【第三十九章】1989年5月20日 「ずっとこのままでいい」(翔平/高志軍の物語)
──転魂4日目、最終日。
戒厳令が発表された翌朝、街は騒然としていた。
北京市民が路上のあちこちに、自転車や土のうでバリケードを作っている。
道路で横向きに停車された、市バスやトラックも多く見た。市民が街を走る車両を取り囲んで停めて、運転手に下車させてから、自分で運転して道路封鎖に使っているらしい。
こんなことをしても誰も怒らない。早朝に北京市の労働者自治連合会が、最低限の生活インフラ関連業以外の全業務ストライキを呼びかけたので、出勤できなくて困る人は誰もいないのだ。
そもそも社会主義体制である。トラックの物資が届かなかったりバスが来なかったりすることは、みんな最初から慣れている。
自転車移動は時間がもったいない、社会の経済損失をどうするのか? こういう考えは現代人の思考だ。この時代の中国人民の圧倒的多数には、そういった発想そのものが存在しない。
天安門広場に近づくにつれ、あちこちで街頭デモの人波を見た。
「打倒鄧小平。打倒白一泉。打倒李鵬」
「独裁反対。戒厳令反対」
自発的にやっているようだ。戒厳令でデモ活動が厳禁されたが、みんなでやれば怖くないのだろう。従来のような学生たちに限らず、北京市内に兵隊を入れたくない一般市民が怒りを示していた。
広場からは、高級幹部の子弟を中心に一部の学生が撤退をはじめた。だが、逆に戒厳令に憤ってやってきた人もいるので、人数はむしろ増えている。後にわかったことだが、この日だけで40万人が天安門広場の周辺に詰めかけたらしい。
■
「やあ。高老師も見にきたのかい」
広場で王昊天に出会った。情報収集中らしい。
「戒厳令は裏目。一般庶民がこれだけ街に出ると、もう収まらねえな」
父さんの声が「同感だよ」と応じた。
「しかも、昨夜は嫌われ者の李鵬に演説させただろ? 天下を乱してくださいとお願いしてるようなもんだ。武警の俺が言うことじゃないがね」
相変わらずの軽口だ。
彼の背後、白衣の女性が立っているのに気付いた。
「ああ、友人の小淑だ。普段は軍病院の研究部門にいるが、ハンスト学生の救護に駆り出されたらしくてね」
王昊天に紹介され、彼女がうなずいた。
女医か。いかにもという雰囲気だ。
キリッとした顔立ちで、長い黒髪。アイスとはパターンが違う知的な美人である。
「……救護当番も、たまには悪くないけどねえ。健康な青年が急激な飢餓状態に置かれた状況のデータを大量に収集できたのはお得だわよ」
言葉は東北訛りが強かった。
「ただ、聞いとくれ。朝に自由市場に行ったら、戒厳令で白菜が5角も値上がりしたんだ。5角だよ? 信じられるかい??」
──小淑。本名、耶律淑珍。
28歳医師。北京301病院、臓器移植・長寿細胞研究部門に所属。
その後、彼女は自分の鬼姑の愚痴と隣の李さんの不倫の噂、さらに胡同のトイレの使い方が汚い近所の完顔さんの話を喋り続けた。
「耶律先生! またサボってるんですか!」
おれたちが閉口しているところに、大柄な中年の看護師が彼女を探しにやって来た。「こいつは鬼ババだよ」と文句を言う淑珍の首根っこをつかみ、ハンスト学生用の救護テントにずるずる引っ張っていく。
「……あいつ、喋らなければ《《マブい》》女なんだが」
ああ。王昊天にはじめて心から同意した。
「しかし、本業は優秀なんだぜ。鄧小平と白一泉の寿命を伸ばしているのも、小淑の研究の成果って噂でな。ずいぶんえげつないことをやっているらしいが」
