【第二十九章】2027年10月3日 普通の子(アイスの物語)
呼吸を整える。
イメージしよう。
うなりしなる孟宗竹。流れる水。
外の雨音。
「哈!」
高鞭腿。しっかり身体をコントロールできた気がする。これは上手に決まっ──。
「はいダメー」
日本語で言われた。なんで。
「今日の白さんは怒りで蹴ってるね。よくない。力任せになるからケガしやすい」
確かにその通りだ。
「むかし、私が仕事で人を殺したときは無になったもんだよ。怒りも憐れみも技の敵だ。なにより、意思を持って人を殺めると、あとで気持ちがしんどい」
この話は日本人には内緒だから、中国語で言っとくがね。
先生がそう言い添えた。
わたしの隣で、日本人の若い女の子がひとり、型の練習をしているのだ。
──マー先生の戦えるフィットネス。
千代田線、根津駅徒歩6分。
マー先生。本名、馬石雲先生が経営する女性専用フィットネスジムだ。
■
わたしがここに通いはじめたのは、8月中旬である。
つまり、新中華界域から戻って半月後だ。
もともと、わたしは大使館宿舎がある広尾のエブリタイムフィットネスの常連だった。しかし、最近なんと上司の宋科長がそこの会員になった。界域で派手に遊びすぎ、医師からメタボで怒られたらしい。
そしてある夜、トレーニング中に宋科長と出くわした。白のだるだるのランニングシャツと、中国のスーパーで20元くらいで買ったらしき紫色のショートパンツ姿だ。しかもサイズが合っていない。
いっぽう、この日のわたしは運悪く──。薄着。つまり、黒のNIKEのスポーツビキニとレギンスを着ていた。
彼はじろじろとわたしを見てから言った。
「おおー、白ゥ。お前もうちょっと牛乳飲めよォォ」
最悪。余計なお世話だ。気持ち悪い。しかも変な臭いがする。ほんと無理。最低。
広尾店はもう駄目だ。なので別の店舗に通う手もあったが、これを機会にジムを変えた。
せっかくなので、散打を習おう。前回の逃亡劇みたいなことは2度とやりたくないが、人生なにが起きるかわからない。もともと基礎はあるのだ。せっかく運動をするなら、復習しておきたい。
というわけで、大使館宿舎と翔平の家の中間地点にあるここを選んだ。
宋科長の牛乳発言は軽くトラウマだ。以来、わたしは暑くても長袖のウェアを選んでいる。
護身術と痴漢撃退にも役立つ散打式ジム。マー先生の戦えるフィットネス。
先生は山東省平原県出身。大昔、中国武装警察の武術散打突撃隊に所属していた人である。
1990年ごろに香港経由で日本に渡航し、そのまま定住した。さきほどの物騒な話は、往年の任務内容が理由らしい。
マー先生は、わたしが白一泉の縁者らしいと気づいても何もおっしゃらない。ありがたい方だ。
ただ、秘密はおたがいさまなのか。たまに過去の武警時代の怖い話を、中国語でぼそっとつぶやく。
この温厚な先生が、任務で人を殺さなくてはいけなかったのだ。公務員はしんどい仕事である。わたしもいちおう、その端くれなのだが。
「はい、もう1回。ちゃんと集中」
難しいな。
今日の昼食中、翔平とはじめて大ゲンカしたからだ。
自分は当然だと思うことが、彼にはとてもイヤだったらしい。「ずっと我慢してたけどよ」と言われたが、それならもっと早く言ってよ。なんでも話してくれたらいいのに。
腹が立ってしまい、午後はいっしょに過ごすのをやめて、急遽ジムの予約を入れたのである。
しかし。
考えだすと不安になってきた。もしかして、他にも不満を持たれていたら? どうしよう。ここ2ヶ月、自分は毎日すごく満足していて幸せだったのだが、まさか彼はなにかを我慢していたのか? かわいそうだ。
これは誰に相談したらいいんだろう。
