【第四章】2027年6月4日 湯島(翔平の物語)
なにがどうなってんだ。
おれはホテルの部屋でつくづく思った。
音量を落としたテレビでは、芸能人が風船割りゲームにチャレンジ中だ。平日の昼番組は数年ぶりに見たが、相変わらず超どうでもいい。ただ、そんな日常を災害報告のL字型バーが圧迫していた。
都内の鉄道復旧の見込み立たず。
道路交通も混乱が大きく、バスやタクシーの利用も推奨できない。救急車要請は慎重に。不要不急の外出を控え、出勤者は徒歩での帰宅も検討を……。
震災さながらだ。そう思っていると、画面に坂道系アイドルの誰かが登場した。この系統の子たち、顔の区別がつかないんだよな。彼女が3つ目の風船割りに失敗し、照れ笑いを浮かべたところで──。
【台東区のカフェで銃撃か。20人以上心肺停止の可能性。】
速報テロップが出た。さっきの事件の第一報だ。
現場中継をおこなっている局はないか。リモコンの「∧」ボタンを押してチャンネルを回す。
料理番組、ジャパネット通販、徹子の部屋、韓ドラ。中継はまだ。
ザッピング中に2回ほどアダルトチャンネルが流れた。
アイスの表情が一瞬固まる。こいつはさっきからずっと怖い。
もっとも、こいつが妙に近寄りがたいオーラを出しているときは、実は本人が失敗して気まずくなっているだけである。さすがに、おれにもわかってきた。
いっぽう。
「日本では、通報から30分で第一報が出るのですね」
隣から柔らかな中国語が聞こえた。
声の主は、テレビのなかの坂道系アイドルみたいな。つまり、美しいのに顔の印象がさっぱり残らないタイプの若い女だ。中国人女性が、ここまで徹底して日本人に寄せた服装やメイクを選ぶのは珍しい。
「現場では24人が死にましたが。確認が追いつかないのでしょうか」
あんな事件の後でこんな場所にいるのに、声も表情も昼番組のタレントたちと変わらない。
──そう。こんな場所なのだ。
ここはホテルではあれど、頭にラブの2文字が加わる。
誤解しないでくれ。
おれが自分の意志で来たわけじゃない。断じてだ。
■
例のドローン事件の後、アイスの処置は水際立っていた。
彼女はおれが普通に動けることを確認した後、まずは現場の生存者確認を開始した。話しかけてきた女の正体より、先に解決するべき問題があると考えたらしい。アイスからは止められたが、おれも体調におかしなところはないので捜索に加わった。
だが、おれたち以外でホール内の生存者はゼロだった。
アメリカの乱射事件でもなかなか見ない、異常な死亡率である。
現場の空気は強い鉄の匂い──。つまり大量の血液臭と弾丸の硝煙臭、さらに死亡者の嘔吐や排泄物の臭気、飛び散った食物やコーヒーの匂いが混じり合い、耐え難いものがある。
すべての席で、注文用のタブレット端末が撃ち抜かれていたのも奇妙だった。
ただ、キッチン内にいたスタッフ1人の無事が判明した。
店長クラスらしく、受け答えがしっかりしている。彼に警察と消防への通報を頼み、電話中にそっと店を去った。
外交官のアイスはもちろん、奇妙な生き残りかたをしたおれも、現場に留まるのは好ましくないためだ。当然、話を聞くために謎の女も連れていく。彼女は最後にホール内をしばらく眺めてから、特に異論も唱えず着いてきた。
なお、アイスは念のために病院行きも考えたらしい。だが、目下の状況で都内の医療機関はきっと混乱している。トリアージの観点から、無傷で意識も明確なおれが病院のキャパシティを圧迫するべきではない。そんな判断だった。
やっぱりこいつ、むちゃくちゃ仕事できるだろ。
「でも、すこしでも体調がおかしくなったらすぐ教えてね」
耳打ちされた。
こいつがロボットでも冷血女でもなさそうなことは、過去12時間でもうわかっている。
「翔平が着替える必要があるわ」
「その後、落ち着いた場所で彼女の話を聞きたい。個室を探しましょう」
不忍通りを湯島方面に歩きながら、アイスがスマホで検索しはじめた。
おれの服は背中が穴だらけだ。しかも、他の客の血痕や飛び散ったコーヒーでぐしゃぐしゃなのである。
先に進むアイスを追いかけつつ、おれは謎の女に尋ねた。
「あの、お名前を聞いていいっすか?」
そういえばこの女、おれと違って服にまったくシミがないな。色の薄いしゃれた服装だから、汚れなかったのはさいわいだろう。
「諸葛詩月といいます。シーラと呼んでください」
「ヘブライ語で『詩』という意味ですよ」
すごい。謎のヘブライ語はさておき、それより苗字だ。
諸葛。
つまり三国志の蜀の軍師の──。
尋ねかけたおれの口に、女がすっと人差し指を近づけた。
「3歳のときから現在まで、あなたとおなじ質問をした人が合計5643人います。誤差は±3人」
「それでも私、こたえたほうが、いい?」
こくっと首をかしげて爽やかに微笑む。
彼女、本当にお忍びの芸能人かもしれない。そう感じさせる振る舞いだった。
もっとも、いかに計算された行動であれ、こうした表情と動作に嫌悪感を持つ男は世間にまずいない。
統計マニアぶりはアイスと気が合うかな。いや、タイプ的に真逆そうだから、それはないか。
■
「ふだんは仕事の関係で、ミャンマーの経済特区で暮らしているんです。あと、シンガポールや香港を行ったり来たり。いまは、たまたま日本を旅行中で」
シーラはそう話した。
各国で投資業でもやってる金持ちの娘。本人もいくつか会社を持たされてるってところか。あの手の連中、日本旅行が好きだもんな。
「以前、私のビジネスパートナーの会社がこの国で入手した古いノートがあるんです。そこに、高志軍さんご夫婦の名前と、人体特異効能の興味深いお話が。あなたは息子の翔平さんですよね」
人体特異効能、という単語を冗談めかさずに喋る人間ははじめてだ。
しかも妙に察しがいい。ノートって、いったい何だ?
