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【第四十二章】2027年10月19日 孝道(アイスの物語)

 ──2027年、北京。

 中国国際航空のビジネスクラス。

 降機後、外交官レーンで入国。空港に待機していた党幹部専用車のほんちぃに乗せられた。

 左遷者のわたしに対しては異例の待遇。ただ、事態の重要性を考えれば納得できた。

「セキュリティのためにスマホをお預かりします。用が終わればすぐに返却いたしますので」

 迎えの公安職員から、慇懃にそう言われた。

 こちらも理解はできる。万が一、写真や録音が外部に流出すると大問題になるからだ。


 車両は亮馬橋りゃんまぁちゃおを経て国貿ぐぉまおで右に曲がり、ちゃんあんじぇを西に走っていた。

 林立する高層ビル。市内にあふれる民営の商店。地名こそ1989年と同じだが、到底同じ街とは思えない。ここは本当に、あの北京なんだろうか?

 やがて天安門広場の前を通った。この場所だけは同じ。ただし、当然ながらデモ隊はいない。

 ──西単しーだん復興門ふぅしんめん木樨地むーしーでぃ

 あの時代を体験したわたしには別の意味を持つようになった地名が、車窓を流れていく。

 車両が五棵松うぅくーそんの交差点を左に曲がり、地下に入った。


「どうぞ」

 幹部用の秘密通路の出入り口で降ろされた。車内でメイクと身だしなみは整えている。

 301(さんりんいー)医院いーゆえん。人民解放軍直営の病院で、党の高級幹部の入院先はほぼこちらだ。

 別の公安職員に案内された。

 秘密通路からエレベーターを上がり、特別病棟の病室に通される。

 マホガニーの厚手の絨毯に、立派なソファ。病室の内装や調度品は最高級ホテルのスイートルームと比較しても遜色がない。

「やあ。希冰」

 電動ベッドの上に横たわった人物が片手を上げて笑った。

 黒々とした頭髪が総白髪になり、皺が増えた。だが、端正な顔立ちと、周囲に一定の緊張を強いる独特のオーラは、まだ往年の面影が残っていた。

「……お身体は大丈夫なのですか? おじさま」

 わたしは彼の様子に、やや戸惑ってそう尋ねた。


 白錫来ばいしーらい

 元党政治委員。重慶市元書記。

 3年前まで絶大な権勢を誇り、次代の主席の地位すら取り沙汰された人物。

 失脚後は高級幹部専用の拘禁施設であるちんちぇん監獄に投獄され、外部に動向が伝えられることも稀だった。わたし自身、投獄後は一度もお目にかかれていない。

「党の多大なる温情により、私はまったくもって健康だよ。それよりも、お前が立派になって嬉しく思う」

 首をかしげた。

 わたしが日本を出る際は、明日をも知れぬ生命、と聞いて来たのだ。

「ところで希冰。私はお前を……。実の娘と同じ、家族の一員であると思い育ててきたつもりだ。ゆえに、お前もどうか、わたしを実の父であると思ってくれ」

 やはり病状は重篤なのか。

 かつての彼は、わたしにこのような物言いをする人ではなかった。


「──白錫来氏の親族である白希冰三等書記官に対して、特例として5日間の北京出張を申し渡す。事態は一刻を争う状況ゆえ、明日午前の便で向かっていただきたい」

 昨日朝、9時。

 大使館に出勤したわたしは、なんと中国大使に直々に呼び出された。

 隣では上司のそん科長が震え上がっている。


 中国駐日大使館の職員は百数十人。その頂点である大使は、文字通り雲の上の存在だ。

 中国外交部において、日本をはじめとする主要国に駐在する大使はぢぇんぶーじぃ、すなわち大臣クラスの要人である。私自身、赴任直後の挨拶をのぞいて、3年弱の日本勤務で大使と直接言葉をかわしたことはほぼゼロに近い。

