【第三章】2027年6月4日 不忍池(アイスの物語)
また、ひとりぼっちだ。
翔平が目の前で倒れたとき、わたしはまずそう思った。
自分のことしか考えてない。ひどい人間だと思う。
それを後悔しながら、倒れている彼ににじり寄った。
ドローンはすでに飛び去っていた。
自分でもなぜ、あんなに涙が出たのかわからない。
彼とまともに言葉を交わしたのは最近だ。
でも、2年半も姿を見ていた人間が突然いなくなる。
それがつらいのだと思った。
高翔平、もしくは高田翔平。
わたしの監視対象は、そんなに悪い人じゃない。
いい加減そうに見えて、事実いい加減だけれど。
決してそれだけの人ではなかったのだ。
どうせ意味のない任務なのは知っていた。
それなら、もっとはやく、たくさん話せばよかった。
どうして、このカフェを選んでしまったんだろう。
助からない。理性では理解している。
でも、名前を呼び、どうか目を覚ましてと頬を軽く叩いた。
不思議だった。
後頭部を撃たれたのに、彼の顔は血で汚れていない。
身体も。
そして、わたしが彼の手を取ると──。
■
後から思えば、この瞬間がわたしの歩む道を変えたのだろう。
わたし。すなわち白希冰は、人生をどう扱っていくのか。ということだ。
過去。わたしは常に役割として存在してきた。
翔平をすこしだけ羨ましく思うのは、幼少期の彼がわずかながらもご両親を覚えていることだ。父親に肩車をしてもらったり、母親に抱きしめてもらったりした記憶があって、それは彼にとって大切なものだという。
対して、わたしにそうした思い出はない。両親とも物心が付く前に亡くなったからだ。翔平のご家庭とは違って、複雑な殺人事件ではなく普通の交通事故だったそうだけれど。
結果、孤児になったわたしは親族から養育費と学資を援助され、阿姨(=シッター)を一人つけられて北京で育った。阿姨たちは数年ごとに入れ替わり、誰もが使用人としての分を守る性格だった。
だから、本気で誰かにかわいがってもらった記憶も、ひどく叱られた記憶もない。誕生日やクリスマスに大人と一緒にケーキを食べたり、みんなで旅行に行った思い出もない。
つまり、わたしは「家族」という存在を経験しないで育った。
でも、親族はいた。
おじさまの白錫来。祖父の腹違いの弟の息子という複雑な続柄だが、中国人の血縁感覚ではあまり遠くない親戚だ。
わたしが育つ費用を出してくれた方なので、つまり親がわり。しかし、深く感謝を覚えてはいても、「親」と呼べるほど近しくはなかった。彼は偉い人すぎたのだ。
3年前までのおじさまの肩書は、党中央政治局委員。わかりやすく言うと、14億人の中国人民のなかで上から25番目以内の偉い人である。
かつて大学時代、おじさまの赴任地である重慶市に遊びにいったときは、空港に駐機したエア・チャイナ機のタラップ脇に国産高級車の紅旗が横付けされ、そこから数十キロ先の公邸までの信号がすべて「青」だった。
おじさまのこうした地位は、ご本人の政治的手腕の賜物である。ただ、わたしたちの家系がいわゆる紅二代──すなわち中国共産党の元老・白一泉を祖とする家柄であることも、決して無関係ではない。
革命の元勲「白一泉」の名は、中国の教科書には必ず出てくる。故郷の山西省には記念館もあるほどだ。もう15年以上も行っていないけれど。
わが党に批判的な人たちは、わたしたちのような家系を「紅い貴族」だのと罵る。
だが、父祖が手づから作り上げた党と国家に対して、真の意味で愛着と忠誠を持つ者は紅二代だけだ。ゆえに、常に血筋の重みと誇りを自覚し、その責任を担い続けよ──。
わたしはそう言い聞かされて育った。だから、自分が周囲から常に役割を求められ、それを果たせなければ何者でもなくなることも知っていた。
なので頑張った。ピアノやフランス語から散打(護身術)まで、中国の上流階級に求められる習い事を山のようにこなしながら、学生時代の成績はトップを取り続けた。
やがて、おじさまの指示で──本当は別の大学でフランス文学を勉強してみたかったけれど──北京外交大学に進んで外交官になっても、出世して恩に報いるべきだった。政府のなかに一族や縁者が増えることで、おじさまの政治的資本はより豊かさを増すのだ。
将来はおじさまが選んだ、白家と釣り合う別の紅二代の男性と結婚する。そして子孫を残し、長きにわたり一族の藩屏となる。
