【第四十章・補】1989年5月20日 光(聖母の物語)
「おしっこ」
……小さな手が、わたしの綿のキャミソールをまさぐっていた。
自動人形めいた動きで起き上がる。3年も母親をやっていると、息子が寝床でなにかを言っただけで、勝手に目が開く。
彼の手を引いて、玄関先に向かう。
尿壺の蓋を開けてまたがらせる。息子のタンクトップに描かれた、あまりかわいくない紫色のドラえもんもどきと目が合った。
──あれ?
夜の玄関の冷気で、すこしだけ頭が冴えた。
わたしはだれだ。なぜか思った。
白希冰、という人名が浮かんだ。
誰だろう。
仲良しの友だちのような、なぜか自分のような。
わたし。
不思議だ。今日の午後に白塔寺に行ってから、胸騒ぎがしている。
近い将来、この子の前から自分がいなくなるような……。あり得ない。わたしは死んでもこの子から離れない。
ただ、強い予感がある。
日本に行く飛行機が墜落? 児童誘拐? それとも戦争?
思い出した。むかし田大勇じいちゃんも、紅衛兵が来る数日前に似たようなことを言っていたのだ。
なにがあるかはわからない。
でも、万が一、わたしがこの子と、ずっと離れることがあれば。
この子は悲しむ。心がつぶれてしまうかもしれない。
駄目だ。たとえ、今後この身が消えたとしても。
……守る。
わたしはぼんやりした頭のまま、食卓の前に息子を立たせて向き合った。
「翔翔児」
声をかける。
▪️
「あなたは、世界一かわいい」
翔翔児の小さな身体に手を回し、頭をなでた。
息子が抱きついて甘えてきた。
わたしはふふっと笑った。だが、声がすこし湿った。
「翔翔児。あのね」
わたしは彼の両頬に手を当て、かわいい瞳を見て話しかけた。
「母さんたちはこれから、お出かけしなきゃいけないの。でも」
なぜかそんな言葉が出た。
確信した。
わたしはきっと、そう遠くない将来に、この子と離れてしまう。
「絶対にまた会える。だから、これを……」
方法は、知っていた。
わたしの手が柔らかく光っていた。
翔翔児の頬に熱が伝わっている。
光はやがて周囲を包み、あたりが真っ白になった。
だが、わが子の姿は見える。
「つよい子に……。なって」
わたしは無理に笑おうとした。
翔翔児は目を丸くしていた。
部屋のなかのカレンダーラジオが、5月20日の11:59を指していた。
「ずっと、いつまでもあなたを──」
最後にそう口にしかけた。
言葉が終わらないうちに、わたしの意識は白い光のなかに吸い込まれていった。




