【第四十章】1989年5月20日 刀槍不入(アイスの物語)
もう、彼女は半分くらいは自分だし、同じ歳の友だちみたいな気持ちもある。
なので「燕芳」と呼んでしまおう。
さっき。
燕芳の頭の片隅にいたわたしは、その精神の深い部分を覗き込んだ。
彼女が生物的な幸福感に意識を浸していたので、身体的記憶や快感に紐づいた思い出まで、細かく読み取ることができたのだ。
──1985年、晩秋。
結婚から半年後に妊娠がわかった。
燕芳は当たり前のように職場に出勤して、出産予定日の直前まで働いた。妊娠初期、国営文房具店の同僚から「つわりはないの?」と尋ねられたが、まったくなかった。それ以外にも、十月十日で困った記憶は、なにひとつない。
──1986年4月15日。
北京市西城区婦幼保健院。
分娩室はベッドごとのカーテンも何もない大部屋。臨月の妊婦6人が、鉄パイプのベッドにどかんと放り込まれていた。鉄錆が浮かぶ分娩台と、あまり衛生的ではない室内。医師も看護師も社会主義的冷淡さで患者に接する。バースプラン? あなたが納得できる出産? 人民中国にそのような概念はない。
周囲からはよその奥さんの絶叫が聞こえ続けていたが、燕芳はあっさりポンと産んだ。「最後、ちょっと痛いかなと思った」と、帰路に夫に話した。自分で翔翔児を抱いて、スタスタ歩いて自宅に帰った。
……育児もまったく苦労していない。
産後にメンタルが落ちることもなければ、体型もまったく崩れなかった。祖父母が身近にいない核家族の夫婦だったが、志軍の出勤中、ワンオペ育児でもぴんぴんしていた。夫は家事をかなり分担してくれたが、正直、自分1人でやったって全然大丈夫だなと感じていた。
翔翔児は夜泣きの多い子だった。
でも、燕芳は平気だ。五徹で新生児に付き合っても全然余裕。イヤイヤ期で子どもが言うことを聞かなくても、イライラしない。ちなみに人生を通じて、燕芳は月経痛すら一度も感じたことがない。
──わたしはかつて、同僚の李姐に聞いたことがあった。
通常、育児は苦しみ半分、幸せ半分なのだという。幸せなときはものすごく幸せだが、体力的にも精神的にも相当しんどい。むしろ、苦労したからにはこの子を愛さなきゃ、というコンコルド効果(サンクコスト効果)的な心理で、子どもに向き合うことも割とあるらしい。
でも、燕芳の苦しみはゼロ。幸せは100%だ。
妊娠出産の苦労も産後の身体の負担もない。生まれた赤ん坊を抱く喜びだけがある。育児のしんどさは「ない」。なので、純粋に子どもの成長を喜べる。なんのストレスもなく全力で愛せる。
体力が無尽蔵に近いので、所帯やつれしない。お肌はケアしなくてもつやつやだ。アンチエイジングも不要。手足も冷えない。メンタルは常に安定している。
なので、夫婦仲も良好である。
病めるときも健やかなるときも……、と世間の人はいう。でも、夫の心理としては奥さんがずっときれいで優しいほうがいいに決まっている。だから、燕芳の家庭は常に円満。
夫は結婚してから何年経っても彼女にめろめろだ。浮気なんか絶対に考えない。家事も協力的になる。彼女の言うことは、多少は無茶なことでも、最後はだいたいなんでも聞き入れてくれて──。
▪️
無敵の能力だ。素晴らしすぎる。
燕芳すごい。
ちなみに、燕芳の意識のなかで仕事の比重は高くない。
この時代、中国の仕事の大部分は、自己実現や「稼げる」といった概念とは無縁だ。なので強いモチベーションを抱きにくかったのだ。
だが、仮に現代の世界なら、燕芳の能力はさらに輝く。どんな環境に置かれても、完璧にワーキングマザーをこなせるはずだからだ。
つまり、外交官でも外科医でも政治家でも、経営者でも社会活動家でも。仕事のパフォーマンスを最大限に発揮しつつ、子育ての幸福を完全に享受できる。しかも夫には愛される。
女として最高のワーク・ライフ・バランスを実現。こんな能力が実在していいのか??