別に望んでそうしたいわけじゃない。でも、それが自分の役割であり、生まれ育ちから求められる義務だと思っていた。
──しかし、3年前。
おじさまは突如、あらゆる職務を解かれた。そして党籍を剥奪された。
汚職による党内規律違反、実際は権力闘争の敗北による失脚だと噂された。もっとも、諸説ある理由の解明よりも、わたしたちにとってはその結果のほうが深刻だった。
おじさまに近い親族や部下は連座して捕まるか、海外に亡命するかして、残らず中国の社会から消えた。「白錫来裁判」の法廷は全中国に向けて放送され、無期懲役と政治的権利の終身剥奪、全財産の没収という恐るべき判決が言い渡された。
かくして、建国の八柱石にして紅二代の筆頭であった白一族は滅び、歴史の役割を終えた。
わたしはまだ若く、おじさまとの類縁関係も遠い。そのためか、明確な処分は受けなかった。
しかし、学生時代の友だちも職場で仲のいい同僚も、あらゆる身近な人たちが去った。彼らが仲良くしたい相手は白一族の人脈や権力で、わたしという個人ではなかったのだ──とは思いたくないけれど、政治的なリスクが生じた人物と距離を取ることは、上流層の子女にとって当然の自己防衛策だ。
昔のわたしだって、同じ立場ならそうしたかもしれない。
■
ほどなく、わたしは従来の専門とはまったくの畑違いの日本に送られた。
配属先は駐日大使館総務部、庶務雑務科。仕事の内容はあらゆる些末な雑用と、駐日大使館の伝統的な懲罰任務である高翔平の監視だ。
もちろん、スパイ部門でもなんでもない部署がおこなう監視行為に、なんの意味もない。要人の訪日や党支部の会議といった、重要度の高い用事がある日はあっさり中止を命じられた。
本当はやらなくて構わない仕事なのだ。人体特異効能? 任務の開始から2年半、この単語を真面目な表情で口にする人を見たことがない。
だから、監視のレポートを何枚仕上げたところで上司は目も通さない。必死で日本語を習得しても、扱いは変わらなかった。
旧勢力の残党である白希冰は、飼い殺して朽ちるに任せるーー。それが党の考えなのだろう。
離職、または亡命。そんな選択肢も頭をよぎる。
大使館はわたしの政治的な処置に困っていて、「逃げてくれればありがたい」くらいに思っているから、それはたぶん可能である。でも、家族も友人もいない身で、どこに行くのか。なにより、党と国家を裏切れば、わたしという人間は完全に空っぽになってしまう。
中国共産党が存在しない世界で、人はどうやって生きればいいのか。
自分は学生時代、あんなにたくさん勉強したはずなのに。
そのことは誰も教えてくれなかった。
■
いっぽう、監視対象である翔平について。
わたしは彼に対して、最初の1年くらい口をきかなかった。
真冬の夜、飲み会中の居酒屋の店先で張り込んでいたら雪まみれになって、彼がタオルと傘を貸してくれたときも、無言で受け取った。次の日に洗って返したけれど、それでも何も喋らなかった。
やがて必要最低限のやりとりはするようになったものの、多くは話さないようにしていた。
理由は役割だ。無意味な任務だと知っていても、「監視者」というポジションは、現在の自分に残された唯一の役割だったのだ。
自己をあらためて客観視すれば──。
わたしは物心がついて以来、特定の役割をあたえられない状態で人と接することに慣れていない。なにものでもない白希冰、ただのアイスという存在は、他者との関係においてどう振る舞えばいいのか。よくわからないのだ。
つくづく、自分はいびつな人間だと思う。
でも、その殻をやぶろう。
孤独には慣れているけれど、好んでいるわけじゃない。大使館寮の部屋で一人で泣いたり、北京時代の職場のチャット履歴を延々と読み返したり、決して返信が来ない元友人たちにメッセージを送ったりする暮らしが、好ましいとは思えない。
ここ1ヶ月ほどは、徐々にそんなことを考えるようになっていた。
そして、翔平。
彼はわたしが人生ではじめて接した、こちらに何の役割も求めない他者だった。
利害も上下関係もまったくない。白家の名を聞いて「なんだそりゃ」で終わる中国人(正確には日本人なんだけど)は、驚くほど気が楽な存在だった。
──この人に、自分が他者と対等に会話をするための、人間活動の練習台になってもらえないか。
そう思った。
