【第四十三章】2027年10月19日 消える(翔平の物語)
「グアハハハ。まさかここで会うとはな翔平。さあ、ともに再び紡ごうぞ。ブラック労働の伝説を!」
紡がねえよ。
っていうか今日の仕事、明らかにブラック感ゼロじゃねえか。
新大久保。都内に5店舗を展開する韓国系不動産会社の本社社内。
おれは数ヶ月ぶりに顔を合わせた加賀のバカ笑いを聞いていた。
界域の件でしばらく再就職を控えているとはいえ、おれも仕事はしている。本日は前職場で携わったサーバのメンテ対応と、バージョンアップ対応だ。
「しかし変だよな。会社員だと無償でこき使われるのに、フリーになったら顧客から日当が出るんだぜ」
「グハハ。これがブラック業界のブラックたるゆえん」
往年、おれたちが突貫工事で仕上げたスパゲッティ・コードを解読できる人間は当事者しかいない。なので、会社が潰れたあとはおれたち個人が呼び出される。フリーランスSEあるあるだ。
自分たちの雑な仕事のおかげで、その後に継続してもらえる仕事。責任ある社会人としてこれでいいのかという気はするが、割とおいしい収入源なのは事実である。
2027年の世界。
なかなか慣れないだろうと思っていたが、日常は自分を押し流していく。
今日は終わったら久しぶりに加賀と飲みに行くか。アイスは北京に出張中だし──。
あいつが隣りにいると、ビールをパカパカ飲んだりするのは心情的にやりにづらいしな。たまには独身気分で……。別にのろけじゃない。月曜の朝まではお互い1989年の雰囲気が残っていたから、現実感覚として所帯持ちだったのだ。
仕事は奇跡の5時上がり。
新大久保で韓国焼肉を思い切り食い、マッコリを飲みまくってしまった。韓流ブームに便乗した店なのか、意外とボられて昼間の稼ぎが3分の1くらい消えちまったが……。ま、江戸っ子はときにそういうこともある。アイスには内緒だ。
7時に過ぎに加賀と別れ、ほろ酔いで新大久保の裏道を歩いた。
久しぶりにパチンコでも打つかな。いや、前に禁煙すると言ったけれど、タバコ吸っちゃおうか。うん、まあ今日のおれは吸ってもいい気がする。
寺を見つけた。庭が公園みたいになっている。
おれはコンビニでタバコを買い、お地蔵さんの隣のベンチに腰掛けた。
さてライターに火を。
「……ちょっと。信じられない。翔平、なにしてるのよ?」
聞き慣れた声が聞こえた。怒っている。
え、うそ。
まずい。
■
「おまえ……。今日は出張って」
おれの目の前にアイスがいた。
服装はパンツスーツだ。朝、スカートで空港に行ったと思ったが、着替えたのか。
「ちょっと。タバコ吸うと臭いっていつも言ってるよね? 私の言葉はどうでもいいの? 許せない。最低」
目に冷たい光があった。
むかしの時期を含めて、こいつがおれに明確な憎悪の視線を向けるのははじめてだ。
ヒステリックにキーキー責めるような口調も、従来あまりない。そもそもタバコも……。過去に一度だけ「身体に悪いかもしれないから減らそうね」と優しめに言われただけだ。その後は彼女に会う日は吸わないし、特に紙巻きは完全に控えてきたけれど、相手から禁じられたわけではない。
「ごめん」
とりあえず謝った。平和の秘訣。
「ほんと情けない。残念すぎるわ。つるんでも学ぶものがゼロの友だちと、貧乏くさいもの食べてボッタくられて。頭悪すぎてうんざりしちゃう」
おい。
おれ自身はともかく、加賀の悪口を言わなくていいだろうが。
「あなたみたいな貧乏くさくてつまらない男、愛想尽きちゃった。界域の雰囲気で思わず付き合ったけど、そもそも私と釣り合う男じゃないよね。あなたって」
雰囲気がおそろしく冷たい。
知らないやつみたいな。
いや、過去の彼女の性格を、思い切り意地悪く解釈して拡大したような──。
「これはもう、お別れすべきよ。わたしたち」
彼女が言ったので、おれは応じた。
「いいぜ。ただ、別れる前におれが買った指輪を返せ。高かったんだ」
「ケチ。貧乏。ほんと最低。あんな安っぽい指輪。言われなくても返すわよ」
「……へえ」
▪️
「あーあ。こんな男と付き合ったのは人生の黒歴史。私の目の前から消えて」
「それはこっちのセリフだ。だって──」
こいつは、アイスじゃない。
おれは指輪なんか買っていないのだ。
それに……。
見た目は完全にアイスでも、こいつからはあいつ特有の、俗世の人間活動が微妙に苦手そうな雰囲気をまったく感じない。不器用で生真面目じゃないやつは、あいつじゃない。
