【第四十四章】2027年10月20日 学友(アイスの物語)
「アイス、おひさしぶり! まったく変わっていなくて驚いたわ!」
朝9時。
ホテルに迎えに来た人物は、昨日の公安職員ではなかった。知っている顔だった。
梁思琪。あだ名はキキ。
わたしの大学時代の学友で、中国外交部の同期だ。控えめで物静かな性格。往年は学友のなかでいちばん親しかった。公安副本部長のお父さまがいるご実家を尋ねたことも、いっしょに海南島のビーチに旅行に行ったこともある。
だが、彼女はおじさまが失脚するすこし前から、突然わたしと距離を置いた。他の知り合いはともかく、キキが完全に身辺から離れたことは、当時の自分には大きなショックだった。
もちろん、往年の自分が逆の立場でも、同じことをしなかったとは言い切れない。彼女を恨むのは筋違いだ。理性では理解している。
「嬉しいわ。アイス、北京に戻ってくるんでしょ?」
キキは屈託がなかった。
むかしと違って快活な雰囲気だ。自信や優越感を漂わせている印象もある。政治的な事情もあるかもしれないが、それ以外の理由も推測できた。
左手の薬指の、指輪。
「そうなの。世界で一番、幸せよ」
おめでとう。心から祝福した。
政治的な結婚だっただろうと思うが、幸せになれたのなら素直に嬉しい。
指輪を見たとき、彼女の手首の時計が目に入った。
フランク・ミューラーのレディース。過去、おじさまがわたしの就職祝いに買ってくれた時計で、いまわたしがつけているものと同じ型だった。ただし彼女のカラーはピンク色だ。
「……お揃い。アイスに会うから、夫に買ってもらったの」
すこし羨ましかった。おじさまよりも、夫に買ってもらうほうが嬉しいに決まっているのだ。
■
「ひさしぶりに会えたから、今日は私が接待するわ。アイスはお金を出さなくていいからね」
自動車は彼女の自家用車で、夢想汽車のSUV型EVだった。
専属の運転手がハンドルを握る。夫の実家の手配だそうだ。
行き先は王府井の外れにある、老舗の高級旗袍(チャイナドレス)店だった。
そこで全身を採寸された。キキは行きつけで採寸のデータが残っているらしく、その場で新しいドレスを注文していた。店内には他にメイク担当者がおり、わたしの顔立ちや肌の質を仔細にチェックされた。
「これは、つまり」
「うん。明日のアイスのお見合い用。私もここで仕立てたの」
予想はしていたが。これから、この件をどう断ればいいだろう。
だが、わたしが落ち着いて考える間もないほど、キキはさまざまなことを話し続けた。
外交部の共通の知人、大学の恩師、さらに大学時代の学友の近況。学友6人のうち、結婚したのは3人で婚約中が1人。いずれも相手は、高位の党高官の息子だった。
彼女らは中堅官僚の娘が多い。みんな、父親の出世や利権のために協力したのだろう。いまならわかる。
「でも、アイスは別格よ。序列4位の戴奇主任のお孫さんとだもの。うちの夫は序列7位の息子。これまで学友の間で一番だったけど、やっぱりあなたには勝てないな」
体制内子女のヒエラルキーからすれば、わたしのお相手は破格。一番星。
それを断りたい。……とは、ここで彼女には言い出せそうにない。
その後、キキも入会しているという党高官家庭専用の会員制スポーツジムに連れて行かれ、2人で1キロほど泳いだ。彼女の水着姿は同性のわたしから見ても魅力的。いや、妖艶に近い色気を感じた。体型は変わらないのに、過去に海南島で見たときとはまったく雰囲気が違う。
水泳後に水着のままサウナに入り、それからホットヨガ。味はいいがプロテイン中心の素朴な昼食を食べてから、場所を変えてエステ。わたしも以前から店名を知っている、芸能人やモデル向けの名店だ。店内は貸し切られており、みっちり3時間かけてマッサージとパックを受けた。
「ねえキキ。あなたもむかし、白家に選ばれて学友に配属されたのよね?」
「そうよ」
マッサージ中に彼女に尋ねると、キキはあっさりそう答えた。
「光栄だったわ。すごく努力して選抜されたの。父も喜んでくれた」
「配偶者や友だちって、自分で選ぶものじゃないのかな」
アイス、日本でなにか悪い影響を受けたんじゃない?