身勝手に決めてしまったものの、翔平なら許してくれそうな気がする。
すぐに従来のモードを崩すのは気まずいし、お酒の力を借りてみたら失敗するしで、なかなか上手くいかなかったけれど。でも、ちょっとだけ慣れてきたかな。
わたしがそんな一歩を踏み出した日に、彼は撃たれた。
■
2027年6月4日の12時過ぎ。
谷中霊園から出てきた翔平と合流した後で、なにを食べるか、という話になった。
彼がスマホで検索して出てきた案が、絶品で有名な上野駅前の湖南料理店(ガチ中華)と、不忍池の傍の垢抜けたオープンカフェだ。
本当は湖南料理が食べたかったけれど、中国人に会うのが嫌だった。
わたしは残念ながら(そう、「残念ながら」だと思うのだ)外見が他人の記憶に残りやすい。失脚した白錫来の縁者であることも公然の秘密だ。
大使館の同僚はもちろん、在日華僑団体その他の年配男性たちから、異性と二人で食事する姿を見られるといろいろ面倒なことになる。
それなら、おじさんが絶対に来ないおしゃれな場所を選んだほうがいいと思った。
「まあ、翔平もおじさんだけど。見た目が若いから大丈夫でしょ」
ちょっと口調を崩し過ぎただろうか。他人と普通に話すって、どうすればいいんだろう。もっとも翔平は「まー。おっさんらしく昼から鳥貴族でもいいんだけどな」と普段通りの反応だったけれど。
カフェは混雑しており、池が見える全面ガラス張りの壁からはすこし遠い席に座った。
スマホを見ると、電車や信号の復旧のめどはまだ立っていないらしい。
さっき、翔平が御徒町駅の電光掲示板に怒っていたので言わなかったけれど、1989年の政治風波(=天安門事件)を悪趣味なネタにする文化は、むしろ中国出身の若いアングラ系ネットユーザーのカルチャーに近い。彼らは中国国内ではかなり厳しく取り締まられたが、海外に拠点を移した者も多い。
イギリスの安全保障関連の論文で、そうした話を読んだことがある。
いっぽう、現在の東京で起きているサイバーインフラの混乱は、国家規模に近い組織による多層的なAdvanced Persistent Threat。──要するに、高度の技術を使って長期間にわたり準備された攻撃が強く疑われる。個人では不可能な手法であり、現地協力者も必要だ。
跳ねっ返りの中国人ハッカーたちを使いこなし、日本国内で協力者を獲得できるほどの、マネジメント能力と資金力を持つ存在とは。
彼らはおそらく中華系なので、ロシアや北朝鮮ではない。でも、中国政府の関与もあり得ない。台湾当局? やるわけがない。
このように推理すると、攻撃者の性質はそこそこ絞り込めて──。
■
「おい、なんにする?」
注文用のタブレット端末を差し出され、思考を中断した。わたしいま、怖い顔をしていなかっただろうか。
ごめんねと謝ってから、デリプレートランチを注文した。翔平は「がっつり食いたい」と、週替りスパイスカレー2種盛りに手ごねハンバーグをトッピングするらしく、つくづくこの人の健康意識が心配になる。
「おまえ、水ないじゃん。くんでくるよ」
翔平が立ち上がった。さっき、わたしは無意識にコップの水を飲み干していたらしい。この人は意外と気が利くのだ。
でも、こうした気遣いを受けるのは対等な人間関係だろうか。もしくは友人男女ならば普通にあり得るものか。
そんなことを、わたしはとりとめもなく考えていて──。
注文用タブレットの画面表示が、切り替わっていることに気づいた。
スマホの全画面用広告のようなけばけばしいレイアウトに、奇妙な文字列が表示されている。
♪6月4日は天安門の日♪ 【銃弾】大増量キャンペーン!!
メッセージに気づいたあなたにサバイバルチャンス!
こんどは空からやってくる!? 君はピンチを生き残れるか?
悪趣味だ。いい加減にしてほしい。だが、一笑にはふせない。
わたしたちはすでに、御徒町駅の事例を見ているのだ。この店舗の端末は確実に、正体不明の攻撃者にハックされている。
周囲を見回した。午後1時前で注文がすくないせいか、タブレットを見ている他の客は、遠い席にいる女の子ひとりだけ。しかし……これは。
わたしは再度、文面を注視した。日本語はできるつもりだけれど、中国人にとって見慣れないカタカナ単語は目が滑ってしまう。
サバイバルチャンス。ええと、英語スペルだと「Survival chance」。
え──?