彼女になにから尋ねるべきか。
迷っていると、中年のサラリーマンのグループとすれ違った。カフェの事件をまだ知らないらしい。
彼らは男性の常として、磁石にくっつく砂鉄さながらにアイスの顔と尻に視線を貼り付かせてから、再び雑談に戻った。おれの服のシミや穴は、背中にあるからバレなかったらしい。先を歩く美人の尻は見ても、男の背中なんか誰も見ないのだ。
もっとも、彼らがシーラをまったく見ないのは謎だったが。すれ違うとき、避けようともしない。日本人男性の好みのタイプが変わったのか?
「わちっ!」
注意力が散漫になっていた。街路樹にいた甲虫類がいきなり落下して、おれの頭にヒットしたのだ。
反射的に払い除ける。
運悪くシーラの方に飛んだ。やばい。申し訳ない。女の顔に虫が。
……ん?
シーラはまったく様子を変えずに歩いている。
よく見ると、彼女を挟んで向かい側の車止めポールに、さっきとよく似たカナブンがとまっていた。
彼女に当たらなかったのか? それとも別の虫?
■
個室に入ってから、アイスはずっとぴりぴりしていた。
自分が予約した場所にもかかわらず、である。
受付後のエレベーター内で、こともあろうにシーラが、この施設の性質を事細かに教えたからだ。
つまり、日本にはラブホテルという性行為専門の施設が存在する。
ここがまさにそうなのだと。
アイスが部屋を選んだ事情はこうだ。
彼女は普段、中国系の宿泊予約アプリを使っている。
そして、一部のラブホはこの手のアプリで普通に予約できる。施設の性質上、中国語でいう钟点房、すなわちデイユースも対応可だ。
利用する中国人観光客たちは、巨大な浴室やベッドがあり時間の融通もきく部屋に喜ぶ。結果的にアプリの表示は★5評価であふれる。
なので、過去のアイスは任務の合間、施設の正体を知らずに──。正しい意味の「休憩」場所としてラブホを使っていたようなのである。
なんとなく不自然な受付カウンターや、妙にけばけばしい外装も、日本の社会風俗に対する理解が乏しい中国外交官女子の目には奇妙に映らなかったのだ。
事情を知ったあと、アイスはずっと、平然さを装いつつも明らかに落ち着いていない。事件現場の処理を完璧にさばいたのに、思わぬミスだ。
もっとも結果論としては、おれはラブホのルームサービスのおかげでシャツを着替えられた。
事件現場から直近の隠れ場所だと思えば、そこまで悪い選択肢でもない。おまえ、充分がんばってるじゃん。落ち込まなくていいぞ、と言ってやりたくなるのだが。
「でも、こういう場所のお風呂はよくないんですよ」
シーラが静かに微笑みながら、中音域の柔らかな声でそう口にした。
「スカトロジーの愛好者が、浴槽に糞便を塗りたくっています」
アイスが、ひっ、と息を飲んだ。気の毒なほど顔が青い。
「シャワーも別の使い方があります」
「アナルセックスを好む男性が、ヘッドを外して直腸内を洗浄するんです」
このシーラという女は、なぜここまで露骨な表現を使う必要があるんだ。
番組収録中の坂道系アイドルのような表情はそのまま。相変わらずの爽やかな喋り方が、かえって気持ちが悪い。
いや、この女のイカれた性格はもういい。問題はノートとやらの話だ。
■
「見たいんですか? これですが」
シーラがiPadを取り出した。
おれの6年落ちのi-Phoneのひび割れた画面に、PDFファイルがAirDropで送られてくる。アイスが隣から、おずおずとのぞき込む。
黄ばんだ表紙だ。北京朝陽学院、と毛筆体で印刷されていた。
「1989年5月25日 高志軍 田燕芳」
「井村所長へ」
それらの文字の上に「機密」のスタンプが押されている。
亡くなる10日間前に書かれたようだ。
生前の父さんは大学の中国文学科の教員だったようだから、職場のノートを用いたのだろう。「井村所長」に心当たりはないが、明らかに日本人の姓だ。両親には日本人の知人がいたのか。
「夫婦でそれぞれ、一冊のノートの前と後ろから書いたみたいですね」
あの時代の中国人らしい話だ。みんな節約が染み付いている。おれの両親だって、もちろん例外じゃなかったわけだ。
ラブホの部屋の安っぽい消毒臭が、遠い記憶にある実家の空気に変わった気がした。