謝雨萌に聞くのは危険な香りがする。でも、李姐だと不倫のトラウマスイッチが入って──。
「はい。今日の白さんは蹴るの中止。これから1000回蹴ってもろくなことにならんから」
すいません。
■
「あの……。お水飲みます?」
ストレッチを終えてから休憩していると、さっき隣にいた女の子に声をかけられた。手にウォーターサーバーで淹れた紙コップを持っている。お礼を言い、手に取った。
顔見知りだ。マー先生がゆずちゃんと呼んでいる子。上智大学の1年生。
身長は158センチくらいで、ワンカールボブのミディアムヘア。パーカーやTシャツも似合いそうな、活発なイメージの子だ。中学時代からバスケをやっていたらしく、太ももがよく引き締まっている。
彼女が散打をはじめたのは3か月前だ。日本では背の低い子がよく痴漢に遭うので、その対策。わたしがあまりそういう経験がないのは、身長や雰囲気のせいだろうか。翔平から、数ヶ月前までのわたしはすごく怖かったと聞いたことがある。
そうか、今日もわたしは彼に怖い顔をしていて──。いや、いまそれはいい。
「白さん、今日はあんまり元気ないですよね。大丈夫ですか?」
心配して話しかけてくれたのか。いい子なのだ。
呼び名はアイスでいいですよ、とゆずちゃんに伝えた。
「アイスさん、型がすごくきれいですけど、前にもやってたんですか?」
「高校までです。でも、その割にはぜんぜんで──」
よく考えてみると、この年頃の日本人と話をした経験はあまりない。わたしは3年も日本にいるが、中国大使館員が接する日本人はおじさんばかりなのだ。
そうだ。思いついた。
「すいません、ゆずさん。あなたは彼氏がいたことがありますか?」
「過去に3人。いまはいないですけど、なんでです?」
欲しかった答えである。
──日本人の普通の子。
中国となんの関係もない、元気でかわいくてモテそうな女の子。
彼女に聞くしかない。今日のわたしは翔平に対していかなる問題があったのか。
マー先生にお礼を言って、彼女といっしょにジムを出た。
■
「ええええええ! ちょっと! どこから突っ込めばいいんですか!?」
30分後。不忍通りから1本入った路地にある古民家系のおしゃれなカフェで、ゆずちゃんにいきなり驚かれた。
ある程度は事情を伏せたうえ、今日のケンカの原因であるお小遣い帳の話と、その理由であるプレゼント代や婚約指輪の話をしたのだ。
「すべてがダメですよ! なに考えてるんですか!」
やはり日本人の感覚では正しくないのか。なぜだ。
「女の子がイベント前にプレゼントをそれっぽいヒントで匂わせた後、彼氏がぴったり察してくれたときの幸せ感が超最高なんですよ! そのチャンスをなんでわざわざ捨てるんですか⁉︎」
え、そういうもの?
「お小遣い帳の話もですけど。それって中国の人だと普通なんですか??」
「うん。わたしの感覚だと」
ふつう。
の、つもり。
「いや、彼氏がよく言うこと聞きましたよね。写真見せてもらえます? ……えっ、カッコいい!? いくつですかこの人!」
「……30さい、くらい?」
すこし小声になった。
「見た目はめっちゃお似合いですけど。果たしてどういう事情で付き合って……」
「いや、あのね」
その後、界域や大使館のことは伏せつつ彼女の質問ラッシュに応じた。ゆずちゃんは目を丸くし続けた。
えっ。アイスさんこれまで彼氏いなかったんですか? デート経験もゼロ? 過去に男友達もゼロ? その見た目でどんな人生を歩むとそんなことに? えええ、交際1日目に指輪の値段と資産投資の話? キスしてない? っていうかキス拒否? あと1年はやめときたい?
えっえっえっ。うそお!