──なるほど。
天安門広場の人混みに消える淑珍の白衣を眺めながら、未来の新中華界域の幹部人事の一端を理解した。
それなりに古参らしいシーラやライたちと比べて、加入して2年も経っていないチャガンが、なぜ軍と警察の大権を任されたのか。また、研究はさておき政治能力はゼロの耶律淑珍が、なぜ序列7位の幹部なのか。
それは、王昊天が前世から本人の素性を知っていたからだ。謹厳で有能な上官の息子と、実力を認めていた友人。他の人材よりも優先して起用する理由になる。
「そういや高老師、奥さんは大丈夫だったのかい?」
おかげさまで、と父さんの声が答えた。
「そりゃあよかった。じゃあな」
王昊天が片手を上げ、情報収集の仕事に戻っていった。
結局、あいつがなぜ、半月後に銃口を向けてくるのかはわからないままだ。現時点では原因が生じていないのか? いまの王昊天が、うちの家族に危害を加えるとはとても思えないのだが。
……やはり、父さんの政治活動のせいだろうか。やめときゃよかったんだ。
■
バリケードだらけの道路に難渋しながら帰宅した。
燕芳が作ってくれた昼食を食べ、今度は親子3人で出かける。
行き先は、すぐ近くにある白塔寺。
700年前、モンゴル帝国の時代に建てられた白いチベット仏塔がある寺だ。
白塔の先端は、おれたちの家からも見える。まだ北京に高層建築がすくない時代なので、帽子を被ったような形の巨塔はかなりの存在感がある。遠くから自転車で戻るときも、あの塔を見ると横水坊胡同に帰ってきた気がするのだ。
本来は北京遊楽園に行くはずだったが、戒厳令で自粛した。アイスは「親子で観覧車に乗る」というイベントに憧れていたらしく、昨夜はちょっと気落ちしていた。
なので、代替案が白塔寺だ。近所なので戒厳令下でも子連れで行ける。
また、なにより──。
白塔寺は2027年の世界でも残っている。
おれたちがむこうに戻ってからも、いつかいっしょに行けるはずなのだ。
──門前に自転車を停め、3人で境内に入った。
寺庭は閑散としていた。文革時代にぶち壊された石板や石像が敷地の隅に放置されたままだ。蘭蘭の母親たちの、若き日の過ちである。
構わず歩みを進める。おれは翔翔児を抱き上げて、線香に火をつけさせた。
おお、火がついた。
じょうずじょうず。
あとは香炉に立てて……。できるかな。
ぎゃあ。
いきなり大声で泣き出した。
なんだ。
どうやら香炉のなかで、他の線香の先端に手が触れたらしい。
おおよしよし。
男の人生は意外な困難の連続だ。君もこれを機会に火は危ないと学習したまえ──。
「あなた! なにやってるの!」
目を吊り上げた燕芳に子どもを引ったくられた。
おおよちよち、かわいそう。
爸はガサツでいけませんねえ。
媽媽が来たから大丈夫だからね。
ギャン泣きする翔翔児をひたすらあやしている。こいつ、本来の母さんよりもだいぶん育児方針が過保護じゃないか。
「痛いところを見せてごらん。はいはい、これね」
燕芳が翔翔児の頭を抱き、やけどの患部に唇を近づけた。
──疼疼飞了呼呼哈。
ひゅう。
息がふわっと光り、小さな手にできた赤みが消えた。
翔翔児が「媽、だいすき」と言って、母親の胸に顔を埋める。
母さんの表向きの人体特異効能。痛いの痛いの飛んでいけ。
見るのははじめてだ。
「よかった。わたしの人格でも、できるみたい」
元気に走り出した翔翔児を眺めて、燕芳が言った。
ひとまず一件落着だ。
ただし、これは。
おれは現時点でもまだ、刀槍不入を持っていないということか?