キキが心底から心配そうな声で言った。彼女の価値観において、わたしの意見は異常に見える。
「党や実家に選んでもらうのはいいことじゃない。愛情も友情も、それで本物になるの。それに、体制内の子女はみんな兄弟姉妹と同じよ。他の人たちなんか、友だちになれない」
わたしの背中を、女性マッサージ師が静かに押し続けていた。話を聞かない訓練ができているのだろう。
「だから、アイスは本当の友だち」
キキの言葉に、なぜか苛立った。
「……白錫来事件のあと、あなたは返事をしてくれなかった」
思わず口走った。この話は出さずにおこうと思っていたのに。
しばらく沈黙があった。
ごめんなさい、とキキに謝る。
「理解してるわ、アイス。でも、これからはもういちど、兄弟姉妹に戻れるから、大丈夫。また友だちになれる」
彼女はさらに言葉を継いだ。
「あなたが結婚したら、もっとお互いをさらけだせる。いまから楽しみなの」
■
やがて、キキがまどろんで静かに寝息を立てはじめた。
キキと話すのはつらい。
彼女は過去のわたしなのだ。
中国共産党が存在しない世界は異世界、体制から外れた人たちは異種族。思考も価値観も想像できない。言葉の通じない、理解不能な存在。
でも、わたしはすでに彼女の世界から外れた人間だ。異世界の暮らしが好きになり、異種族と恋愛している。
キキの人生は否定しない。ただ、わたしはもう、彼女と同じ生き方はできない。
逃げる方法は。
でも、その場合、おじさまは。
考えることが多すぎた。
──この日の夜。
はやくひとりになりたかったが、キキから夫と友だちを紹介すると言われた。
会わないわけにもいかない。
場所は什刹海の近くにある、胡同の古民家をリノベーションしたワインバーだった。
胡同。
今の時代は、店のなかにトイレがあるんだな。そんな妙なことを考えた。
■
キキの夫はダミアンという。
党内序列7位の副総理、林彦初の息子。ハーバードに留学歴があり、颯爽としたエリートだった。
さらに友人として同席したのが、マック夫婦だ。マックの父は天津市書記の党政治委員で、彼自身は国有企業系の未公開株ファンドの実質的オーナー。典型的な体制内ビジネスの成功者だ。
彼の妻のリリーは……。わたしの「学友」。大学1年の秋に姿を消した子だが、見覚えがあった。
「アイスさん、ご評判は聞いていましたよ。お見合い相手が羨ましいな」
ダミアンがそう言うと、キキが「私じゃだめなの?」とからかうように肩を叩いた。仲睦まじい。1989年の燕芳がやりそうなしぐさだった。
気が進まない会食のはずだった。
だが、思いの外に楽しかった。
みんな知識が豊富で、話題に事欠かないのだ。ダミアン夫婦は雲南省の大理に別荘があり、現地の変わった文化や食事の話をしてくれた。対して民間人のマック夫婦は、政治委員の親族にもかかわらず上手に抜け穴を使い、年間の半分は海外で過ごしている。アントワープの街歩きの話は興味深かった。
一瞬だけ、自分がキキやリリーの立場だったら……。と想像した。
家庭内の話題が豊富で、楽しいんじゃないか。夫婦仲もよさそうだ。夫との文化的なギャップを気にする必要がない。ワインや歴史や旅行の話は、やはり生育環境がものをいう。
もちろん、わが翔平の名誉のために言えば、彼にはいいところがたくさんある。なにより彼は、ご両親譲りで温かい人だ。わたしをすごく大事にしてくれる。あと、実は見た目もいい……。
