【第三十五章】1989年5月18日 暗殺者(アイス/田燕芳の物語)
翌5月18日午後2時。
自宅で殺されてしまう5時間前。
北京は雨だった。市内は今日も大規模デモが起き、都市機能は麻痺していた。
わたしは志軍と、月壇北街にある幹部大院の前にいた。
党の最高幹部層の居住区だ。一般人民とは完全に隔絶されたエリアである。
トルムバートルが手配した車両が、検問を通って敷地内に入っていく。
巨大な四合院。白一泉の邸宅。
わたしたちは倒座房で生活秘書による身元確認を受け、それから書斎に通されて──。
前にこの体験をしたのは、わたしが5歳のときだ。
でも、まだ覚えている。
自分が物心ついてから、ほぼ唯一、肉親の情を示してくださった方。
白一泉ひいおじいさま。
彼は98歳まで生きた。なので、わたしは最晩年に何度かお目にかかれたのだ。
来た回数はごくわずかでも、わたしに「実家」があるとすれば、ここしかない。
「……若者は恐れを知らん。むかしのわたしもそうだがな」
応接間で会った白一泉は、日本のソフィア電子製のTVを眺めながらそうつぶやいた。
画面では、昼におこなわれた党指導部とデモ学生幹部の「対話」が繰り返し放送されている。
李鵬総理に猛然と食ってかかっているのは、学生リーダーのウアルカイシだ。ハンスト明けで入院中の病院から直接やってきたとかで、パジャマ姿。やがて武力弾圧が起きるとはいえ、この格好の学生を総理が直接引見するのが1989年の中国なのだ。現代じゃ考えられない。
「ウアルカイシは騎虎の勢いだ。革命時代にああいう男は重宝したが。いまの時代におられては困る」
映像を淡々と論評する声。
わたしが確かに聞いたことがある、懐かしい声だった。
■
「白一泉老同志……」
感極まった。
この世界に来た直後、翔平はご両親の姿を見て感動していた。でも、わたしにも肉親はいる。
「おまえは斉碧齢の縁者と聞いたが……」
「はい。そうです」
碧齢夫人は、彼の最初の妻の名だ。
「昨晩調べさせたが、文革の混乱で資料が散逸したらしく、そのような縁者は確認できなかった。だが、眼差しを見て得心がいった。碧齢とそっくりだ」
かつて、彼がわたしをかわいがった理由も、碧齢夫人と顔立ちが似ていたからだと聞いたことがある。
外からの雨音。彼はわたしに、碧齢夫人について一言二言、質問した。
「……よく、来てくれた。自分の家と思って寛いでくれ」
やっぱり、ひいおじいさまはわたしの味方だ。
「ところで、志軍君はずいぶん頑張っていると聞く。奥方のおかげかな。改革派とやらの立場で、われわれに協力してくれるとは。感謝する」
「いえいえ、とんでもございません」
志軍が応じた。
「構わんよ。わたしも若い頃は国民党に偽装投降して革命を続けた。政治をやる男は、そのくらいの深みがなくては頼れん」
「恐れ入ります」
「昨日、井村所長から連絡を受けた。君と王昊天君との連絡不足の件だ。本件はよきにはからう。のちほどチャガンから指示させよう」
仕事の話をするひいおじいさまを見るのは、生まれてはじめてだ。
相手を牽制しながら、的確に人を使う。
やはり一流の政治家だ。子孫としては誇らしい。
「ところで、白老……。いえ、おじいさま」
「なんだね」
ひいおじいさまが笑った。私が幼いときに見た表情だった。
「お手を……。握らせていただいてもよろしいですか」
わたしだって、家族に甘えたいのだ。
▪️
「怖いじいさんだったな。親族のおまえに言うのは申し訳ないが、ハラがまったく読めない」
帰路。雨は上がっていた。
自宅が近いので車での送りを断り、志軍と連れ立って歩いた。
「当たり前よ。建国八柱石の筆頭はだてじゃないの」
わたしはちょっと誇らしい。
白家の血は、いろいろ嫌なことも多い。でも、ひいおじいさまは立派なのだ。それに、わたしに対しては情を示してくださる。
「おまえの頭の回転の早さは、間違いなくじいさんの遺伝だな。しかし、あの底知れなさは似なくてよかったよ」
「あら。もうちょっとミステリアスな方がいいかな」
「やめてくれ。なんだかんだで性格がわかりやすいのが、おまえのいいところだ」
ふふふ。
うれしくなって手を繋いだところ、通行人からじろじろ見られた。たまたますれ違った胡同の人から「高老師は非常に開放的ですな」と声をかけられる。
そうだった。この時代は、たとえ夫婦でも外で手を繋いだり肩を組んだりしてはいけないのだ。不便だ。
「帰りに自由市場に寄ろう。食材を買い足したい」
「どうしたの?」
「白家から帰りに伝言をもらった。今夜、情報交換と相互交流のためにチャガン親父と王昊天と3人で酒を飲もうとさ。手土産に料理を持っていく」
