【第三十三章】1989年5月17日 銭闘!天安門(翔平の物語)
「ねえあなた、わたしが自転車を漕ごうか?」
荷台にいる燕芳が言った。
「いや、男のプライドってもんがある」
「刀槍不入があるから疲れないよ?」
「そういう問題じゃねえよ」
もう、この人は変な意地を張っちゃって。
笑われた。
おれたちは再び自転車に乗っているのだ。いったんは帰宅である。
「翔平はこのあとどうするの?」
「父さんは用事があるらしい。おまえを一人で置いて出ることになるが……」
ちょっと不安だ。もちろん理由がある。
実はさっき、天安門広場で軽いトラブルがあったのだ。
志軍が単位(大学)の同僚と会って話し込んでいた際に、燕芳が不良学生にナンパされた。そこに警備中の武装警察が仲裁に入ったのである。おれが騒ぎに気づいたときは、すでにナンパ男は立ち去っていた。
「帰っても胡同のなかにいるなら安全だよ。それより翔平、さっきはおいしいところを持っていかれちゃったね。カッコよかったなあ、武警時代のマー先生」
迷惑な目に遭ったのに、微妙に楽しげである。
理由は先のトラブルの関係者複数が、揃って未来の知り合いだったからだ。
事態を収集してくれたのは、マー先生。本名馬石雲。38年後、アイスが通うフィットネスジムのコーチである。
おれも挨拶したが、良い意味で人民的好警察、という感じの素敵な兄ちゃんだった。後世でも人格者だそうである。
この時代、マー先生は武警散打突撃隊に所属していた。格闘技の腕を見込まれ、広場の警備を命じられていたのだ。
■
自宅に燕芳を残し、再び外出した。
行き先は中日合弁の人体科学研究所。
いきなりキーマンの井村所長に会えるとはありがたい。父さんが王昊天といっしょに何をやっているのかも、わかる可能性が高いだろう。
「でも、おれがいない間、翔翔児の相手は大丈夫か? こう言っちゃ申し訳ないが、おまえの得意分野じゃなさそうな──」
「大丈夫。いざとなったら燕芳さんに助けてもらうから」
家を出る前にそんな会話をした。さいわい、おれたちの魂の定着は仁間の予測よりも早い。日常生活はなんとかなりそうな気配だ。
人体科学研究所がある亮馬橋までは、うちから片道8キロもある。
おれは自転車で平安里西大街を東に走り、什刹海、地安門、東四、工体、三里屯と進んで……。遠い!
ああ、せめて上海永久公司の実用自転車じゃなくクロスバイクがあればなあ。でも、道路状況もかなり微妙なんだよな。
なお、当時の庶民はタクシーなんか乗れない。バスは常に大混雑する。帰りもまたこのルートかよ。
■
「──やあどうも、奥さんはお元気ですか」
井村所長が言った。
壁に日本画が掛かった、和洋折衷の応接間。自分の前に日本茶が置かれている。
おれが汗だくなのを見てか、出された湯の温度はやや微温かった。おかわりをもらうと、湯がすこし熱い。
石田三成かよ。限りなく日本を感じる。
「ご不便そうですな。今後は日本からの友好協力基金で北京の地下鉄が整備されるはずですが……。こちらの方々を、われわれ日本人がしっかり導いてやらないといけません」
はあ。
──井村臣之介。
ソフィア電子の創業者にして、人体科学研究所の所長。現在64歳。
黒縁の眼鏡を掛けた、やや痩身のおっさんだ。時計はロレックス。仕立てのいいスーツのシルエットはダボッとしており、肩パッドが入っている。バブル時代の流行を品よく反映した感じだ。髪は7割方白く、ポマードで撫でつけていた。
「今日は100万人以上の街頭デモだそうですな。わが国の安保闘争もそうですが、若者のエネルギーは商売に向いてこそ社会が上向く。中国もデモをやめて、日本から大いに学べばね、ひょっとして経済発展できるかもしれませんよ」
──中国は日本から学べ。
著名な企業家も、しょせんは昭和の日本人だ。中国を上から目線で見下す意識は決して消せない。38年後、ソフィア電子が主要部門の大部分を中国企業に売却していると聞いたら、この人はどんな顔をするだろうな。
まあそれはいいや。大事なのは父さんが何をやっているかだ。
「いかがですかね。例の件の首尾は」
井村所長が本題を切り出した。
