【第三十四章】1989年5月17日 幸福論(アイスの物語)
衝撃があった。
死ぬ。うそだ。
目の前が暗転する。
手刀が確実に脳幹をとらえていた。
わたしは……。殺された。なぜ?
──胡同の自宅で、わたしを手にかけた人物。
5月18日、自宅に志軍が不在の夜7時。
息子に夕食を食べさせ終えたとき、彼はやってきた。
制服姿だった。
胡同の住民は余所者の侵入を許さないが、公的な身分の人は見とがめない。
彼は丁寧な口調で挨拶した。
そのうえで、息子の寝室で1人で絵本を眺めていることを知ると、「ちょっと失礼します」と、わたしの背後にある本棚の書籍を見ようとした。
そのまま、左手ですっとわたしのこめかみを押さえ、首筋に向けて右手を静かに振り下ろした。
なんの殺気もなかった。
花瓶に活けるパンジーの花を手折るような、軽くて優しい動作だ。
計算し尽くされた、完璧な行動。
その一撃は、生命を確実に奪う。
どうしよう。翔翔児。あなた──。
■
……すこし、話を巻き戻す。
最期。前日のことを思い出しておきたいのだ。
昨日、わたしたちがこの世界にやってきた5月17日の昼下がり。
わたしは天安門広場で変な男に絡まれた。
たまたま、翔平が近くにいなかったときだ。
「ねえねえェ。フランス語が上手なお姉さん。ボクと民主主義を語らなァい?」
若い学生。清潔感のない長髪。ハチマキ。
服装はサイズの合わないピチピチのTシャツ。一目で海賊版とわかるミッキーマウスが描かれていた。この時代の基準から見ても趣味が悪い。
「あっ、ボクすごいんだぜェ。北京外交学院に通う外交官のタマゴだし、タクシーにタダで乗れるエリートなんだ。親父が北京市交通局の幹部だからさ。デート行こうよデートォ!」
いろいろ最悪な人だ。
相手にする価値がなさそうなので、「わたし、人妻です」と冷たく返す。
「大丈夫だよォ。民主主義は恋愛も自由なんだよォ。むうん? よく見たらお姉さん、いっぱい牛乳飲んでそうな──」
いきなり胸元に手を伸ばしてきた。最低。気持ち悪い。
内掃腿。
護身術の足払い。問答無用ですっ転ばせた。
「なっ、なにするだーッ! 天安門を代表する民主化闘士の宋建峰さまにィィ!!」
うそお。
宋建峰。つまり、宋科長の本名。
……すごい。この人、38年前から一貫してダメ人間なの??
怒った宋科長が起き上がり、詰め寄ってきた。
返り討ちでボコボコに……。したいけど、騒ぎになると困るな。しかも今日はスカート姿だ。
すると、疾風のような一閃。
背後からスッとあらわれた武装警察の制服姿の男性が、宋科長の頭上を狙いすまして高鞭腿を放ったのだ。
なにか黒いものが宙を舞った。見ると、宋科長の長髪が丸ごと消えてなくなり、まだ20歳前後にしてはさみしげな頭が顔を出していた。
宋科長が「うわあ。香港で買ったカツラが」と叫びながら、風で飛んでいく頭髪を追って広場を駆けていく。
「奥さん、ご無事ですか?」
武警の男性が言う。カッコいい。
「先ほどの内掃腿、型通りの見事な足さばき。でも、怒りの感情が乗っていましたね。ケガをしやすいですから、ご注意を」
馬石雲さん──。すなわち、38年後にわたしが散打を習うマー先生は、爽やかにそう言った。
脱帽して一礼。青空みたいな曇りのない顔に、丸刈りがよく似合っていた。
■
「いやー、スケベ男をぶっ倒したのはスカッとしたわ。希冰ちゃん、強いのねー」
帰路、翔平が漕ぐ自転車の荷台で揺られるわたしの頭のなかで、燕芳さんが言っている。
わたしと彼女の魂の相性は、なぜか異常なほど良好だ。燕芳さんはわたしにコントローラーを渡しつつ、たまに自分が口をはさみたいときは表に出てくる。
「あの武警の兄ちゃん、やるわよねえ。ヒーローすぎてときめいちゃった。あたしも結婚を早まったかなあ。あっはっは」
待って待って。それだと歴史が変わります。
──田燕芳さん、26歳。
性格は明朗活発、好奇心旺盛、天真爛漫。
