのである。


「ああ、范さんなら大丈夫。僕とも過去3年近い付き合いだ。それに彼、いまは外交部の人じゃない」

 わたしの日本赴任の直後、シンガポールの中国政府系企業に出向。定年後もそのまま勤めているらしい。

 わたしとトニーの双方を知る人物。よく見つけられたものだ。

「白君。もう上司ではありませんし、叱りませんよ。おじさんは若い2人に任せて、酒でもくらっていましょうかね」

 范中行はくだけた口調でそう言うと、すぐにシャトー・オー・ブリオンの28年物の赤ワインを運ばせた。

 最初から、ある段階で場を崩すつもりだったらしい。

 老練な外交官。この人には勝てない。


「アイス。このおじさん、実は筋金入りの反中分子なんだぜ。若い頃は天安門のデモやってたんだから」

 トニーが言った。

 ここの盗聴器は外してある。言外にそう伝えたいのだろう。

「若気の至りですよ。おじさんをいじめないでください。トニー」

「はは、范さん世代の人はみんなだろ? それに、僕はあの運動が完全に間違いだとも思わないな。みんな自由がほしかったんじゃないか?」

 ──自由。

 こんなことを喋っても、自由。

 中国で紅二代ほんあるだい官二代ぐあんあるだいだけが享受できる自由だ。


 食後、トニーに連れられて2人で邸内や庭園を見て回った。

 庭園は広くて美しい。奇岩は泰山、小川は黄河と長江、池は東海をそれぞれ模する。風水も完全に計算され尽くした空間だ。

 トニーの話が上手く、つい庭園を一周した。ちょっとしたハイキングだ。10月とはいえ天気がいい日で、背中にすこし汗をかいた。

「ちょっと休もうか」

 木陰にある大理石の長椅ベンチに座った。乾隆年代の作らしい。

「あのさ、トニー」

 わたしは言った。周囲に人はいない。

「あなたなら、わかると思って喋るんだけど……」

 彼とは昨日の会食の後半から友だち口調だ。


「想像つくよ。アイスはお見合いに乗り気じゃない。違うか?」

「そうなの。でも、あなたが嫌とか魅力がないとか、そういう理由じゃないの。むしろ、人として好感があるし、敬意を覚えてる」

「ありがとう。その言葉はうれしいな。昼ごはん足りなかったけど、これでおなかいっぱい」

 もう。わたしは笑ってしまった。

「でもなあ……。僕も見合いは勘弁って感じだったけど、正直、昨晩からは乗り気だったんだ。喋っていて、アイスは楽しい人だもの」

 キキみたいな他のお嬢さんと違って、自由の匂いがする。トニーはそう続けた。


「ごめんね、トニー。困ったなあ」

「わかった。アイスは日本に彼氏がいるのか」

「うん」

 2ヶ月半前からいる。大好きなの。

「やっぱり。ただ、アイスは偉いよな。白家の純潔教育の洗脳ってヤバいだろ? 0(りん)0(りん)ほう(2000年代生まれ)にやる教育じゃないよ」

「そう、いまから考えるとやばすぎる。でも、なぜわたしが偉いの?」

「実家の縛りに抗ったわけじゃん。僕も常にそう努力してる。大学時代、一般人の彼女と別れさせられたことが人生最大の後悔なんだ。それでムカついて、フランスに行ったんだぜ」

 よかった。この人はわかってくれる。


「おかげで僕の初キスの相手はフランス人のおっさんだ。傷心旅行で行ったニースのビーチで溺れて、人工呼吸だよ。もちろんその後に付き合った人ともできたけどさ。でも、目を閉じたとき……。ヒゲづらマッチョの顔が」

「冗談にしていいやつなの?」

「定番のネタのつもり」

 それじゃあ。

 いひひ。わたしは笑った。やっぱりこの人、おもしろい。

「トニーに勝ったなあ。わたし、ここに来る4日前に初彼氏とやっとキスできたよ」

 言っちゃった。

「おー。おめでとう! でも、そんな時期ならなおさら、いまのアイスは困ってるよな。気の毒だ」


 それから、トニーは言った。

「……白錫来さんの件も含めて、うちのじいちゃんに相談しよう」

「ほんとに!? できるの、そんなこと」

「アイスは友だちだ。僕ができることをやってやる」

 すごい。

 身を乗り出したわたしの前で、トニーが携帯を触った。

 わたしは察してお手洗いに立った。

 彼の親族とはいえ党の常務委員だ。私的な会話を聞くべきじゃない。

 

 ……15分後。

 戻ったわたしの前で、彼が静かに親指を立てた。

「夕方に会えるってさ」


 お見合いの相手がトニーでよかった。

 望まない結婚も、おじさまの件も。

 わたしは、この問題を解決できるのだ。

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