ただ、わたしはこの点は気にしないほうだ。自分が外見だけで勝手に評価されがちなので、男性は清潔感さえあればそれ以上は求めない。
──紅二代。官二代。
考えてみると、わたしはおじさまの左遷でひどい目に遭いすぎた。目に負のフィルターがかかっていた部分もある。
そもそも過去、親族以外の体制内子弟の若い男性とまともな会話をした経験がほとんどないのだ。
似た育ちをした配偶者がいると、それはそれで楽な部分もある。幸せそうなキキやリリーの顔を見て、素直にそう思った。
■
「よう、やってるかい?」
「トニー! 待ってたぜ」
マックの声の方角を見ると、狭い店内にもうひとりの男性が入ってきていた。
巨漢。ただ、体型にフィットしたダブルベルベットのジャケットとグレンチェックパンツ。なかには普通に白いワイシャツを着ているように見えて、こっそりと襟元にカラーが入っている。おしゃれだ。
活仏の仁間さんや、新中華界域で見たルワンダ人の廬凱を思い出した。自分の身体的な特徴を理解したうえで、似合う服を選べる人は印象がいい。努力と美意識を感じるからだ。
「はじめまして。トニーです。ええと、本名は名乗りづらいけど、まあ、僕たちだからお互いさま。友だち付き合いに家は関係ないってことで」
他の友人たちが笑った。仲間内の人気者らしい。大らかで明るいキャラクターなのは、見ているだけでもわかる。
歓談に加わってからの彼は、ダミアンやマック以上に冗談が巧みだった。わたしも何度か笑い転げてしまった。うまく自分を下げつつ、卑屈にならずに笑いを取れる人なのだ。
トニーの職業は、芸能芸術関連の投資企業の名目的な代表者だった。典型的な体制内子弟のビジネス。ただ、彼自身も美意識は高く、学生時代はフランスの美大に留学したという。
事実、冗談が落ち着いてから彼が口にした芸術や建築、音楽の話題には舌を巻いた。ブリュッセルの王立美術館のマルグリットと、チェコのオペラのリューザルカ。クロアチアのドゥブロブニクの街並み。
ドゥブロブニクは、彼が自分でドローンを飛ばして撮影した動画をスマホで見せてもらった。アドリア海の青と、おとぎ話みたいな建物。すごい。
いつか行ってみたいけれど、翔平は現地で退屈しないでいてくれるかしら。一瞬、状況を忘れてそんな想像をしてしまった。
■
「アイスさん、飲まないの? 赤ワインが好きだと、キキに聞いたけど」
トニーが言った。
実のところ、わたしはお酒に弱いのに赤ワインが好きだ。外交官として一定の知識を得ておこうと、就職前に勉強したときにファンになった。
「中華料理にいちばん合う酒は、実はフルボディの赤ワインだ。ここの胡同料理とは相性抜群だよ」
ただ、顔がむくまないために今日はお酒は控えろ、とキキに言われている。でも、飲みまくって顔がぱんぱんになるほうが、すこしは明日の相手の印象が悪くなって、よいかしら。
「大丈夫、明日のことは気にしなくていいよ。もう言っちゃうけど、実はアイスさんの見合い相手、僕なんだ。本名は戴梓豪」
……え?
「ムダに偉いじいちゃんの要望ってやつ。でも、せっかくだから明日は美味いもん食うチャンスだと割り切ろうぜ。あ、もしごはんの量が多ければ、僕が全部食べちゃう」
嫌味のない冗談で、思わず笑ってしまった。かわいいな。
──困った。
この人、嫌いじゃない。
もちろんお見合いは断りたいけれど、失礼をすると、気の毒。