「白錫来氏の保外就医ばおわいじょういー

 大使の話はこれであった。

 つまり、深刻な病気にかかった白錫来おじさまが、治療を許可されて短期出所した。ゆえに、現時点で自由に動ける唯一の親族であるわたしは、公務として入院先の301病院に見舞いに行くように。

 大使が直々に命じるのは、党の大罪人であるおじさまの保外就医が、甚だしい政治性を持つためだろう。

 その後、大使から宋科長に下問があるそうなので、わたしは先に退出した。

 あとは通常業務。

 昼食は李姐といっしょに公園で食べて──。ちなみに彼女には1ヶ月ほど前に、翔平と付き合っていることは話してある。


「おいハクゥ。ちょっと聞きたいことがあんだ。こっち来いよ」

 午後2時、宋科長に給湯室に呼び出された。

 この人と狭い空間にいるのは嫌だな。

 宋科長は、あのなあ白ゥ、と、薄笑いを浮かべ、いつものねちっこい口調で話し出した。

「お前よォ、男とちんちんかもかもした経験はあンのかァ?」

 ちんちんかもかも。

 ……単語はよくわからないが、意図するところはよくわかる。


「ハアァ?」

 わたしはどすの効いた声を出し、片手を腰に手を当てて宋科長を思い切り睨みつけた。

 いいかげんにしてもらいたい。

 最低、気持ち悪い──。いつまでも、内心でそう呟いて怯える女の子だと思ってもらっては困る。

 こっちは先日まで胡同で人妻をやっていたのだ。一児の母を舐めるな。

「あ、いやあのね、白さん。ボクは業務上の」

「そんな業務があってたまりますか!」

「だが上司の質問に」

 今日は妙にしつこいな。


「……天安門を代表する民主化闘士、宋建峰(とん)しゅえ

 彼の変な体臭を我慢して、耳元にそう囁いた。

 ひっ。露骨に顔色を変えた。

「戒厳令が出る前日午後、泣きながらママに手を引かれて天安門広場を出ていって、それから武力鎮圧の日まで布団かぶって震えていた人が──」

「き、貴様! なぜそれを!」

 すごい。適当に言ったら当たっていた。

 だが、彼はまだごにょごにょ言っている。面倒だから切り上げてしまおう。

「ご質問の答えは、宋科長が自由に解釈してください。でも、どうでもいいことじゃないですか?」


 そう、本当に超どうでもいい。

 昨夜だって、いったん大使館宿舎でパッキングした荷物を持って彼氏の家に泊まり、朝は「行ってきます」のキスをしてから成田空港に向かった。その足で、いま北京で白錫来おじさまに会っているのだ。

 ──だが、問題は。

 この超どうでもいい質問を「父親として尋ねるが」と、おじさまからぶつけられたことだった。


「……はい」

 正直に回答せざるを得ない。中国の親子関係、ことに党高官の家庭ではあり得ない問いではないからだ。

 おじさまは「ふむ」と表情を変えずに言った。

「今回、私は党の海よりも深いご慈悲により、保外就医の機会をいただいた。のみならず、近い将来に病気療養を名目として半永久的な仮釈放を許可していただけることとなった」

 耳を疑った。

 仮釈放後、おじさまの表だった活動は禁じられてなかば軟禁状態には置かれるが、親族や縁者の罪はぴんふぁん(名誉回復)される。党が来年開催する白一泉の生誕120年記念式典に、主席がお見えになる手筈も進んでいるという。


「お前も知っての通り、わが家祖・白一泉の功績は人民共和国の紅一等だ。親族の名誉回復により、家名の復興が許可される。お前についても、ひとまず左遷前の部署、外交部連合国司(国連部門)に配属。ポストは一等書記官が準備される」

