【第三十六章】1989年5月18日 気のいい男(翔平/高志軍の物語)
雨。
四合院の瓦屋根に雨音が響いていた。
窓際の椅子にアイスが座り、二胡を弾きながら細い声で歌っている。
テレサ・テンの我只在乎你。
あいつに見合わぬ選曲だが、この時代だもんな。
所以我求求你 別讓我離開你
除了你我不能感到一絲絲情意
日本語版と中国語版の歌詞はほぼ同じ。
つまり、ベタ甘ラブソングだ。
ただし、アイスの歌い方はくそ真面目だ。
音程は完璧だが、しっとりした情感はゼロ、1ミリの甘さもない。
いかにも習い事で覚えさせられた感じ。ボーカロイドみたいな歌い方だ。でも、そういうのもまた彼女らしくてよろしい。
服装は1980年代北京の普段着。
レトロな室内で二胡を抱える姿が、そのまま油絵で描きたいほどサマになっていた。
って、あれ。
この時代になぜ、あいつが現代の姿でうちにいるんだ?
二胡の音色が薄れてゆく。
──おれはいつの間にか、天安門広場に立っていた。
占拠中の学生たち。
テント。ハチマキ。横断幕。
「昨日、党政治局の常務委員会議が緊急招集され、重要な決定が下されたの……」
隣でアイスが言った。
「中国人民は全員、ヤクルトスワローズを応援することに」
広場内のスピーカーが一斉に、大音量で東京音頭を流しはじめた。
数十万人の学生たちが、青と緑のビニール傘を取り出す。手元のプラカードを「池山監督日本一」に書き換え、傘を振って踊りだした。
大変だ! 周囲を警備する人民武装警察が全員、つば九郎に。
毛沢東の肖像画が叫ぶ。
「翔平さん! 野球太郎を読みましょう!!」
あーーー。はいはいはいはいはいはい。
このパターンはわかったから!
■
「……最近のあなた、変な夢に慣れてない?」
四合院の寝室。軽い午睡から目覚めたおれに、燕芳が話しかけた。
母親に甘える翔翔児を抱っこしながら、きちんと足を揃えて寝台の端に座っている。
「ああ慣れた。だが、仁間が警告を送りたくなるのもわかる」
今夜、酒席。
相手は王昊天とチャガン(ただし親父)。38年後なら絶対にあり得ない組み合わせだ。
「とりあえず、手土産の料理作っとくかな」
おれは立ち上がり、屋外の厨房に向かった。
中華包丁で干し豆腐、人参、キュウリを切り、炒め物のセロリも先に切っておく。それから野菜と干し豆腐を酢とゴマ油で和えて──。
気づくと、燕芳が側に立っていた。
「翔翔児が寝ちゃった。手伝おうか?」
「いや、厨房が狭いから大丈夫だ。それより……。おまえ、二胡は弾けたっけ?」
「むかし、習い事でやったよ。課題曲しかできないけど」
中華鍋でセロリと豚肉を炒めるおれの耳に、室内から我只在乎你が聞こえてきた。
演奏は教科書通りだが、歌い方はだいぶん情感が乗っている。
料理はちょっと多めに作った。留守番中の妻子の夕食は、これと饅頭で済ませてもらおう。
調理を終えて、寝室に翔翔児の顔を見に行く。自分と思えないかわいさだ。
二胡を弾き終えた彼女が入ってきて、寝台にいるおれの膝の上にそのまま座った。
上半身をひねる。おれの両頬に手を当て「気をつけて行ってきてね」と目を見て言った。
うん、と答えると、そのままべったり抱きついてきた。
寝台に親子3人で寝転がってごろごろする。
……はあ。いいな、この暮らし。
過去、4歳以降の人生では1度も体験しなかった、明確な幸福。
六四天安門事件や王昊天のことがなければ、こちらの世界はずっとこんな日常が続いていたのだ。
おれたち、あと2日半しかここにいられないのかよ。
■
──夕方5時半。
私はツマミ用の料理を手に家を出た。
小雨だ。雨合羽を着て自転車に乗る。
行き先は木樨地のやや北にある、軍高官向けの居住区、軍区大院。トルムバートルの自宅である。
……しかし、今日の午前中の妻も困ったものだった。