驚きを突きつけられ続け、わたしは戸惑った。なんでだ。
ゆずちゃんに最初の彼氏ができたのは中2の春らしい。
初キスはその夏の荒川花火大会。
彼女が通っていたのは女子学園中学・高校。通称JGという。李姐の娘の可心ちゃんが目指しているから、かなりの名門校のはずだ。
……えっえっえっ。うそお!
そう言いたいのはわたしのほうだ。良いところの学校の子が、わたしの半分くらいの年齢で恋愛をするのか。ドラマや漫画じゃなく現実で? 日本はなにかおかしい。
中国の場合、早恋(高校生以下の恋愛)は不良行為だ。学業に差し障りがあるからと、早恋が発覚した場合は先生と保護者にものすごく怒られる。
時期や事情によっては、先生から反省文を書かされたうえ、校庭をランニングさせられて全校生徒の晒し者に。
「晒し者に!」
いや、それは今日の本題から外れるからいいんだけれど。
さておき、ゆずちゃんの話を聞いてショックだった。
わたしはよかれと思って考えたのに。どうやら、翔平に対してとても気の毒なことをしていたらしい。
しかし、それならば。日本人の一般的な26歳女性が彼氏と付き合いはじめた時期って、彼女らは恋人にどう接しているのか?
「うまくいってる人たちだったら、すごくいちゃいちゃしてると思いますよ」
そうなのか。よかった。
恥ずかしいが、わたしもそうしている。映画の好きなシーンを参考に。
「いや、たぶんアイスさんが想定するレベルとはかなりの開きが」
……困ったな。
日本は怖い国だ。価値観が自由すぎる。
わたしにはしんどい。
これは翔平に相談してもいい問題だろうか。
■
「でも、中国人の女の子って本当にみんなアイスさんみたいなんですか? 大学の友だちの留学生の子たちは、もっと普通に恋愛してるんですが」
「そうかもしれないけど、ただ……」
自分の学生時代の「学友」たちは、わたしみたいな感覚の子が多かったのだ。そもそも映画や芸能人の話題を除いて、現実の恋愛の話なんかほとんどしたことがない。
キャンパスでカップルを見ても、「あれは違う人たち」みたいに考える暗黙の了解があった。
「とにかく、周囲はみんなそうだった」
「まじですか! 全員が??」
はい。そうなんです。
……いや?
本当にそうだったのか?
いまから思えば。
不思議だったことはある。
大学以降、学友のなかでボーイフレンドができた子が何人かいた。ただ、そうした子たちはいつの間にかわたしと距離を置き、別の誰かが身近にいるようになった。
彼女らがいなくなるタイミングは決まっていた。男友達を紹介しますとか、彼氏とみんなで食事に行きませんか、とわたしを誘った直後だ。
ボーイフレンドができると、消える学友。
ひょっとして。
党や一族の意向を受けた誰かが、わたしの身辺からそうした子を故意に遠ざけさせた可能性は?