■
「……たぶん、今夜眠ったら帰るんだよな」
白塔寺の木陰のベンチ。
本堂でお参りを済ませ、寺の庭を走り回っている翔翔児を見ながらおれは言った。
「うん」
燕芳がうつむいた。
「ねえ、ここに残る方法──」
「無理だ。おまえもわかるだろ」
おれたちの4日間の行動。
あれらはすべて、仮に転魂がなくても「史実」だった。細部に多少の違いはあれど、である。
たとえば白一泉との面会。
あとでアイスが母さんの記憶をのぞいたところ、母方のおばの1人が、碧齢夫人のまたいとこの子と結婚していたことが判明した。「遠縁」には違いない。
母さんが夫といっしょにチャガン親父に会った際に、白一泉に挨拶したいと持ちかけたとしても、完全に不自然とはいえない。
おれたちが独自におこなったはずの行動は、周囲からは従来の両親のイメージで上書きされる。そして、なんとなく納得されている。
歴史は決して、変わらない。
「でも、ここにいたい。わたしはずっと、このままでいい」
燕芳がそう言って手を叩いた。
──仁間が言った、転魂先に残る方法。
パシンと手を叩き「ずっとこのままでいい」と3回言う。
おれは慌てて彼女の口を押さえた。
「バカか。このまま残ったら、2週間後に歴史に飲み込まれる」
「……だって、あの子を残して帰れない。わたしは絶対に死なない。王昊天を殺してでも、あの子の側にいる」
「無理だ」
「じゃあ、逃げよう? 北京駅で切符を買って、上海でも深圳でもいいから親子3人で──」
できるはずがない。彼女もわかっているはずだ。
仮に遠くに逃げたって、明日の朝からはおそらく、父さんと母さんの人格がメインになる。
夫婦で「なぜ、私たちは旅行に行ったんだ」と首をかしげ、北京の自宅に戻るだけだろう。
でも。
そう言って、燕芳がぼろぼろ涙をこぼした。
「……わたしの子、これからどれだけつらい思いをするの。小さいやけどをしただけで、あんなに泣く子なのに」
「おれは38年後も生きてる。おまえがいるから、自分の人生は誰よりも幸せだ」
「違う」
わかるけれど、言うな。おれだってあの子の親だ。
「ねえ、歴史が変わらなくてもいい。こっちに残ろう? あの子の近くにいたい」
もう言うな。
「わたしは……。生まれてはじめて家族ができたの。あと2週間も幸せに過ごせるなら」
彼女はえずいてから、言葉を継いだ。
「死んで……。いい」
正直なところ、おれも気持ちの半分はそう傾いている。
現代に戻ったところで、この家族の胡同の暮らしは決して存在しないのだ。
仮にアイスだけがこっちに残った場合はなおさらだった。
あの2027年の世界に、もし彼女がいなければ──?
おれが生きている意味は、ない。
「まだ、あと9時間ある。いったん、保留だ」
翔翔児が、寺の石獅子をぺたぺたと触っているのが見えた。妙に冷たい風が頬をなでた。
「自分の人生で、ずっと──」
ほしかったものが、いまある。
「……同じだ。おれも」
その言葉に、燕芳が突っ伏した。
おれも限界だった。
彼女の肩を抱き、自分の意識がどうかなるんじゃないかと思うくらいに声を上げて慟哭した。
■
──なぜだ?
目元に涙の跡があった。
私はなぜか、妻と非常に悲しい話をしていた気がする。自分たちのごく近い将来について、おそろしく悲観的な話を。
きっと不安なのだ。
あと1ヶ月もしないうちに、日本に行く。
そのころ、まだ天安門の運動が続いているかは定かではない。だが、政治情勢によっては厳しい取り締まりも予想される。戦う仲間たちを置いて中国を離れることに、良心の呵責がないといえば嘘になった。
「ねえ、そろそろ戻ろうか」
そう言う妻の目も赤かった。日本に行こうと言い張ったのは彼女なのに、仕方のないやつだ。
刀槍不入──。
夫の私以外は誰も知らない、妻の本当の能力。
彼女はそれを、人体科学研究所の井村にあえて伝えることで、日本移住のビザ手配と資金援助の約束を勝ち取った。今後、わたしの工作活動ノートに能力の詳細をまとめて、井村に提出する予定である。
たとえ胡同の仲間としばらく別れても、言葉の通じない資本主義の国で働くはめになっても、中国を離れたい。妻は本来、生活様式も考え方も、私以上に中国的な人間である。それでも彼女が、日本に移住したがる理由は──。
「爸ーー!」
息子が私に抱きついてきた。よしよし、もう帰ろうな。
写真館に寄って家族写真を受け取り、うちに戻る。
昨日、日本に行く前の記念として撮影したものだ。
「あ、おかえりなさーい」
四合院の門前で、蘭蘭が友だちとゴム跳びで遊んでいた。昨日は熱を出したと聞いたが、すっかり治ったらしい。
息子が彼女と遊びたいと言ったので、荷台から降ろす。