夫の志軍さんとの馴れ初めも、燕芳さんの勤務先の国営文房具店に足繁く通う彼が気になり、彼女が猛アプローチをかけたためらしい。この時代の女性とは思えないアグレッシブさだが、「いまは亭主があたしの魅力にデレデレ」とのことだ。うん、仲の良いご夫婦ですこと。
そんな彼女は、いきなり4日だけ身体を借りにきたわたしを面白がっていた。
息子の「彼女」とはいえ、当の翔翔児はまだ3歳だ。ずっと未来の世界で息子の側にいる女、しかも同じ年齢。そんなわたしに対する感情は、嫉妬よりも興味関心が圧倒的に上回るらしい。外国でずっと暮らしていた親戚の子みたいな目で、彼女はわたしを見ているようだ。
「それにしても、38年後ってことは……。ウチの息子って希冰ちゃんとけっこう年の差があるわよね。大丈夫? あいつに騙されてない??」
笑ってしまった。
大丈夫大丈夫。彼はわたしの大事な心の支えです。
「家に帰ったらどうしましょ? 翔翔児のお世話、希冰ちゃんが不慣れならあたしがやるけど」
「いえ、3歳の彼のことも知りたいですし。よかったら、ちょっと担当させてもらえませんか?」
「いいわよ。じゃ、しばらく休みをもらうかな。危険なことやわからないことがあれば、すぐに呼んでね」
なんだかルームメイトみたいだな。
■
「媽ーー!」
横水坊胡同。四合院、中庭。
志軍さんの用事だとかで翔平が出ていった直後、かわいい声に呼び止められた。
翔翔児。つまり、高翔平ちゃん、3さい。
しゃがんだわたしに、思い切り抱きついてくる。
朝に最初に接したときはぎこちなくなってしまったが、いまは燕芳さんもいるので安心だ。
わたしは幼少期、親にかわいがられた記憶がない。
両親が物心つく前に亡くなったからだ。ひいおじいさまはわたしをかわいがってくれたが、会う機会すらごくわずかだった。
ただ、燕芳さんによると、子どもには「なにも考えないで接すれば大丈夫」だという。勝手に身体が動くのだと。
なので、抱きついてきた翔翔児を抱き返してみた。
幼児の身体は小さくてかわいらしい。
頭に顔を埋める。髪の毛からいい匂いがした。肌がふわふわしている。生物の本能としての快感がある。
翔翔児はしばらくわたしをぎゅっと抱きしめ続けてから、顔を上げた。ビー玉みたいに曇りのない瞳。満面の笑顔。
「媽。今日もきれい。だいすきー」
ずぎゅん。
うわあ。
なに、なに。なんなの?
この世界一かわいい生き物。
前に李姐の家で会った可心ちゃんも、もちろんかわいかった。だが、わが子となると感情の桁が違う。この子が自分の身体のなかにいたときや、産まれて最初に抱きしめたときの生理的記憶も──。燕芳さんを通じて、いまのわたしにはある。
すごい、すごすぎる。しかもこの子はわたしをなんの理屈もなく100%愛している。べったりと頼っている。わたしの責任も重大だ。手元から離すと死んじゃうかもしれない。
信じられない。身体が震える。
どうしよう。かわいい。
わたしは再び翔翔児を強く抱きしめた。
「おしっこ」
あらま、大変。どうしましょう。
例のトイレはちょっと遠い。そうだ、家の玄関にある尿壺。慌てて連れていき、彼のズボンを下ろして上半身を支えながら壺にまたがらせる。手に尿のしぶきがかかったが、燕芳さんの意識が影響しているのか、ほとんど汚いと思わなかった。あとで水場で洗えば済む話だ。
ついでにうんこ? ああ、はいはい。尿壺の隣りにあるザラ半紙をくしゃっとしてからそれでおしりを拭いてあげて──。
信じられない。わたし、こんなことできる人だったのか??
「おばちゃーん」
その後、翔翔児を脇に抱えながら水場で手を洗っていると、誰かに声をかけられた。
子どもの声。見る。
「よかった! 翔翔児のすがたが見えなくなってさがしてたの」
まだ小さいのに、しっかりした口調で話す女の子。
知っている子だった。
李可心ちゃん。わたしの大使館の同僚の李姐の一人娘。
でも、なぜここに?