羨ましい。わたしもほしい。
翔平、帰ったらちょっとだけでいいから分けてくれないかしら。
もちろん、この能力が自覚された清朝末期──たぶん、本当はそれよりずっとむかし──は、女性の社会的地位が低かったので、現代人が思うほどの有用性はなかったかもしれない。
だが、女が肉体的負担から解放されるだけでも、ものすごい。
そもそも、刀槍不入は無生老母の力だ。つまり、中国の農民が民間信仰の対象にしていた、天地の創造神である女神さまの力とされている。
その由来と性質から考えて、本来は女性向けの能力だと考えるのが自然である。
いや、むしろ。
過去の男性があほだろう。
ダメージを受けない肉体を、刃物も鉄砲も通じないと喜んで、戦闘行為というごく限られた局面にしか能力を使わなかったのだ。なんてもったいない。
女の子の人生を、完璧に幸せにしてくれる力。
これが最強の人体特異効能、刀槍不入の実態だ。
▪️
「……と、観測できた事実をもとに考察してみたんだけど」
午後の寝室。
わたしは下着姿で寝転がりながら、夫に言った。
「すげえな。母さんの肉体におまえの頭脳が乗ると、そこまでわかるのか」
この人のいいところは、いつも素直にわたしをほめてくれることだ。うれしい。
「刀槍不入をブラック労働だけに使っていたおれも、相当どうなんだって感じだが」
うん。それもほんとそう。
だから無茶しないでね。本当はもっとすごい能力なんだから。
さておき。
能力の性質がわかったことで、燕芳が中国を離れたがっていた理由も判明した。
刀槍不入を持つ女の特性と、当時の中国の社会システムとの相性が悪すぎたのだ。
計画生育政策──。
この時代は厳格に存在していた産児制限政策。いわゆる「一人っ子政策」だ。日本語の語感はかわいいが、実態はまったくかわいくない。
もちろん、貧困層の産児制限はどの発展途上国でも政策課題である。ただ、これが教条的な社会主義体制と結びつくと、人間にとって不幸な結果が生まれる。
当時、燕芳のような北京の既婚女性の場合、一生で産める子どもは1人だけだった。
出産後は婦人科で体内に避妊リングを埋め込まれ、本人の意思を無視して再度の妊娠が困難な状態を強いられる。それでも2人目ができた場合、強制堕胎。
なんとかして生んだ場合は、重い罰金だ。単位(職場をベースとする中国社会主義体制の所属コミュニティ)における昇進や食料配給なども、甚大な影響をこうむることが多い。
当時の中国は、経済や生活の分野まで教条的な社会主義が支配していた。仕事は分配で決まる。つまり、国家が職場を指定する。労働者は基本的に定年まで勤め、住居も医療もすべて単位が丸抱えだ。
逆に言えば、身分と生活が保障されるいっぽう、逃げ場がない。「単位を離れる」行為は、日本の江戸時代の脱藩と同じくらいには覚悟が要る。
だから、当時の中国で2人目の子どもを生んだ場合は、世帯レベルで詰む。単位のなかで立場がなくなってしまうからだ。
一応、2人目の子の出生を届け出ない(黒孩子)という裏技もある。ただ、子どもが医療や教育の枠外に置かれるので、決して理想的な手段ではない。
燕芳は政治的なことはなにも考えていない人だ。
ただ、唯一、中国政府に強烈な不満を覚えていたのが計画生育政策だった。
当然だろう。彼女は普通の女性と違って、出産と子育ての幸せだけを思い切り享受できるのだ。経済的に可能な範囲なら、何人でも産めるし、産みたい。
なので、中国にいたくなかった。
日本を選んだ理由は、井村所長が「日本には一人っ子政策がない」と言っていたから。ごく単純な理由だ。どうやら日本は漢字と箸を使うらしい。暮らせそうな気がする。
”決めた、翔翔児の弟か妹を産みたい”
”なので日本に行こう”
当初、志軍は「バカを言うな」と反対した。
やがて燕芳の決意が固いことを知ると、自分は祖国が民主化するまで国を離れないとか、次代の民主憲政を担う青少年の教育をとか、難しいこともたくさん言ったらしい。
だが、彼は結局、燕芳の無茶なお願いに折れた。理屈の敗北。奥さんにめろめろだから仕方ない。
……いや、志軍の顔を立てて言うならば、彼は妻の主体的決定を最大限に尊重しつつ、自分の理想を追い続けられる答えを探した。一家の未来を真剣に考えた。
──その結果が、この家族が進めていた日本移住計画だったのである。