街は騒然としていても、胡同の子どもの世界はいつまでも平和だ。
翔翔児が日本に行ってからも、同じような友だちができるだろうか。
帰宅して、妻と茶を飲んだ。なぜか久しぶりのような気がした。
「翔翔児は、まだ遊んでいるかな」
私が言わずもがなの言葉を口にすると、妻が笑った。
「蘭蘭はしっかりした子だからね。夕方まで面倒見てくれるわよ」
うむ。
ならばよろしい。どちらが言うでもなしに立ち上がった。
■
──下午的秘密(午後の秘密)。
私たち胡同の民は、住環境的な制約から夫婦が2人で過ごせる時間がすくない。うちの家族構成ならば、夜中に子どもが眠ってから、という方法もあるが、やはり落ち着かない。
なので、たいていの夫婦は、午後の時間を上手に使っている。中国の職場は昼休みが長い。あらかじめ2人で打ち合わせておき、いったん自宅に帰って──。みたいなことも多いのだ。
現在はデモで仕事が休みなので、子どもが外で長く遊んでいるときなら、もっとゆっくりできる。
だから、「午後の秘密」。
寝室に入って鍵をかけた。
妻は手早く服を脱いで、とっくに下着姿で寝転がっている。
うちの寝台の4本の足には、何重かに重ねた布が縛り付けてある。
胡同の夫婦の寝台はこうなのだ。
音がすこしでも消せるからである。
「……前にしたの、4日前の夜だっけ?」
私が上の下着をずらしたところで、妻が言った。
恥ずかしながら、わが家は回数が多めだ。特別な事情もないのに、4日も日が空くのはめずらしい。
「なぜだろうな。すこし忙しかったのは事実だが」
妻が私の肩を軽く噛んだ。
そのまま肌に舌を這わせてきたので、私も手で応じる。
中国の他の夫婦はあまり事前にあれこれしないらしいが、わが家は研究熱心なほうだ。私の専門は中国文学なので、金瓶梅とか道教房中術の古典とかも、職業的必要から閲覧──。
まあ、それはよろしい。
とにかく、私は情報通であり、妻は好奇心だらけの人だ。ついでに言えば、中国全土の既婚男性諸氏に堂々と自慢したいくらいには、うちの妻は美しくて色白で瞳と髪と肌がきれいで、しかも明るくて気立てがよくて健康的だ。
なので、わが家は非常に円満である。
お互いに服を脱ぎ、掛け布団のなかでしばらくあれこれと行動した。
「日本に行けば……」
そろそろ頃合いのところで、妻が陶然とした表情でつぶやいた。
「ああ。翔翔児に弟か妹を作ってやれる。そのために中国から出るんだ」
私は答えた。
仮に翔平の弟なら、名前はどうするかな。康平、それとも浩平?
私はそう言いながら、妻と額を合わせて目を閉じて──。
■
──翔平!?
おれは意識を取り戻し、慌てて身を起こした。危なかった。やべえ。
「……ん?」
自分の身体の下で、燕芳がまだうっとりした表情で目を細めている。
「……あれ? ああ。あなたも切り替わってる。それなら大丈夫。続けて」
首に手を回してキスしてから、おれの顔に自分の乳房を押し当てた。さっきまでの痕跡である自分のよだれが、頬にべったりとついた。
「待て。中止だ」
「いやだ。ここでやめられると困る。すごく不満」
あのなあ。
おまえはいいかもしれんが、おれ視点の意識では無理だ。というか、この組み合わせは絶対に駄目。仮にもとの世界に帰った場合、一生後悔する。
「ああ……。そっか。そうだった」
表情を普段通りに戻したものの、上半身を隠しもせずに彼女が言った。
ひとまず下着だけ身につけさせる。
「──この世界に残るって話だが」
寝台に寝転び、両手で彼女の頭を抱きながらおれは言った。
「考えてみたが、やはり駄目だ。2027年に帰ろう」
でも、と言いかけた彼女を制する。
「いいか、聞け。おれもさっきまで、こっちに残るほうに傾いていた。だがな」
おれたちがいれば、両親の最後の時間を奪うことになる。
それ以上に、翔翔児が本物の両親と過ごす思い出を減らすことになる。
「……」
「翔翔児はおれたちの子だ。おれもそう思ってる。だが、それ以上に、高志軍と田燕芳の子なんだ」
だから。
家族の最後の2週間は、父さんと母さんと翔翔児ものでなくてはならない。それが愛情だ。彼らに敬意と感謝を示す方法なんだ。
彼女は長い沈黙のあと、「わかった」とつぶやいた。
──外から子どもの遊ぶ声が聞こえた。
鳥の鳴き声。自転車のブレーキ音。柳の葉が風でそよぐ音。老人が弾く二胡の音色。
「ところでさ、翔平」
なんだ。
「帰ったら続きしてね」
掛け布団のなかで、おれの身体に手で爪を立てている。
おまえ、この4日間で人間活動のレベルが上がりすぎだろ。
彼女が笑った。
「……半分だけ冗談。だけど、さっきのことで感覚的にわかった」
なにがだ。おれの製造法か?
「──刀槍不入の、本当の意味」




