【第二十八章】2027年10月3日 ジャイアントパンダ(翔平の物語)
目の前に粉末がある。
液体を振りかけ、粘土のようにこねて団子を作る。
食べる。素朴な味がうまい。
チベット人の常食、ツァンパだ。
「……なんで日曜の午後に、ずっと私の部屋でツァンパこねてるんです?」
目の前の大仏さまがあきれながら言う。
仁間班禅。独立リーグ野球選手。チベットのえらい坊さんの転生者。
今日は雨で試合が休みだ。
「まさか、アイスさんとケンカ」
おう。そのまさかだよ、ちくしょう。
「理由をおうかがいしてよいですか」
「お小遣い帳」
「はい?」
■
──話は2ヶ月前にさかのぼる。
アイスは新中華界域で2億5500万円相当の仮想通貨を押し付けられた。
そのほか、おれたちが逃亡時に購入した貴金属も、多少は使ったとはいえ4300万円分以上。仮にこれらを未申告で日本に持ちこむと、巨額のマネーロンダリング事件になる。
マネロンは中国共産党員の失脚理由の定番だ。党内規律検査委員会にバレれば、リアルで新疆の収容所行き。界域の臧獄龍みたいなやつがアップをして待っている。
おれたちはバンコク市内のホテルで、ネットとAIで解決方法を調べまくった。
結果、仮想通貨は日本で一切手をつけずに所有しているだけなら、グレーだがたぶんセーフっぽいことがわかった。ただし問題は貴金属だ。
アイスは外交官なので、実は普通に税関をスルーできる可能性が高い。だが、彼女の倫理感覚として、外交官身分を利用した貴金属の密輸なんか絶対に容認できない。
とはいえ、真面目に申告すると700万円くらいの税金が──。おい、高すぎだろうが。
アイスも謝雨萌も、日本円の貯金は知れている。おれはブラック労働20年間の貯えをはたけば払えるが、巨額の税金のために定期預金や国民年金基金を解約すんのか? 面倒だし心理的抵抗感が大きい。
……協議がさんざんに紛糾したのち、わが中華社会にありがちな資産移動スキームをおれが個人的に実行することになった。アイスはむくれて3時間くらい口をきいてくれなかったが、他に方法がないから仕方ない。
やりかたはこうだ。
まず、貴金属をバンコクで現金化する。で、古美術商で中国の書法作品、つまり高額なお習字を買う。それを現地の新聞紙で巻く。仮に税関でカバンを開けられても、「土産物屋で500バーツで買いました」と言い抜ける。日本に入国後、都内の古美術商のところでお習字を売って現金に戻し──。
もっとも、たとえ本来は自分のカネでも、アイスはそんな怪しい金銭は絶対に手元で持ちたがらない。
なので、結果的に北京亭の売上金の金庫に、諸経費をさっ引いた4124万円が眠ることになった。さすがに全額密輸は良心がとがめたので、謝雨萌に50万円分くらいだけ真面目に税関申告してもらい、おれがかわりに納税しておいたが。
そして帰国翌日。
おれとアイスは、晴れて正式にお付き合いすることになった。
しかし。
「あれは褒められた方法で得たお金じゃないでしょう。派手に手を付けちゃ絶対に駄目。気が大きくなってライフスタイルを変えても駄目。安全な方法が見つかり次第、将来のために適切な投資を通じた資産運用を検討し」
交際1日目のカップルの会話じゃねえ。
彼女は界域で限界スレスレまで精神を消耗していたはずだが、それを忘れて論じだすほど判断の優先度が高い問題らしい。
アイスはお育ちがお育ちである。
自分にいきなり3億円の資産が増えてもまったく動じない。人格も全然ブレない。中国共産党のお姫さまってすげえな。
──やがて、この鉄壁の財務大臣により示された、わが家の現金4124万円に対する骨太の方針。
・金額は月に3万円まで。2人のために使うこと。
・レシートを保存し、スマホの共有お小遣い帳アプリに画像アップロードのうえ、すべて金額を1円単位まで記入のこと。
・旅行などで足が出た場合は別途相談に応じる。
・お互いの誕生日ほか、クリスマス、バレンタインデー、520、七夕節、その他特別な日については、今後2年間のプレゼント用支出枠を早期に策定する(注.中国で5月20日と旧暦七夕はカップルの日)。
・プロポーズは暫定的に2年後のわたしの誕生日を想定する。婚約指輪および結婚指輪の金額については可及的速やかに協議し確定すべし。
・以上の残額について、安全な資産運用の方法としては……。
■
「……ものすごくアイスさんですねえ」
ヤクルトスワローズのチームカレンダーを背に、仁間が言った。
こいつは能力覚醒前に相当遊んでいたので、恋愛偏差値は高い。
「もとは白一族の家臣のカネだから、ムダ遣いせず2人のためにって考えに異論はない。おれが私用で使い込むとかも絶対にあり得ない」
「正しい心がけです」
「でも、お小遣い帳はしんどいんだよ。男はレシートとか、何も考えずにガム包んで捨てるじゃん? 記入は財布パンパンになってからガーってやるじゃん? 断じて悪気はないんだが」
「翔平さんがダメじゃないですか」