「絶妙にカッコ悪いが、理解はできる」
夫が複雑な表情で、額に手を当てた。
「革命家と家庭人を両立するなら、ああするしかないよな。親父、よくがんばった」
やれやれ。天井をあおぐ。
きっと、お父さんが日本移住を決めたときもこういう顔をしていたに違いない。
■
「……なあ、まだしばらく、翔翔児は外で遊んでるよな」
彼が寝室の閉じた窓を眺めて言った。
せっかくだから、来た証を残そうぜ。
「どういうこと?」
尋ねた私に答えず、彼はにやにや笑いながら寝台から勢いよく起き上がると、隣の志軍の机の上にあるペン立てをまさぐった。
じゃん。
日本製の油性マジックペン。前に井村所長からもらったものだ。
「家に落書き。2人でマナーの悪い観光客をやっちまおう」
いひひ。それは楽しい。
ちょっとくらい書いても、この家なら大丈夫。
せっかくなら、毎晩見ていた場所にしよう。
寝台の隣の壁。石でできた窓枠だ。
翔平がさらさらと字を書いた。その左下に名前を書く。
おまえもサインを、とペンを渡されたので、わたしも書いた。
──我们是很幸福的家。
翔平・希冰
1989.5.20
(うちはとても、幸せな家族だ)
福、の文字がかすれたので、わたしが上から線を濃く書き足した。
名前の間の「・」を塗りつぶしてハートマークに変えてしまえ。
わたしも浮かれている。いいじゃないか、それで。
「他の場所に、なにか書くか?」
聞かれた。
室内を見回す。壁や窓枠に何度も書くのは工夫がないな。
……あ。
机の上。
家族写真だ。まだ見ていなかった。
封筒をまさぐり、薄紙に包まれた写真を取り出す。
写真館の師傅にどやされ、戸惑いつつ微笑したはずだが、思ったよりも写りがいい。師傅の腕前はよかったのである。
「きめた」
写真の右下あたりに、ペンをはしらせた。
C’était réel, juste un instant.
Je vous aimerai à nouveau. C’est une promesse.
「フランス語か? 読めねえよ」
だって、ふっと頭に浮かんだんだもの。
文字を指差して説明した。
”それは真実だった、ほんのひとときの”
”私は再び、あなたたちを愛すると誓う”
中国語で口に出すと、いきなり涙が出てきた。
この言葉、前にどこかで聞いた。なんだっけ。
この4日間。わたしたちの時間は真実だ。
戻ってからの世界でも、幸せを──。
ひとときでは終わらせない。絶対に。
「おい、これ。この写真と文字……」
泣き出したわたしに、ベッドサイドのタオルを持ってきてくれた夫がつぶやいた。
「2027年も……。北京亭のカウンターに、あるやつだ」
思い出した。
横浜で翔平が買ってくれた、シュールな顔のカモメの木彫り人形。その隣にある写真立て。古い家族写真。年月が経ってかすれた、フランス語らしき筆記体。
「そっか。あの写真、ご両親がすこしさみしそうな表情だと思っていたけど、本当は」
写真館の師傅に叱られただけだったのか。
わたしたちは2人で思い切り笑って、それからぼろぼろ泣いた。
■
──夜はいつもの夜だった。
夫が夕食を作り、わたしが小さく千切って息子に食べさせる。
食後にちょっと遊んでやって、トイレに行かせて寝室へ。
例によって夫が奇想天外なお話をして息子がはしゃいだ。今夜は長く騒がせてあげよう。親子3人で笑い疲れたところで、息子は寝た。わたしはなんとか、彼が眠るまで普段通りに過ごせた。
それから夫婦で薄いお茶を飲んで、この4日間の思い出話をした。
わたしも彼も、楽しかったことや驚いたことの話題だけを選んだ。
だが、9時半になると話すべきことがなくなった。
あとは、泣き出してしまう話題しか残っていなかったのだ。
寝室で翔翔児の顔を見ていましょう。
そう言って、2人で息子を囲んで川の字になって、あどけない顔をずっと見つめた。
声を出して泣いたら起こしてしまう。泣いてはいけない。
2人で手を伸ばして、息子を挟んで相手を抱きしめた。
そして──。
最後に「愛してる」と言って、わたしは目を閉じた。
意識が遠ざかった。
1989年の時間は終わる。
最後に薄目を開けたとき、昼間の落書きの文字が見えた。
──我们是很幸福的家。
それが、わたしがこの時代で最後に見た光景のはずだった。
おそらくは。