「え」
「とんでもない組み合わせだが、願ったりの話だよ。帰りは遅くなるかもしれんが、いい子にして待っててくれ」
ちなみにこの時代、北京に居酒屋やバーはほとんどない。あったとしても、多くは外国人向け。庶民は飲みにいかない。
男たちが酒を飲む場所は、自宅か屋外。
志軍はツマミに涼拌干豆腐絲(干豆腐の和え物)と芹菜炒肉絲(セロリと豚肉の細切り炒め)を作って持って行くという。
■
──18日夕方。
夫は帰宅後に軽く昼寝してから調理。それから翔翔児とすこし遊んでやって字を教えた。
その後、作った料理を持って自転車で出ていった。
留守番のわたしは、息子に夕食を食べさせた。彼は部屋で絵本を眺めている。
ラジオを香港の短波に合わせる。中島みゆきが流れていた。
時代、か。ぴったりだ。わたしもちょっとだけ歌える。でも、歌詞がすこし悲しいな。
何気なく口ずさみながら、机の上の『読者』を読んでいた。
そのとき、玄関のドアが開く音がした。
「……あら」
馬石雲さん。マー先生。武装警察の制服姿だ。
「すいません。先日、高老師にお貸しした書籍が急に入り用になったもので。取りにうかがったのです」
まあ、そうなの。
わたしはお茶を淹れようとしたが「それには及びません」と優しく言われた。お掛けになったままで大丈夫ですよ、と。
「そういえば、お子さまは?」
「いまお部屋で絵本を」
「そうですか。ああ、本棚に書籍がありました。失礼ながら、上がらせていただきますね」
馬石雲さんはそう話して、静かに歩いて本棚に向かった。
そして──。
彼は左手ですっとわたしのこめかみを押さえ、首筋に向けて右手を静かに振り下ろした。
なんの殺気もなかった。
花瓶にいけるパンジーの花を手折るような、軽くて優しい動作だ。
手刀が脳幹をとらえた。
目の前が暗転する。
死ぬ。
わたしは……。殺された。なぜ?
この人に?
雨。
■
……10秒ほど気を失っていたらしい。
あたしは頭を上げた。
さっきまで身体の操縦桿を貸していた希冰ちゃんは、驚いて失神したようだ。
でも、あたしがこの程度のことで死ぬもんか。
文化大革命のときに、田大勇じいちゃんからもらった不思議な力があるのだ。
つまり。
「──刀槍不入、ですか」
武警の馬石雲が先に口を開いた。
さっきと変わらない穏やかな表情だが、ちょっと驚いている。
「私も山東省平原県の出身です。むかしの師匠に義和団の流れをくむ方がおられました。しかし、まさかあなたに」
「そのまさかなのよ。まだあたしを殺す?」
「いや……。方法は知っていますが、やりたくない。なにより、いまのあなたをあえて殺すとなると」
あたしはちょっと笑った。
「技に感情を乗せるとケガをする。だっけ?」
「ええ。いまのあなたは、わが家郷話(山東ことば)で喋っている。故郷の匂いのする女は殺せない」
馬石雲が苦笑いして、土間に戻って靴を履いた。
任務でもなければ、夫が不在の家に上がり込んで人妻と喋るなどは道義にもとる。というわけか。
心のなかに規律があるのはいい男だ。
この兄ちゃん、やっぱりカッコいいじゃない。志軍の次くらいには。
「あんた、なんでこんな仕事やってんのよ? もったいない」
「国家のための任務です。ただ、実質的には白家の私兵に近い」
「でも、故郷の女は殺さないなんて、性格が優しすぎる」
「……心境の変化です。今年の1月から迷いが出た」
山東大漢。いかにもうちの地元の人間って感じだ。まっすぐなやつだね。
「とはいえ、あたしを殺さずに帰ると困るでしょ?」
「ええ。いまは北京が混乱しているので多少の期間はごまかせそうですが。はやいうちに、地方に逃げたほうがいい」
それを聞いて安心した。じゃあ大丈夫だ。
「どういうことです?」
「あたしたち、デモ終結予定日前日の6月14日に日本に移民するはずなのよ。例の人体科学研究所の所長に、あたしから交渉中でね」
馬石雲は、ほうっと安堵の息をついた。
それなら、殺さなくて済む、と。
■
「胡同に住んでるただの主婦を暗殺する理由、聞いていい?」
「任務上、自分からは言えませんが」
「こっちが自由に喋るのは大丈夫ってことね。じゃあ、うちの亭主の関係?」
「いえ」
そうだろう。
もしも志軍が原因なら、あたしが1人だけで殺されるのは不自然だ。
「ってことは、あたし……。というか、あたしのなかに間借りしてる子が理由?」
「『間借り』ですか。確かに気が全然違う。例の散打の子でしょう?」
「そうなのよ。将来の俺家媳妇儿、なかなか技の筋がいいでしょ?」
「いや。私にいわせれば、まだまだ。いつか稽古をつけてあげたいですね」
お茶、飲む?