「地方出身の学生グループにうまく接触できています。ただ、対象が多いですね。今後はもっと人数が増えます。現時点の工作では効果は限定的で……」
父さんの声が喋った。傍に控えた通訳が訳す。
通訳は日本人で、中国語は下手くそだった。もっと上手に訳せる人が山ほどいるのに、あえて日本人を使うのは、他の中国人には知られたくない話ってことだ。
「限定的、じゃ困るな。やはり君には熱意が出ない仕事かね」
「いえ、自分の理念に照らしても、異論はありません。より成果を出せるよう努力します」
父さんが朴訥に応じる。
「……まあ、日本も民主主義の国です。中国の民主化に対する志軍さんの真っ直ぐな思いにはね、私もいつも心を打たれています。大変なお役目で申し訳ない。しかし、中国経済をさらなる発展に導き、真の日中友好を実現するためには。必要なことなのです」
ぜひ、ご理解をいただきたい。井村所長が父さんの手を取った。
通訳が再びつっかえた。井村所長が睨んだ。
日本語で「適当に訳して構わん」と言っている。中国の民主化や日中友好に、本気で関心はなさそうだ。
「これはね、日本の財界全体の意思です。しっかりやってくださいよ」
■
木村屋のあんパンが運ばれてきた。
その下に封筒。なかにはベンジャミン・フランクリンが描かれたピン札の100ドル札が40枚と、1万円札が1枚入っていた。1万円は駄賃、というわけか。
「ありがとうございます。今日5時、南京大学民主化チームのリーダーの范中行に渡す予定です。南京大学は名門ですから、撤退に成功すれば影響があるでしょう」
父さんが言った。
──なるほど。読めてきた。
父さんがやっているのは、天安門のデモ現場にいる学生の切り崩しだ。彼らにカネを渡して、運動を弱体化させたり内部分裂をうながしたりする秘密工作である。
資金の出所は、当時は世界一の金持ちだった日本の財界だ。コンプライアンスがゆるい時代なので、裏金なんかいくらでも中国に持ち込める。
日本の企業人たちは、デモによる党体制の不安定化を恐れている。武力鎮圧はもちろん、中国の民主化もビジネスの邪魔だ。なので、過激化しそうな学生たちをカネで黙らせようとしているのだ。
「まあ、いろいろ他の横槍もあると思うが…」
井村所長が言った。
その通りだ。別に日本だけが悪辣ってわけじゃない。
そもそも天安門のデモは、カネの面ではダーティーなのだ。
広場を占拠中の学生たちには、香港の財閥の寄付を装って、アメリカや台湾の情報機関の資金がどっさり流れ込んでいる。中国の体制をひっくり返し、自国の市場とプレゼンスを拡大するための資金援助だ。
対して日本やドイツの親中派企業は、これまで築いた党とのコネを守るため、デモ妨害にカネを使っている。
デモをさせたい連中と、させたくない連中。天安門の運動はすでに、党の権力闘争の口実であるだけじゃない。冷戦政治や対中経済利権が抗争する鉄火場なのだ。
「うまいかね? あんパンは。普段の北京では絶対に食べられんだろう」
井村所長が言った。
ああ、うめえ。日本の味。顧客に向き合って作った資本主義の味だ。
いま天安門広場で、こういうものがいつでも食える世の中を求めてハンストやってるやつらの気持ちも、すごくわかる。
ただ、広場にいる若者たちは純粋でも、周囲は大人の汚い論理で泥まみれである。
■
「あの」
おれは自分の声で話した。
「王昊天は、何をやっているんですか?」
「前に話したと思うがね」
やはり社会主義国の連中は飲み込みが悪い。
そう言わんばかりの表情で井村所長がおれを見た。
「いや、彼が具体的に何をしているのかです。私とは立場が違う人なので、細かい情報交換をしてくれないんですよ」
「王昊天はそんな性格の男には見えないが」
井村所長はそう言いながら、教えてくれた。
白家から紹介された男、王昊天。
彼の担当は、日本財界のカネを使った党内改革派の崩壊工作だ。
すなわち、趙紫陽、胡啓立、万里……。まあ人名はどうでもいい。
とにかく、デモを容認する改革派の指導者たちの部下を買収し、親分を見限らせる。
いかにえらい政治家でも、部下が仕事をしてくれなきゃなにもできない。こうして党内の後ろ盾を骨抜きにすることで、天安門デモを弱体化させ、結果的に武力鎮圧を回避する。