ごく遠縁とはいえ、彼女がこともあろうに白一泉の縁者とは。もっとも、妻は政治的なことはなにも考えていないから、好奇心でお願いしてみたのだろうが。先方もよくもまあ、われわれなどを引見してくれたものだ。
とはいえ、白一泉が面会に応じた理由は、私の工作活動も関係していたはずである。
従来、彼らに協力する姿勢を装ってきた。その親玉である白一泉も、私を穏健な改革派であると信じている。これはありがたい。
もっとも、実際の私は「民主派」だ。つまり、党体制の内部改革ではなく、党を打倒して完全な民主主義国家の建設を望む立場であって──。
「あれ? 高老師じゃないか。よかった、いっしょに行こうぜ」
考えながら復興門外大街を自転車で走っていたら、背後から声をかけられた。
王昊天。
会うのは3回目だ。武装警察の制服姿だが、雨合羽を着ていて目立たない。
「雨もだいたい止んだな。まあ、たまに降ったほうが街が埃っぽくならなくていい」
陽気で気のいい男だ。階級は少校(少佐)。
身長はやや低く、私よりも4歳ほど年上。日焼けした顔で、頬に古い傷がある。
前回会ったとき、私に漢詩の質問をしたのですこし驚いた。少年時代は文化大革命のおかげで勉強ができなかったが、大人になってから本を読んで独学しているそうだ。叩き上げの努力家で苦労人。部下の評判もいいと聞く。
「高老師はチャガン大校の家に行くのは初めてだよな。食い物にビビると思うぜ」
ま、見てのお楽しみさ。
王昊天が自転車のスピードを上げた。
厳重な警備が敷かれた、大院の門をくぐる。
壁に囲まれた空間は、「火葬場以外はなんでもある」と呼ばれる、軍高官層のみが住むひとつの街。庶民の世界とは完全に隔絶された空間だ。
1950年代に建てられた、いかめしいソ連式マンションの2階にある角部屋が、チャガン家の自宅だった。いちばんいい部屋である。
重い鉄扉を開け、お手伝いのおばさんが顔を出した。幹部権限で2部屋をぶち抜きで使用しているらしく、敷地面積がわが家の5倍くらいある。東芝製のテレビと、日立の電気冷蔵庫、象印のポット。高官の家庭らしく家具が豊かだ。
「よく来てくれた」
人民服姿のトルムバートルと、民族衣装風のドレスを着た夫人に出迎えられた。夫人は目鼻立ちがくっきりしていて、凛とした美人だ。人民解放軍文工団所属。モンゴル音楽の演奏を担当する軍人らしい。
「ああ、今日はかしこまるな。楽にしてくれ」
敬礼しかけた王昊天を制して言う。
壁の中央に、額縁入りの毛沢東の肖像画。隣の書棚の上に白一泉の写真と、木彫りのチンギス・ハン像が並んでいた。
■
──すごい。
応接間に通されて、再び息を呑んだ。
ヒツジ、丸ごと1頭の塩茹で。
軍の幹部は食料配給が優遇されているとはいえ、豪勢なことだ。余ったら自宅に持ち帰れるかな、とさもしいことを考えてしまった。
トルムバートルが人民服の上着を脱ぎ、腕まくりして肉を切り分ける。主人がいかにヒツジを上手くさばくかで、モンゴル族の男の価値は問われる。そんな民族的美学。
「来」
小さなショットグラスに入れた茅台酒を1杯、3人で飲み干した。幹部専用、儀礼用の高級酒だ。
「格式はここまで。あとは男の酒でいこう」
二鍋頭が出てきた。軍人が好む大衆酒。
さらにチェイサーがわりに馬乳酒。馬乳酒は酸味が強く、アルコール分をほとんど感じない。初めて飲んだが、ヒツジの塩茹でにはよく合った。
「俺の工作ですが、すこし効きすぎましたね。党内改革派は腰の落ち着かない連中とはいえ、あまりにも胆力がない」
場がほぐれてから、王昊天が言った。
「国家を担うに足る者たちではなかった、ということだが」
彼らはすでに、党内の保守派が勝ったような口ぶりだ。私の顔を見てトルムバートルが言った。
「ああ、高老師はご存じないか。昨日午後の党政治局常務委員会議で、趙紫陽総書記が辞意を表明した。党内改革派は完全敗北だ」
──!