「へえ。お姫さまにぶら下がってるだけのヒモ男かと思ったけど」
女が底意地の悪い顔で笑った。
違う人間だとわかっていても、アイスの顔でそんな表情を作られたくない。
「おまえ、界域のシーラだな。違うか?」
「あら、まさかそこまでバレたのか」
目を丸くされた。
本当はカマをかけただけだ。だが、連中の技術力を考えれば不可能じゃなかろうと思えた。
4ヶ月半前。シーラと最初に会ったとき。
彼女は湯島のホテルからいきなり姿を消した。幽体離脱やドッペルゲンガーでもなければ、おおかた立体ホログラムかなにかだと見当がつく。
よく見ると、こいつが擬態しているアイスの服装や髪型は、界域を訪問したときのあいつと同じものだった。喋り方や発音も、どちらかといえば過去のあいつっぽい。
界域で収集した外見や音声データをもとにAIで再構成をした、ってところじゃないか。
「すごいわね。あなた、元ブラック社員のくせに、思ったよりも頭がいい」
余計なお世話だ。
「いますぐ、その顔と声をやめろ。不愉快だ」
「え? いいの? この子のおっぱいをFカップにして、あなたにだけストリップ見せてあげることもできるけど。ディープフェイクポルノの立体版。頼んでも絶対に着てくれないえっちな服も──」
「見る必要ねえな。本物のほうがずっといい」
おれがそう言うと、驚愕するべき現象が発生した。
■
まさか近眼になったのか? 一瞬そう思った。
いきなり、目の前のアイスの姿がピンボケしたように薄れたのだ。
やがて、モヤが再び形を取る。
日本風の若い女が立っていた。前に湯島で見たシーラの外見だ。
「……東京エディション。世界一かわいい中国共産党員より、坂道系アイドルのほうが好み?」
「何の用だ? 界域の女王の件は、もう流れたんだろ?」
相手の話を無視して尋ねた。
「とっくにお流れ。でも、私も多忙な身なの。今回、東京にホログラムデバイスを送ったのも別件の準備のためなんだから」
「まさか、またテロか」
「さあ? とにかく、来たついでに新大久保であなたを見つけたから、遊んであげたわけ。……それにしてもあなた、あんなクソ汚いコードばっかり書いて、テックに携わる人間として恥とは思わないの? 苦労してハッキングする職人たちの気持ち、もうすこし考えてよ」
だめだ。このイカれた女と喋ると疲れてくる。
もういい。さっさと消えろ。
「……ふうん。消えちゃっていいんだ?」
突然、アイスの姿に戻って言った。
やめろ。
「あなたが大好きなこの顔、人生で見納めかもよ?」
うるせえな。
あいつは5日後にうちに帰ってくる。帰ってきたら穴の空くほど見てやるよ。
「へえ?」
シーラが、アイスの顔でひどく嗜虐的な表情を浮かべた。
「白希冰ちゃんの今回の出張、チャガンが噛んでるよ」
──!
いや、落ち着け。ブラフで揺さぶっている可能性も──。
「こういうことで嘘ついたら、ゲームとしてつまらないじゃん? それに……。庶務雑務科の彼女に、茨城じゃなく成田からのチケットが公費で準備されていた。変だと思わない?」
動悸が早まる。くそ。
こいつはおれを困らせたくて、わざわざ中途半端に情報を開示している。動揺を表情に出すな。
必死で心を落ち着けて顔を上げると、彼女の姿はかき消えていた。
黒い何かがフワッと舞い上がる。
蝶。
アオスジアゲハ。
「これ、まだ紹介してなかったっけ? HDM-QW2(胡蝶夢-斉物二号)。蝶型のホログラム投影超小型ドローン」
ふざけるな。
隣のお地蔵さんの献花が目に入った。
そこから百合の花を抜き取り、気を込めてぶん投げる。草心如鋼。ユリ科植物だけ硬化できる力。
蝶の羽根をかすめる。標的が小さくて外れた。
「わっ! こんなことできるようになったの? やめてよ。これ、プロトタイプだから壊れると面倒なの」
アイスの声で音声が降ってきた。
蝶は上空に飛び、やがて風に乗って見えなくなった。
■
一昨日。
アイスが受け取った宋科長のメッセージは、やはり面倒な話だったのか。
あいつはおじさまの見舞いだと言っていた。
だが、チャガンが裏で絡んでいるとしたら。界域の象徴元首の件に匹敵するような、とんでもなくヤバい計画が進んでいる可能性が高い。
おれはスマホを開いて、スカイスキャナーで明日の北京行きの便を調べた。4万5000円。界域よりはよっぽどアクセスがいい──。
だが。
行ってからどうする。
そういえば今日の昼ごろから、アイスの連絡がない。てっきり見舞いや仕事の事情だと思っていたが、なんらかの理由でスマホが使えない可能性は?