 左遷が解ける。そして2階級特進。

 20代でのこのポストは破格の扱いだ。現在、官界にいる一族はわたしだけ。ゆえに白家の体面を保つため、わたしが厚遇されるという。


 でも、どうしよう。

 わたしに考える時間をあたえず、おじさまは言葉を継いだ。

「これらはみな、戴奇だいちぃ同志のごはからいによる。主席に取りなしてくださったのだよ」

 戴奇は序列4位の高官で、党中央弁公庁主任。つまり、14億人の中国人民のなかで上から4番目に偉い人物だ。

「戴奇主任が、なぜご配慮くださったのですか?」

 わたしは思わず尋ねた。

 ここだけの話、戴奇の党幹部としての評判はあまりよくない。

 白家との縁もほぼない。往年のおじさまであれば、歯牙にもかけていなかった人物だ。


 戴奇はもともと、福建省の地方都市の市長だった人物だ。

 外見も垢抜けない。紅二代ほんあるだい共青団ごんちんとぅあん(共産主義青年団)の派閥のバックアップもなければ、目立った業績があるわけでもない。本来の官僚人生を歩んでいれば、党の最高幹部などには絶対にならなかったはずである。

 それが異例の出世を遂げたのは、若き日の地方勤務時代の主席が、彼の上司だったからだ。

 いわゆる腰巾着のポジションが重宝され、主席の政権獲得後は北京市のトップに大抜擢された。その後、2022年の党大会で現在の地位に引き上げられている。

 ひどい言い方をすれば、成り上がりの田舎者。

「そこで、戴奇同志は──」

 名家の権威を欲している。ゆえに主席におねだりした。

 だが、他の紅二代の名家は、戴奇を敬して遠ざけたい。ゆえに白羽の矢が立ったのが、没落したが血筋だけは超名門の白家だった。


「私はお前をわが娘として、どこに出しても恥ずかしくない白家の子として、長年育ててきたつもりだ」

 おじさまはさらに、次の一言を口にした。

 つまり……。

 わたしは今回、そのために北京に呼び出されたのだ。


 ホテルまでの道のりは覚えていない。

 思考がまとまらぬまま、紅旗で送り届けられた。

 インタープラネット北京・グランドホテル(北京金融大街球際大酒店)。

 通された部屋は最高級のエグゼクティブルームだった。

 明日は朝9時にお迎えに参ります、と公安職員が言った。夕食はルームサービスを手配するという。スマホを預かられたままなので、キャッシュレス決済が進んだ中国では外に食事や買物にも行けないのだ。

 私は呆然として、服も着替えずベッドに横たわった。


 翔平に連絡したかった。

 だが、スマホがない。

 インタープラネット北京は市内随一の高級ホテルで、かつ党の御用達だ。

 厳重な監視体制が敷かれている。このホテルのなかでは、部屋に備え付けの電話はもちろん、おそらく室内や廊下の会話も盗聴されるだろう。なにより翔平の番号はスマホのなかだ。

 

 おじさまの申し出──。

 というより、実質的には決定事項の伝達。


 どうすればいいのだ。

 わたしはすでに、外交部でのキャリアなんか心底どうでもよかったはずだ。

 白家の血筋に対する誇りも、1989年の世界で白一泉に暗殺されかけて大きく冷めた。もはや一族のことを考えるのはよそうと、考えを変えはじめていた。

 なのに、今回の話だ。

 新中華界域で勝手に一族を再興するのとは意味が違う。

 一族の名誉回復が約束される。つまり、党ベースでの決定事項。育ての親であるおじさまを前に、断れるはずがない。

 なにより、おじさまはわたしが断ることを、そもそも想定していないだろう。

 仮に3年前のわたし──。いや、界域に出張する前のわたしでも、おそらく納得して言うことを聞いたはずなのだ。自分はそのような人間として育てられてきたのだから。

 常識的に考えて、わたしの立場でおじさまの話を断る行動は、中国人としての孝道にもとる。

 だが、心情的は絶対に受け入れようがない。

 おじさまが命じたこと。それは。


 ──戴奇の孫との、お見合い。


 日程は明後日。

 その話がまとまれば、おじさまは仮釈放され、白家は復興する。

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