あたしがそう言うと、馬石雲は断らなかった。
ちょうど翔翔児が部屋から出てきたので、馬石雲を家に上げてあげる。彼は律儀に玄関の扉を開けっぱなしにしてから、食卓に座った。
「暗殺は、今日の午後に白一泉と会ったせいね?」
「否定しません」
「おかしいと思ったのよ。白一泉みたいな人間が、いきなり名乗り出た親族をすぐに信用するはずない」
あたしは党のむずかしいことはわからない。
でも、白一泉は元老のなかでも心の冷たい人間だって聞いてる。毛沢東といい勝負だって。
「その通りです。党史に記せない最初の夫人の親族が、改革派とやらの男の妻である。将来の政治的問題となる前に、消せ。そこで、トルムバートルに命じて、今夜は高志軍さんを酒席に」
亭主が留守の間にあたしを殺す段取りか。
思わず目を閉じた。
「……馬石雲さん。あんたさ」
「はい」
「やっぱり、仕事やめちゃいな。白一泉の下で汚れ仕事なんて、わが義和団の民の名折れじゃないか」
馬石雲が苦々しげに茶を飲んだ。仕事を辞めてどこに行くのです、という。
社会主義の中国で、人間は単位(国家配属の職場)を離れたら生きていけないのだ。
「たとえば、外国に行っちゃう。うちみたいに」
「私は散打しかできません」
「充分よ。あたしなんか、もっとなにもできやしないんだから。でも、将来の暮らしは絶対に幸せなの。亭主も息子もみんな幸せにしてやるんだから」
ははは。
馬石雲がやっと声を上げて笑った。
「奥さんと喋っていると、人生なんとでもなりそうな気になってきますね」
「なんとでもなるわ。あんたも日本に行って、……そうね、あっちの女の子にチカン撃退法を教えるの。今日の昼間のあんた、すごくカッコよかったんだから。きっと未来でバズって流行る!」
「……ばず?」
あれま。この言葉って、どういう意味かしら?
■
馬石雲が礼を言って帰っていった。
はてさて、接下来 俺家媳妇的事儿。
さっきの兄ちゃんは同郷だし、この子は未来の身内だからね。
田舎者はお節介なんだよ。
「……ひいおじいさま」
さっきからあたしのなかで目を覚ましていたこの子は、馬石雲の話を聞いてからずっと落ち着かない。
気の毒に。信じられる家族も実家も、全部なくなっちゃったのか。
えらい連中は怖い。
あいつらは権力を守るためになんでもするし、誰でも殺すんだ。
でも、希冰ちゃん。
帰る場所はあるんだよ。あんたさえ構わなけりゃ、だが。
38年後、あんたと会うのはけっこう楽しみなんだ。
あたしはこの身体だから長生きだし、歳をとるのも遅い。日本でいっしょにおしゃれをさせてよ。
だから、いまは泣かないでおきな。
……この子が落ち着いたら、亭主を迎えに行かなくては。
民主化のためだか何か知らないけれど、政治は怖いんだ。
触っては駄目だ。
今日こそ、そう言い聞かせてやらなきゃね。