仮にそうなら、あいつの居場所を知ることは不可能だ。
「あ……。高田。すまん。いま……、かなりしんどい感じだ」
頼みの綱も、この日は十分に頼れなかった。
謝雨萌に電話を掛けたら、なんと沖縄の辺野古基地の近くにいた。党が琉球世論工作の大号令を発したとかで、日本全国の中国人スパイと国営メディア関係者が沖縄に大量投入されているらしい。中国共産党、ほんと余計なことしかやらない。
「ま……、あたしらは適当にしかやんねえけどな。万が一、日本が滅ぶとBLが滅ぶ──。すまん! キャッチホン入った」
かなり忙しそうなので、ひとまず状況をSignalで送るにとどめた。可能な範囲でのバックアップをお願いしたものの、数日内に彼女に動いてもらうのは難しそうだ。せめて国家安全部の陳さんチャンネルが使えれば、手がかりを得られるのに。
ちくしょう。
これが38年前なら、井村所長でも李さんのおばちゃんでも、澡堂の劉さん父子でも。北京に当てがいくらでもあるのに。現代のあの街に知り合いなんてゼロだ。
出たところ勝負で現地に行くか──? だが、北京は人口2000万人級の大都市だ。そんな場所で、どうやってアイスを探す? 天安門デモのときみたいに、みんながその周辺にいるわかりやすいイベントも起きていない。
■
鬱々としながら山手線に乗り、西日暮里で千代田線に乗り換えた。
綾瀬駅。いつもの道。時刻は8時半。
気ばかり焦り、足が空回りしている気がした。
北京亭。
……なんだ?
うちの前に、親子がいた。
中年の女性と小学生くらいの女の子。
なんと玄関先のビールケースに勝手に座って、街灯の明かりを頼りに、母親が子どもの塾の宿題の丸付けをしていた。
誰かを待ってるのかな。
でも、人の家の前でやってもらっちゃ困るんだが。
──あれ?
おれは目を疑った。
テキストに目を落とす母親の隣にいる子に、見覚えがあったのだ。
38年前、胡同で隣の家に住んでいた、面倒見のいい女の子。
まさか。この時代に彼女がいるわけがない。だが、どう見ても本人……?
「こんばんは。あの、もしかして知り合いですか?」
おれはおそるおそる、日本語で声をかけた。
女の子は呼びかけに関心を示さず、かわりに丸付けの赤ペンを走らせていた母親が顔をあげた。
誰だ。40代なかばくらい。
顔立ちからして、たぶん中国人。服装はちゃんとしている。
美熟女……、だが、ちょっと疲れた雰囲気。
なんとなく見たことがある気もするが、どこの奥さんだ?
「翔翔児?」
奥さんが胡同言葉で言った。
「……間違いない。白ちゃんの監視対象の高田翔平。つまり、翔翔児」
あの。あなたは。
「蘭蘭よ。わかる? 横水坊胡同で隣に住んでいた、ゴム跳びが上手な蘭蘭」
「……わかります。いや、わかる! 本当に蘭ねえちゃんか!?」
「そうよ、私がそうなの。翔翔児……。まさか、本当に会えるなんて」
蘭蘭が涙ぐんだ。
おれもこみ上げるものがある。両親が死んだあと、おれの身をいちばん気にかけてくれたのは隣の李さんの家なのだ。身元の引き受け先が決まるまで、しばらく自宅で育ててくれていた。
「蘭ねえちゃん……。おれ……」
言葉に詰まっていたら、彼女の娘が「コナン?」と無邪気に言った。
感動の再会なんだけど。まあ子ども基準ではそっちに反応したくなるよな。
むかしの蘭蘭とそっくりな娘の名前は、李可心ちゃん。
■
──38年後の蘭蘭。
本名、李秀蘭。職業、左遷外交官。
中国駐日大使館の庶務雑務科のエースで、アイスが「李姐」と呼んでいる仲のいい同僚だ。
おれは北京亭の1階に彼女らを招き入れ、温かい菊花茶を出した。10月とはいえ夜は冷える。わざわざ子連れで家の前で待っていたのは、よほどの事情だろう。彼女はアイスの監視報告書を頼りに、おれの住所を探し当てたという。
「積もる話もたくさんあるけれど……。その前に。あなた、白ちゃんとお互い将来を考えて交際してるわよね? 本人からそう聞いてるんだけど」
回答に困っていると「大丈夫、上に報告するためじゃない」と蘭蘭が言った。
「交際しているよ。蘭ねえちゃんの言う通りの関係だ」
「わかった。それなら翔翔児に言う。いま、白ちゃんが大変なの」
昨日、宋科長は普段に増して変だった。
なので蘭蘭が退勤時間に問い詰めた。それで事情を知ったらしい。
「……白ちゃん、北京で結婚させられるわ。かなり上位の党高官の孫と」
おれは耳を疑った。