とすると、街でデモをやっていた外交部や人民曰報の連中は、今後は相当にひどい目に遭う。中国の民主化には大きな打撃だ。
「……私が思ったよりも壊滅が早いですね」
もとより趙紫陽に期待はしていなかったが、動揺がないわけではない。
「王昊天も頑張ったが、それだけじゃない。趙紫陽は所詮、党の使用人だ。学生運動に便乗した程度で、党の主人である元老連中に歯が立つと思うか? 鄧小平さまと白一泉さまに勝てる人間など、この世界に毛主席以外では存在しない」
「政治家の浮き沈みなんて、文革のときはもっとひどかっただろ? 当事者の俺が言うのもなんだが、気を落とすな。高老師」
王昊天が私に馬乳酒を注いだ。
■
──党内事情に変化が起きた以上、われわれ民主派も作戦を修正する必要がある。范中行たちと協議が必要だ。
この際なので情報を得ておこう。
「当局側の動きがどうなるかですね。今後、6月5日に戒厳令布告、15日に人民解放軍部隊が市内に進駐する、と聞いていますが」
「ほう。さすが、よくご存知だな」
「学生の生命に関わりますからね」
「知っておられるなら隠す必要もない。ただ、改革派の壊滅で戒厳令は前倒しだ。あと数日内に布告される。もっとも武力鎮圧は……」
個人の意見としては望まんな。そう言った。
「北京で人民に銃口を向ければ、台湾やアメリカの反共工作者たちの思う壺だ。党の力を示す必要はあるが、示威による屈服こそ望ましい。孫子やチンギス・ハンがここにいても、私と同じ結論を出すだろう」
トルムバートルは現実的な軍人だ。
惜しむらくは、彼が要人警護部隊の所属で、現場の指揮権を持たないことである。
「というわけで、高老師の任務は重大なんだぜ。広場の学生を解散させちまうのは、国家の利益どころか、あんたたちの利益にも合致する。デモを終わらせちまえば済む話だからな」
さらに酒杯を重ねた後は、場がもっとほぐれた。
話題は、この時代の30代の男の定番。文化大革命の愚痴と苦労話。
トルムバートルの父親は民族独立主義分子の疑いをかけられて引っ立てられ、王昊天は故郷でいやいや紅衛兵をやらされたという。私は彼らより年下だが、1970年代に東北の農村に下放されてしんどい目をした。
あれだけは二度と勘弁してくれ。幹部から庶民にいたるまで、中国人の総意だ。そして、苦難の時代を乗り越えた人間だけが持てる連帯感の源泉でもある。
私たちは肩を叩き合い、タバコを大いに吸って、二鍋頭をしこたま飲んだ。
「わはは、民間の方が俺たち軍人と飲み比べをしちゃいけねえな」
さすがに酔った。王昊天にそうからかわれ、私はちょっと目を閉じて──。
■
──おれは意識を集中して、父さんと入れ替わった。
魂の相性がよすぎるのも困りものだ。今日の午後くらいから、自分は翔平だとしっかり意識していないと、父さんモードで自動的に行動する場合がある。正確には、父さんかおれか、どっちかわからないときが出てきた。アイスも似たような感じらしい。
「酒に対して当に歌うべし。人生、幾何ぞ……。でしたっけ? 高老師」
王昊天が曹操の漢詩を口ずさんでいる。
父さんの記憶から、おれは「譬えば朝露の如し」と次の句を引き継いだ。さらに乾杯。
ここ数時間。
父さんにコントローラーを預けた状況で眺めていた限り、こいつら2人の印象はすこぶるよい。
チャガン親父はもちろんだが、意外なのは前世の王昊天だ。感覚としては、おれの昔の同僚だった加賀みたいな気質の──。
つまり、男がいちばん気の置けない付き合いができる、いい男だ。モテる見た目って意味じゃない。男ぶりがいいやつなのだ。
