【第三十七章】1989年5月18日 愚民の快楽(翔平の物語)
「葉巻か……。初めて吸ったが、悪くないな」
南礼士路公園の木陰に、香りのいい煙が漂った。
すこし前に、井村所長からもらっていたハバナ葉巻。
こんなこともあろうかと、ポケットに入れて持ってきていたのだ。
「チャガン大校にお贈りするつもりでしたが、雨ですこし湿気ましてね。勿体ないですから、われわれで回し飲みしましょう」
さっき、そう言って火を点けた。
「この1本で、俺たちの月給の半分はするぜ。好きなときに吸えるような身分になってみたいもんだな」
そう話す王昊天から葉巻を手渡され、おれも吸った。
この時代の中国人は、一定の人間関係があればこの手のもののシェアにほとんど抵抗がない。多少は湿気ていたって、葉巻は充分に美味かった。
さっき、おれが人体特異効能の継承法を尋ねたとき、王昊天は話をはぐらかした。
過去の嫌な思い出に関わる話らしい。
井村所長の手帳によれば、継承は1967年。文化大革命がいちばんひどかった時期だ。彼はいやいや紅衛兵に加入させられたと話していたから、事情はそのあたりにあるのだろう。
ただ、絶対に話せない秘伝の術という印象ではない。
「俺はどうやら、元の力の半分くらいしか受け継いでいないみたいなんだよ」
事実、王昊天はそんな話もしていた。
彼の能力の継承元──。賀存義。
もともと王昊天と同じ村(人民公社)の党幹部で、若いころから「耳で字が読める」が特技だったという。人体特異効能なんて言葉がまだ知られていなかった時期だ。
賀存義の場合、人民曰報だけじゃなく地元紙の陝西日報や延安日報、さらに大字報(壁新聞)も耳で読めた。だからといって実用性はゼロである。本人も周囲も冗談の種にしていたらしい。
ただ、それを「継承」した王昊天は、耳で人民曰報しか読めなかった。彼が用いた継承方法では、能力がスケールダウンするらしいのだ。
「このこと、井村所長に伝えたんですか?」
「あの嫌味な日本人に教えるのはしゃくだろう? 喋っていない」
王昊天が葉巻の煙を大きく吐いて言った。
「能力を完全に継承する方法が、あるならば知ってみたいがな。耳人民曰報はどうでもいいが、中国は広い。有用な能力が他にも眠っているかもしれない。空を飛べるとか、不死身になれる、みたいなやつがな」
ぎくりとした。
まさか、この時代のこいつが、38年後のおれの能力を知っているとは思えないが。
■
「……ところで高老師、白一泉がなぜ、天安門のデモを嫌っているか知ってるかい?」
王昊天は話題を変えた。
空は曇っていたが、ときおり顔を出す月は満月に近い。
「文革を思い出すから、だとよ。事情を知らないガキが、政敵に操られて自分を引きずり下ろしに来る。確かに構図はそっくりだ」
「民主化学生と紅衛兵は同じじゃないとは思いますけどね」
おれは燕京ビールをラッパ飲みしながら言った。
「いや、元紅衛兵の俺に言わせれば、当事者の動機はいっしょだ。どこかの大人が作った毛沢東思想だの民主主義だのの理屈は、ガキどもの行動の源泉じゃない」
「じゃあ、なんです?」
「楽しいからさ」
「普通に生きてりゃ無数の愚民の1人でしかない自分が、絶対の正義を背負って世界の中心になれるんだぜ? 自分たちは正しい。だから、学校に行かなくても勉強しなくても、都市機能を麻痺させても許される。しかも敵は、みんなが大嫌いな『悪』だ」
腐った社会を作ったクソジジイども。
既得権益層。
威張る官僚と政治家。
ズルして儲けた金持ち。
さらに、自分たちの正義に理解を示さない遅れた教師や知識分子や報道媒体。
「そいつらを、まだ汚れていないガキの立場でボロカスに批判して、オロオロさせる。文革の紅衛兵は、ジジイや教師を本当にぶん殴って殺していたがな。この行為には、烏合の衆なりの暗い快感ってやつがある」
──暗い快感。愚民の快楽。
自分は学がないから難しい理屈は知らない。だが、大衆運動の本質を経験的に理解している。
王昊天はそう話し、さらに言葉を継いだ。
「高老師だって、きっと経験があるはずだ。文革の初期、あんたはなにをやっていた?」
父さんの記憶。