ページをめくる。
”……私は山東省曹県の出身で、今年で26歳になります。祖父が往年の文化大革命の際に迷信分子として批判を受け、苦労した育ちです。もとは故郷の供銷社で販売員として働いていましたが、地元党支部の推薦を受け、北京市西城区の国営商店に配属され……”
”……高い教育は受けていませんが、仕事はまじめにやってきたつもりです。店では「没有」を言わず親切である、ということで先進工作者として単位支部の表彰をいただいたことがあります……”
母さん、こんな字を書く人だったんだな。
もっとも、日本育ちのおれは、中国語は喋れても読み書きがすこし苦手だ。
なかでも困るのが「迷信分子」「供銷社」みたいな社会主義体制に特有の単語が頻出することだった。そもそも中国育ちのアイスやシーラでも、世代的によくわからない言葉が多くあるらしいが。
母さんは思うがままに筆を進めたらしく、文章のつながりもあまりよくない。話もあちこちに飛んでいるようだ。
骨が折れるなと思いながらページを流していて、手が止まった。
”……調査の結果、私の「気功的な反応」はわずかとされています。つまり、他の人の小さなキズや軽い腹痛がちょっとだけよくなるような気がする能力「疼疼飞了呼呼哈」です。重傷・重病には効果がなく、能力程度はD。実用性は認められないと……”
疼疼飞了呼呼哈。
日本語なら「痛いの痛いの飛んでいけ」か。
思い出した。庭で転んだときにやってもらった記憶がある。
母さん、あれは超能力のつもりだったのかよ。
──あれ?
おれ、3歳のときは膝をすりむくことがあったのか?
”……しかし、井村所長には実態を告白したいのです。実は私は、研究所にまだ報告していない別の能力を持っています……”
”……ごく幼い頃、祖父から輝くような力を受けたことがあり、それから私はまったく、ケガや病気をしていないのです。祖父いわく「刀槍不入」。文革の迫害を避けるため他言するなと言い聞かされました。私は包丁で指を切っても血が出ず、故郷で疫病が流行ったときも……”
■
次のページがめくれなくなった。
知らないうちに緊張で指が汗ばみ、タッチが反応しなくなったのだ。
これはいったい何ページあるんだ。他に父さんのパートもあるんだよな。
「全125ページです」
シーラの声に、この場ですべてを読むことは断念した。
もっと読みたい。読まなくてはならない。だが、それは後でもゆっくりできる。おれが読んでわからない部分はアイスに教えてもらってもいい。
「シーラ、さん、でしたね。文書の入手経緯を教えてください」
アイスが尋ねた。相手に苦手意識があるらしく、口調がどこかぎこちない。
「さっき翔平さんに話した通り、私のビジネスパートナーが手に入れたのです。彼は30代と若いですが……。古書集めが趣味で、特に1980年代後半の中国語文献がお気に入りです」
「なので、国内外の大学図書館や古書店の倉庫に眠った文書を、部下を通じて定期的に買い付けさせていまして。例のノートも1年ほど前に、たまたま」
見つかった場所は、なんと東京の神田神保町だったという。世界一の古本街だけに、中国語の文献にも掘り出し物があるようだ。
ただ、読むだけならPDFでも構わないのだが、おれとしてはノートの現物を見てみたい。
五徹どころかマシンガンを乱射されても死なない身体。……刀槍不入だっけか? その理由も知りたいが、もっと重要なことがある。例のノートはおそらく、おれの両親が世界で唯一残した遺品なのだ。
「たぶん、彼の自宅にあるでしょう。場所はミャンマーのシャン州にある新中華界域(Neo-Sino Frontier)経済特区です。遊びに行けば見せてくれるかもしれませんよ」
シャン州? どこだそりゃ。まあ、検索は後まわしだ。
「その、ネオなんとかにいるビジネスパートナーは、なんていう人なんです?」
「ええ、それは──」
シーラが微笑んだ。
彼女が口にした3文字。
にわかに信じがたい。
おれが3歳だったあの夜から──。
絶対に忘れたことがない名前だったのだ。
「王昊天」
シーラは確かにそう言った。
※「ここがわかりにくい!」みたいな部分があればコメントで指摘いただけるとありがたいです