自分の考えすぎだろうか。しかし、たとえばチャガンやその部下たちみたいな考えの人々が、わたしの学友を選定していたとすれば。
……ありうる。
わたしに男女関係の知識がついたり、悪い虫がついたりしないために。
彼らがそこまでやる目的も想像できる。
孤児になっていた一族の娘を、徹底的にケガレを排した純潔な少女として育成するためだ。
長年そうやって作り上げた無垢な女は、やがて別の党高官の家庭に嫁がせるときに、最高級の贈与に化ける。わたしの亡くなった両親は容姿のよい人たちだったので、その娘の投資期待値は高いと見込めたはずだ。
結果、夫になった人間とその父親である党高官は、家名を保ち大いに面目をほどこす。これは数千万元の利権を譲るよりも、はるかに合法的で効果的な賄賂として機能する。
それらはすべて、党政治委員であるおじさまの政略カードとなって──。
身震いしたくなった。単なる想像では片付けられない。
おそらく、恋愛や性に対するわたしの異常な無知や潔癖性は、党体制と一族のもとで人工的に作られている。
■
アイスさん、と声をかけられた。
ぼうっとしていたことをゆずちゃんに謝った。
やはり自分は、常軌を逸した育ち方をしている。
わたしは、普通に好きになった男性と恋愛できた(つまり翔平と付き合った)時点で、すでに従来の人生を克服できたと感じていた。
わたしはもう普通の子なんだ。人間として生きている。
過去2ヶ月、そんな気持ちでいたつもりだった。
だが、違った。
自分が到達するべきゴールは「彼氏ができる」という場所より、もっと先に存在しているようなのだ。たぶん、まだかなり道のりが長い。
翔平に最後までついてきてもらえるのだろうか? こんな、変な女に。
「ゆずちゃん、あのね」
わたしは言った。
「詳しくは言えないけれど、わたし、実家が中国のかなり大きな名家なの。たぶんそれで感覚がズレてるんだと思う」
「あー。そんな感じしますよ。大丈夫です。実はわたしの実家もわりとそうなんで。けっこう大きな会社の創業者一族なんです」
驚いた。日本ではそういう家の子でも、街の普通のジムに通うのか。
彼女のひいおじいさまは、ソフィア電子の創業者だった。かつて全世界の携帯音楽プレーヤーの王者だったウォルクマン。それを開発した、日本の有名な大企業である。
……え? それって。
「ゆずちゃん、名字は?」
「井村です。言ってませんでしたっけ?」
井村ゆず。
ソフィア電子の創業者、井村臣之介の曾孫。
つまり、わたしたちが界域で渡されたノートのPDFファイルに登場した、人体特異効能研究所の「井村所長」ご本人の親族。
井村臣之介は、2006年に亡くなっているが。翔平の両親を直接知っていた人物だ。
「ひいおじいさまのことについて、詳しいご家族はいらっしゃる?」
「おばあちゃん……。ですかね。おじいちゃんもわりと早くに亡くなったんです。でも、どうしてですか?」
わたしは慌てて、彼女にことわってから翔平に電話を掛けた。
■
「すげえな。井村所長の遺族にアポ入れるかは悩んでたんだ。大企業の創業者一族なんか、いきなり連絡しても会えるか微妙だなと思っててよ」
同夜。北京亭。
わたしは翔平と2人で、自分が作ってみた乾煸四季豆(インゲンのニンニク炒め)をおかずに夕食を食べていた。
わたしはひとつ料理を覚えたのだ。ちょっと手伝ってもらったし、付け合せのスープと麻婆豆腐は彼が作ってくれたのだが。
四季豆は「なかなかおいしい」と言ってもらえた。一歩前進である。
「ゆずちゃん、いい子だったよ。来週の土曜なら自宅で会えるって」
「ありがとう。よかった。あのノート、読んでも結局わからない部分が多かったからな」
翔平がそう言って、ビールに口をつけた。
高大師IPA。わたしがアメ横の外国酒専門店で買ってきた、南京のちょっといいクラフトビールだ。
意味が伝わったらしく、彼の機嫌はとっくに直っている。高はこの人の中国姓だ。
「……ねえ、翔平。ところで」
「なんだ」
昼間の問題についても一歩前進しよう。
「お小遣い帳やめよう」
「え? いいのか」
「あと、指輪とかプレゼントの件も、なにも決めない。ええと、なんかそういう日だなと思ったときに、それぞれの財布から相手に贈りたいものを買おう」
とりあえず例の4124万円は封印する。投資の件は方法が見つかったら考えたらいいけれど、それはそのときに相談だ。
「あと……」
今日はさらに勇気を出す。26歳の普通の女の子なら、彼氏と普通にすぐ。
ゆずちゃんはそう言っていた。
日本では、中2の女の子が花火大会の帰りにやることだ。
「なんだ」
「あの、ええとね」
──言いかけて思った。
本日の料理。乾煸四季豆。
インゲンのニンニク炒め。
「あ、いや、なんでもないです」
次回以降の課題にしよう。今日のインゲンはとてもおいしいからだ。