「え? ちょっと! わたし、となりの家の蘭蘭だよ」
蘭蘭は可心ちゃんとよく似ているけれど、すこし幼かった。6歳くらいか。
しかも日本語ではなく中国語を喋っている。やはり違う子だ。
「あ、ごめんね蘭蘭。ええと、あなたの本名ってなんだったかしら」
「なんでおぼえてないの? だいじょうぶ?? 李秀蘭だけど……」
ああ。
この子──。38年前の李姐だ。翔平の隣の家の子だったのか。
「翔翔児、あそびのつづきしましょう。みんなで外交官ごっこ」
どんなごっこなのかしら。
「蘭蘭は将来、外交官になりたいの?」
「うん。それで、やさしいだんなさんとけっこんして、すてきなお母さんになるの!」
ああ。あなたの夢は将来、半分かなうのね。
でも、その半分の夢はすごく素敵な現実になるから、蘭蘭の人生は大丈夫だよ。
「でも、外交官じゃなくて翔翔児とけっこんしてもいいよ」
それは絶対だめです。
■
「……いろいろびっくりだ。これ、おまえが作ったのか?」
「うん。たぶん、燕芳さんの記憶で作れてる」
夕食。明かりは裸電球。
わたしの目の前で、翔平──。志軍が目を丸くした。いや、わたしも驚きなのだが。
蒸し器から出したホカホカの饅頭(中華パン)と白菜炒め、豆腐のスープ。
当時の胡同のメニューはシンプルだ。みんな節約している時代である。
翔翔児に食べさせなきゃ。
わたしは饅頭と白菜を小さく千切って子どもの食器に並べた。
彼は大人用の竹のお箸が使える。なんてお利口なのかしら。うちの子やっぱり天才。
「おれの親父、思ったより大物だった。でもやべえやつだ」
食べながら詳しく事情を聞いた。志軍さんが進めている、民主化資金プールと大反抗計画。
現代のわたしたちは、それが結果的に実を結ばなかったことを知っている。だが、六四天安門事件後に学生幹部たちが香港経由で大量に海外に逃亡したのは史実だ(黄雀行動)。たぶん、黄雀行動は志軍さんが歴史に残した置き土産である。
「でも、話を聞いてると武力鎮圧は起きない、仮にある場合も6月15日以降だって、みんな確信してるんだよな。父さんは党内の情報も入る立場っぽいのに」
「この時期はいろんな情報があったはずだものね」
錯綜する情報、カネ、理想、欲望──。
歴史の大事件の裏側は、当事者には見えない変数が渦巻いている。
食事を済ませた。
翔平が翔翔児のお馬になってあげて、居間でヒヒヒンと鳴いている。わたしは食器を持ち出し、外の共同水場で洗った。やがて翔翔児におしっこをさせてから寝床に連れていき、彼の背中をトントンしながら2人でお話をしてあげる。夫は話が上手く、翔翔児がキャッキャッと喜びすぎて寝かしつけに時間がかかったが、なんとか8時には寝てくれた。
居間でラジオを香港の短波に合わせて、小さな音で音楽を流す。テレサ・テンだった。
食卓のホーロー製のやかんで、薄いお茶を淹れた。あたしは裁縫道具を出し、翔翔児の靴下と夫のシャツのほつれを繕う。夫は静かに『参考消息』を読んでいる。
いつもの日常。いつもの夜だ。
あたしたちは6月14日に家族でここを離れるけれど、移住先での暮らしはどうなるだろう。西側は資本家が強いっていうから、ずっと働かされるのかな。自分は体力があるからそれも平気。でも、子育てとの両立を考えるなら、家族経営の中華料理店でもはじめて──。
……ん。
あれ。
ちょっと意識が混濁した。わたしはいま、なにを考えたんだ?
もう寝よう。お湯に漬けた布で身体を拭いた
■
「ねえ。あなた」
「ん?」
寝室。眠っている翔翔児を挟んで、わたしたちは狭いベッドに川の字で寝転がっていた。
翔翔児が寝ぼけたまま、わたしの乳房に頬を擦り付けている。
両手で彼の頭を包み、静かになでた。
「……どうしよう。わたし、家族で暮らす経験、はじめて」
「ああ、すまんな。慣れないことばっかりだろ。おれは懐かしくてたまらないが、おまえはこんなところにいると」
「ううん。嫌なわけじゃない」
幸せなの。
びっくりするほど。震えるくらい。
それで困ってる。人生で初めてだから。
こんな日常を送っている人たちが、いるの?
「あなた、大好き。おやすみなさい」
右手を翔翔児の身体から離し、翔平とまとめて抱き寄せた。
翔平の口にキスをした。
彼は軽くおどろいてから、「ああ、おやすみ。愛してる」と言って軽くキスを返し、目をつむった。
実は内緒である。
この時代の中国人の夫婦は、おやすみ前にキスをする習慣はない。
──そして。
次の夜、わたしはこの家で、訪問者の手で殺された。
なんの前触れもなく。