■
ヴォォォォン……。
どこかでハチの羽音に似た音が聞こえた。
昨晩、神社で聞いた音だった。
顔を上げる。
窓の外。
池に突き出たバルコニーの手すりの上にネコ。
おかしい。昨日と今日、2度も見たネコだ。
ネコはぷいと空を見た。
そして、視線をふたたび店内に向け──。
また、笑ったように見えた。
「ほらよ、水」「……ん?」
立ち位置の関係から、ドローンには翔平が先に気がついた。
そこからはスローモーション映像のように思えた。
降り注ぐ銃弾でガラスがバリバリと割れ、左端の窓際の席から順番に、客たちが身体のあちこちを撃ち抜かれていった。マシンガンの乱射とは思えないほど命中精度が高く、人々は残らず倒れていく。
わたしは机の下に伏せようとした。
だが、さっきネコに気を取られたことで判断が遅れた。
間に合わない。
撃たれる。前を見た。
翔平が目の前で、両手でわたしを包むように立ちはだかっている。
だめ。
実際の声が出たかは覚えていない。
ただ、人体に銃弾が当たる嫌な音が何度も聞こえた。
彼は倒れ込みながらわたしを見た。
わずかに唇が動く。
日本語で「無事だ」「よかった」だった。
ばかだ。あなたは無事じゃないでしょう。
よいことなんて何もないじゃない。
やめてよ。
いなくなるの。
わたしなんかかばって。
やっと今日、普通に喋れたと思ったのに。
さみしい。
■
死の雨を降らせた黒い飛行物体は、弾を撃ち尽くすとどこかへ飛び去った。
わたしはぼろぼろ涙が出て、わけがわからなくなりながら何度も翔平の名前を呼んで、頬を軽く叩いた。
だが、考えてみると、このときから不思議だった。
銃弾は間違いなく何発も当たっていた。でも、この人はどこを撃たれたのだろう。
髪の毛が焼けた匂いがするのに、頭から血が出ていない。いや、全身が?
手を握る。
まだ温かくて、彼の体温を感じた。
そうだ。救急対応。
手首。脈拍。
──なにこれ。
「うう」
耳慣れた声が聞こえた。
そして、目が開いた。
呆然としているわたしの前で、翔平は「いてえな」と言いながら頭をすこし振り、ふうと大きく息を吐きながら右肘を床につけて上体を起こした。
首をそらせ、ちょっと回す。そしてあぐらに座りなおす。
「なにが、どうなったんだ」
知らないわよ。わたしがそう言いたいよ。
もはや自分でもよくわからない涙を流しながら、やっと「無事なんだあ」と声が出た。
待て。いつまでも泣いている場合じゃない。事態が異常すぎる。冷静になれ。なぜ、翔平は無事なのか。さっきのドローンは。襲撃者は。あのネコ。この現場の被害規模は。そうだ、中国大使館員のわたしがテロ現場に居合わせたことによる外交的リスクを想定すべきだ。いっぽう、翔平は無事に見えるとはいえ精密検査は。他に生きている人は。警察と消防への通報はどうする──。
考えるべきことが頭のなかで大量に渦を巻く。だめだ。自分の思考を整理しろ。重要な課題から順序立てて処理するべきだ。
ひとまずの優先順位は──。
「あの、すいません。おふたりとも、ご無事なんですか」
背後から中国語が聞こえた。
若い女性の声。柔らかく落ち着いた中音域、ややゆっくりした響きだ。
「そちらの男性。さっき、撃たれていませんでした?」
■
わたしは無意識に、しゃがんだまま翔平の身を隠すような態勢で振り返っていた。
20代前半? わたしよりも数歳年下か。
体型は痩せ型、身長はそう高くない。言葉からすると、おそらく中国人。
ただし、髪は肩にかかる内巻きのセミミディアム。抜け感のあるふわっとしたシアーシャツをティアードスカートに巧みに合わせていて、メイクは──。
つまり、この国のCanCamあたりのファッションサイトで紹介される、かわいい女子の初夏の休日コーデを100%完全に再現していた。わたしは着ないけれど、日本人からは評判がいいだろうな。場違いな考えが一瞬浮かんだ。
声や顔立ちは安心感を感じさせた。
脅威はなさそうに、見える。
しかし、奇妙だった。
この事件現場で会話が可能な──。ほぼ無傷の人間は、私たちを除けば彼女だけだ。
ホール内が銃撃でめちゃくちゃなのに、服には血も、飛び散ったコーヒーや食べ物のシミもまったくついていない。なにより感情の動揺がみられない。穏やかな表情は、現在の事態の前では不似合いだ。
「……ああ、そういうことですね」
彼女が口を開いた。
「高志軍と田燕芳。この名前、わかりますか?」
わたしは翔平の顔を見た。
驚愕と疑念と、わずかな畏れ。
きっと、彼から見た自分も同じ表情をしている。
高志軍。田燕芳。
それは1989年6月4日に亡くなった夫婦だ。
──翔平の両親である。