9歳。文化大革命勃発。
紅小兵(小学生版紅衛兵)のメンバーとして、クラス全員で担任の女教師を吊し上げた。街頭でおこなわれる走資派幹部や迷信分子の批判大会を、面白半分で見に行った。
キビキビと動く紅衛兵のお兄さんとお姉さんはカッコよかった。みんなでスポーツの大会を見るみたいに、彼らの行動に熱狂して──。
当時の中国の子どもはみんなそうだった。
「俺たち世代の中国人は、みんな過去の暗い快感を隠して、一般人を演じて暮らしてるんだ。高老師の隣家の優しいおばちゃんだって、文革当時はばりばりの紅衛兵だぜ。寺の仏像を焼き捨てて坊主を何人も半殺しにした怪物だ」
「ずいぶん調べているんですね。李さんのおばさんの過去なんて、私や妻も知らない話だ」
「職業柄だよ。なにより高老師。あんたは現在だって、そういうガキどもの暴走を利用して、でかいことをやるつもりじゃないか」
──まずい。
こちらが話を聞き出す気だったのに、ペースを握られている。
「俺の目は節穴じゃない。あんた、党内の改革を願う穏健な知識人ってのは隠れ蓑だ。本当は党体制の打倒を狙って、地下でかなりの準備を進めてる民主派だろ? ずっと、サシで話をしてみたかったんだ」
■
「……告発か密殺か。覚悟はするが、うちの妻は完全に無関係だ。この点だけは上に必ず報告してくれ」
「あ、いやいや。誤解しないでくれ」
背に汗が流しているおれをよそに、王昊天の口調は相変わらず気さくだった。
「俺はあんたを告発も密殺もしない。なぜなら、俺たち『文革の子』は、常に権力への憧れと不信という2面性を持つからだ。だから俺は、あんたの行動に多少の期待もある。これがどういう意味かわかるか?」
彼の考えが読めてきた。
大学講師らしい丁寧な言葉づかいは、もうやめよう。
「……目下の天安門政局は鄧小平と白一泉が勝つ。だが、近い将来はわからない。そういうことだろう、王昊天?」
「その通りだ」
「党の長老どもは後継者の趙紫陽を潰した。今後は党内改革派の中堅幹部も相当パージされる。だが、長老連中も年齢が年齢だ。あいつらが死ねば、権力の空白が生じる可能性が高い」
「ああ。俺は5年後に中華人民共和国の体制が大混乱に陥っても、そこまで不思議とは思わないぜ。ソ連も元気がないしな。だから──」
「万が一の政治変動を考えて、民主派の私にも恩を売っておくわけか」
乱世で生きる民の知恵。元紅衛兵から武警少校に転身できた男なら、なおさら政治感覚は鋭い。
「だいだい合ってるが、理由はそれだけじゃないな」
「どういうことだ?」
「混乱は奪権のチャンスなんだ。このまま党体制が安定し続ければ、俺は定年までろくに葉巻も吸えない人間で終わる。だが、あんたら民主派が暴れ回って、中国に天下の大乱をもたらしてくれたら──。しがない武警少校の俺にも、大きな運が巡ってくるかもしれねえ」
我就是高興天下大乱(私は天下の大乱に興奮する)。
毛沢東が文革の初期に口にしたとされる言葉だ。
「だから、俺はあんたの敵じゃない。完全に味方でもないがな。飲み友達としては仲良くしていこうぜ。高老師」
「……だが。お前が私を殺す事態だって、あり得るんじゃないのか?」
「あり得るなあ。未来の高老師が民主中国の大統領になったら、あんたを滅ぼして俺が天下を取るとしよう。来!」
王昊天が高笑いをしてビール瓶を掲げた。つられて乾杯する。
絶対に人違いじゃない。
相変わらずの語り口に騙されそうになるが、こいつは間違いなく、来世で界域の魔王になる男だ。
■
おれは腕時計を見た。
10時半。まだ時間の余裕があるが、武警の王昊天は明日の朝も早いだろう。聞くべきことを聞いておかねばならない。
「王昊天、お互いここまで腹を割った。そろそろ教えてくれよ」
「なにがだ?」
「お前の耳人民日報の継承法だ。人体特異効能者としては気になるじゃないか」
ああ、それか。
王昊天は押し黙った。
「よほど難しいことなのか?」
「いや、方法自体は簡単だが、聞く相手の資格が必要だ。……高老師。文革中、あんた自身の行為や身近で見聞したいちばんひどい話を教えてくれ。一切包み隠さず正直に、だ」
なんだ?