もちろん、保守派の身辺にもカネをばらまく。すべては日本企業の利権のために──。
■
自転車の足取りが重かった。
転魂状態のとき、後の歴史に影響がある知識は身借り先に伝えられない。つまり、両親の運命やデモの行く末についての情報は、父さんとは共有できない仕組みだ。
水が片方にだけ流れる弁。無用な混乱を生まないための作用だろう。
だが、ゆえに歯がゆかった。
──父さんは改革派。ただし、穏健な知識人。
だから、党内抗争と国際資本のおもちゃと化した天安門デモを、早期に収束させるべきだと考えている。このまま放置すれば武力弾圧を招き、中国の真の民主化は遠のくと。
だから、父さんはあえて井村所長の意向に乗った。デモ反対派の白一泉ともコネを保ちながら。
理解はできる。
でも、この立場でいいのかよ、父さん。自分の理想を悪い連中に利用され、結果的には自分の仲間を裏切っている。しかも、たぶん井村所長は、父さんと同じような工作担当者を他に何人も運用している。人体科学研究所に集めた、役立たずの人体特異効能者たちは、こういうときの工作員としては使える人たちであるはずだ。
ひょっとして。
夫婦がやがて殺されるのも、父さんの行動が裏目に出たせいか? 6月4日の武力弾圧の夜、事情を知る人間は用済み。白家か日本財界による口封じだ。
おそらく、刺客の王昊天は仕事を命じられただけだ。彼がやらなくても他の誰かが担当しただろう。おれがやつを恨み続けるのは、ある意味では筋違いかもしれない。
陰謀に利用された、インテリ親父の理想主義。それが3歳のおれの家庭を崩壊させた。
まだ確証は持てない。でも、真相に近いんじゃないか?
■
……考えるんじゃなかったな。
そう思いながら、北海公園に入った。
かつての王朝時代の宮廷庭園。現在は北京人の憩いの場。時計は午後5時前だ。太極拳をやっている老人たちを眺めながら、湖に突き出た清代の楼閣の陰で待った。
澄祥亭。今日の待ち合わせ場所。
范中行はほぼ時間ぴったりに、近くの森からすっと姿をあらわした。
「井村から調達。鷹兄4000人だ。……私の年収の20倍くらいだな」
父さんが声を殺して笑った。
暗号の意味。鷹兄は米ドル、香姐は香港ドル、小桜は日本円ってことだ。
「お疲れ様でした高老師。とりあえず、南京の学生部隊のうち、明らかに使えない連中を10人ほど、実家に帰らせておきます」
「いいね。井村には、まだ工作資金が足りませんと言っておくよ。もうすこし引っ張れそうだ」
「つくづく、よく出しますよね、彼らも」
「井村は愚かじゃないが、日本人なんだ。われわれ中国人を見下していて、型にはまったイメージで理解したがる。だから……。純粋で朴訥な改革派知識人からハメられるなんて想像できない」
どこが純粋ですか。范中行の含み笑い。
なんだ、どういうことだ?
「他の状況を教えてくれ。范中行くん」
「CIAや台湾情報部をたらし込んで得た資金が612万ドル(約8億円)。党体制を守りたい日本企業を騙して引っ張ったカネが61万5000ドル(約8000万円)です」
すらすら答える。民主化デモの暗黒面だ。
「天安門広場の祭りは、西側の連中からカネを引っ張るためのショーだ。6月15日の撤退予定日までガンガン盛り上げろ。万が一、われわれが勝てばそれでよし。負けてもありったけの資金を手元に残せ」
「はい。広場撤退後の亡命手配も……。王丹、ウアルカイシ、柴玲……。主だったところは」
「学生幹部の亡命で浪費しすぎるな。今後、われわれは日本・香港・サンフランシスコに民主化拠点を建設して、安定的な運営を続けねばならない」
周囲に人はいない。北海の水面から水鳥が飛び立った。
「中国人民は社会主義体制に疲弊しています。国外から揺さぶれば、あるいは」
「ああ、いつでもあんパンが食えて、北京のどこでも地下鉄とタクシーで移動できる社会を作ってみせるんだ。中国人自身の手でな」
おい父さん。あんたもしかして。
「われわれは3年後に民主大反抗を決行、5年後にデモクラシー中国を建国する。日本よりも優秀な民主主義国家を、中国で実現してみせるぞ」
やっべえ。
お人好しの穏健改革派はただの仮面だ。
……おれの親父、新中華界域の幹部といい勝負のバケモンじゃねえか。