すくなくとも、意味不明なヤバさを感じる白一泉、うっとうしい昭和ジジイの井村所長、才走って抜け目ない感じの范中行……。といった連中よりは、おれの人間的な好みに合う。
眼の前では、上機嫌になったトルムバートルが、夫人を応接間に呼んで馬頭琴を奏でさせていた。
ついでに息子を紹介する、と、小さな男の子を連れてくる。
「おきゃくさま! ほんじつはようこそ!」
元気にごあいさつ。
チャガン・バトエルデネくん。2さい。
……ああ。
自宅だから多少は予想していたが、それでもマジかよ。あのターミネーター野郎、こんなにちっちゃいの? まあ、折り目の正しさは後年の姿をうかがわせるが。
「おお! めんこい子だ。おじさんが遊んでやろう」
王昊天がチャガン(子)を抱き上げた。
自分の膝に乗せ、チャガンが持っていたクリーム色の物体でしばらく遊んでやっている。
シャガイ。ヒツジのくるぶしの骨で、モンゴル族の子どもの遊び道具だ。おはじきや占いに使う。
38年後に世界をおびやかす恐怖の主従とは思えない。まことに微笑ましい姿。
──いや、穏やかすぎる。
この王昊天、本当にあの王昊天なのか?
とてもじゃないが、転生してから新中華界域の魔王になる人間とは……。それ以前に、あと半月後におれたち夫婦を殺すような人間には見えない。
まさかとは思うが。同姓同名。
……人違い?
▪️
「王さん、まだ時間はありますか?」
「大丈夫だ。飲み直すかい?」
帰路、自転車を漕ぎながら王昊天に声をかけたら乗ってきた。彼の家は復興門近くの武警大院。うちからそう遠くない。
もっとも、この時代の北京に居酒屋やバーはほぼない。あってもほぼ外国人用で、一般人民が行く場所じゃない。庶民はあれだ、公園で外飲み。さいわい、南礼士路公園がすぐ近くにある。
チャガン家で余った料理をそれぞれ持ち帰っていた。帰りに1人1本、燕京ビールもいただいている。白酒宴会の締めにビール、中国北方の男はこれをやる。
雨は上がっていた。
ベンチの水を払ってから2人で腰掛けて、王昊天が持っている干豆腐和えと、セロリと豚肉炒めの蓋を開けた。俺が作ったものだ。
ただ、栓抜きがない。彼が「ならば歯で開けよう」と言ってに瓶に噛みつきかけたのを制した。
「待っててください」
花壇に百合を見つけたのだ。おれは花のついていない株を引っこ抜き、すこし気を込めた。そして、葉と茎をテコの要領で使って開栓。
「へえ。すごいな。これが高老師の人体特異効能か」
草心如鋼。
手で触れた植物の組成を変化させ、一定時間鋼のように硬くできる能力──。
「と、言うと強そうなんですが、例の人体科学研究所で調べたところ、一部のユリ科植物しか硬くできないことがわかりまして」
正確にはユリとチューリップのみ。なので、具体的用途は栓抜きと、大工仕事のときにキリの代わりになるくらい。他の人体特異効能と同様、ほぼ役立たずだ。
「例の研究所かい? おれも井村所長には会ったけどね。ありゃあムカつく日本人のじじいだな」
「そうです。中国人を見下している人物。わが家がお世話になっていますから、これ以上の悪口は言いませんがね」
王昊天が「義理堅えこった」と笑った。
「そうそう。こう見えて、俺も人体特異効能があるんだぜ。例の『耳人民曰報』だから、井村所長からは研究的意義がゼロだと言われたけどね」
──きた。
2027年のおれたちが読んだ、井村所長の手帳にも記載されていた話だ。
「耳人民日報、生まれつきの力ですか?」
「いや、人から受け継いだんだ。地元に『耳で字が読める』って特技の男がいてね。……賀存義という名だったが」
「受け継ぐ、って? どうやったんです?」
おれは王昊天に、そう尋ねた。