「……私自身で言えば」
父さんの声が言った。
「紅小兵時代に小学校のクラス全員で吊し上げた担任教師が、3日後に首を吊った。若い女だ。子ども思いの優しい先生だった。だが、子どもは残酷なんだ。人生で最悪の記憶だ」
「他には?」
「山東省にいた妻の曽祖父が、迷信分子として紅衛兵の吊し上げに遭い、首をノコギリで斬られて惨殺された。他に父方の親族で、武漢で造反派紅衛兵だった少年がいる。敵対派閥との内ゲバで20人近く殺した。それから相手に捕まり、腹を切り割かれた状態で街路に2日間晒され、苦しみ抜いて死んだ。その母親は息子の死体を見てから頭がおかしくなって、2年後に長江に身を投げた」
王昊天が「……それならば、伝わるだろう」と低い声で言った。
■
「食う」
彼が文革中、たまたま発見した継承法だ。
「耳で大字報が読めた賀存義は、陝西省陝延市──。つまり、俺が紅衛兵をやっていた街の腐敗幹部で、最低の人間だった。あとは想像がつくだろう。やつがどんな目に遭ったかは」
息を呑んだ。
「もちろん、耳大字報を継承するためにやったわけじゃない。あいつは死んで当然のゴミだった。どれだけ辱めて殺しても飽き足りないやつだ。むしろ、惨殺する機会をくださった毛主席と文化大革命に、俺は深く感謝している」
ガシャン。
王昊天が飲み終えたビール瓶を地面に放り投げて割った。
「おそらく生き胆がキーだ。一緒に食った紅衛兵仲間は全員、耳で人民曰報を読めるようになった。胆を食えば人体特異効能の半分が継承される。経験上、間違いない」
公園の側を走る車のエンジン音が、妙に大きく響いた。
空き皿の上で、王昊天がさっき吸った葉巻の火が消えかけていた。
おれは無理矢理に手に取って吸いなおした。現在の関係性から考えて、相手の過去の行動を容認するポーズが必要だった。
煙が不味い。今後は一生、禁煙してやる。
「……飲みすぎて辛気臭くなりましたな。尋ねる高老師も悪いんです。文革中の本当にひどい話なんて、喋ればみんな、冗談では済まない」
「その通りだ。私自身も含めた中国人は全員、それぞれ喋れない過去がある」
文革。その罪と傷。
あの時代を生きた者は誰もが背負う業。
沈黙していたおれの目に、公園の入り口でゆらゆら揺れる小さな光が見えた。
空が曇っていて周囲が暗いが、ぼんやりと見えてきた。
女の姿だった。
「あなた! ここにいたの」
燕芳。
「帰りが遅いから、李さんのところで懐中電灯を借りて探してたのよ。あー、よかった! 月壇公園とどっちに行くか迷ったけど、こっちに来て正解だったわ」
王昊天が立ち上がり、挨拶した。
「申し訳ありません、奥さん。軍人は呑兵衛なもんですから。俺がついご主人をお誘いして、酒席の続きをやろうと」
彼は如才ない。
すでに気のいい武警の男の顔に戻っていた。
散会にはちょうどいいタイミングだろう。
燕芳が自転車にまたがり、おれに荷台に乗るように言った。
「いいよ、私が漕……」
「駄目だよ。酔っぱらい亭主の自転車なんて、後ろに乗るあたしが怖いんだから」
いまの彼女は、母さんの人格らしい。
だが、ひと漕ぎしたところで水たまりにはまり、大きくバランスを崩した。
あ。
「きゃあ!」
地面には、さっき王昊天が割ったビール瓶の破片が散らばっていた。
燕芳の顔の場所に、ちょうど瓶底が剣山のように上向きで落ちていた。
倒れた燕芳に向かって、王昊天が慌てて駆け寄る。おれも手と肩を軽く切っていた。
「奥さん。……顔にお怪我は??」
「あ、いえ。外れたみたいで。大丈夫、たまたま無事で……」
「たまたま無事で……??」
ちょうど雲が切れ、満月に近い月が顔を出していた。
視界は、よい。