「まあそうだが、あいつの考えにも若干の問題がある。元は女側から出てるカネでメシおごったフリするのは、男の面子が立たんだろ。しかも、プレゼントどころか婚約指輪の金額まで速攻で事前決定って、激しく冷めないか。しかも付き合った初日に」
「社会主義女子だけに、恋愛発展愛情建設5か年計画(第一期)とかを策定しないと不安になるタイプの子なんです。たぶん」
仁間の冗談があながち笑えない。
というわけで、本日の昼食時に事態が紛糾した。
直接の理由としては、おれがレシートをなくしたことで、お小遣い帳に未記載のウラ金が3000円くらい積み上がったのだ。
そこで提出済みのレシートを精査された結果、おれがファミマでスポーツ新聞150円分を私的流用していた問題が判明した。無意識に一緒に会計していたのだ。
結果、アイスから生活作風を改めなさいと叱られた。対して、おれは党員じゃねえぞと口答えをしたので、以下略。
「最強の人体特異効能者と界域の女王のカップルが、なんで3000円でケンカしてるんですか」
「知らねえよ。マジでおれが聞きてえ」
おれはツァンパをまたこねた。
■
「しかし、あんなにかわいい子ですから多少の問題には我慢を」
「もっと深刻な問題もあんだよ」
あいつは共産貴族の名門、紅二代白家の本物の箱入りである。
従来の人生で、「恋愛をする」という行動を、自分も周囲も一切想定していなかった社会階層の人間なのだ。
「ということは、まさか。いい大人が付き合って2ヶ月も経って」
「うん。キスもしてない」
「……でも、普段の2人はいつも手をつないでますし。年齢を考慮すれば傍目にバカップル寄りに見えることも」
ありがたい活仏のセリフかこれは。
さておきだ。
おれとアイスは確かに、外出時はいつも手をつないでいる。形式的にはまだ存在する監視任務を口実に、ほぼ毎日会ってもいる。しかも朝夕。
おれがフリーランス業務で客先常駐する時も、帰りに会社の前で出待ちしている。美人の彼女すぎて向こうの会社の人がビビっている。
しかしだ。
2人だけで多少マジっぽい雰囲気になると、あいつはこれから切腹する侍みたいな顔をするのである。もしくは、ワン・コーコーの国境前で自分の左胸に拳銃をつきつけた時の顔だ。あれはおれ自身も非常にしんどい記憶なので、先に進めん。
一例を挙げよう。
「朝に台所でいきなり首筋にぎゅーっと抱きついてくる。そして、耳元に甘い吐息混じりでフランス語を囁く」
「坊主にノロケですか」
「で、唇で耳を噛んだり頬をすりつけたりして『んー』とか言いながら一方的に甘える」
「キスよりもえっちですそれは」
「なのに、おれのスイッチが入ったら凍りついて自害の秒読みを開始する」
「男には拷問だ」
「なお、普段の彼女は『好き』は絶対に言わない。会話のモードも付き合う前と大きく変わらん」
「恥ずかしいんですかね」
だからおれ、あいつが朝に口走る言葉を耳コピして、あとでこっそりChatGPTに話しかけてみたのだ。その内容。
“Tu es mon préféré au monde.”(世界でいちばん、超大好き♡)
”Je suis toute à toi, mon chéri.”(わたしのすべてをさしあげます、あなた)
おいマジか!
中国人なんだから中国語使えよ! おねがい。
っていうか、2番目にサラッとものすごいこと言ってないか??
──ともかく。これが中国共産党紅二代彼女の生態だ。
3億円にビビらないのに3000円に怒り、付き合う初日に婚約指輪の購入日を決めて残額の資産運用を検討し、フランス語で熱烈に愛を囁きながらキスっぽい雰囲気だけで自害しかける女。
意味不明すぎる生き物。
「うーむ。感想を忌憚なく申しますと」
仁間が壁のヒップホッパーのポスターを眺めて言った。
「繁殖を学んでない動物園のジャイアントパンダが、気になる異性の個体に必死でペタペタ接してる感じ」
それだ。南紀白浜アドベンチャーワールドの係の人を呼んでこい。
しかし仁間、おまえ。
言ってることは全部その通りだけど、えらい坊さんのオーラがもはやゼロだぞ。
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「……ですな。だいぶん徳が下がったので真面目な話をせねばなりません」
ああ、おれもそのほうがいい。
「わたしも最近、自分の能力を高めようと努力しているのです」
仁間がそう言うのは理由がある。
おれたちの界域行きの際、仁間は日本で留守番だった。だが、第六感でおれの危険を察し、何度か事前に警告を試みていたのだ。
──夢枕に立つ。
人間離れした手法だが、チベットの活仏にはできる。
「しかし、自分の力不足で果たせなかったのですよ」
ジャマーのような強い精神波に圧倒され、意識の一部しか送れなかった。おれが界域で見た、サカイさんやアイスが仁間に変わる悪夢。正体は彼の警告通信だったのだ。
「それで確信したのです。おそらく、王昊天は翔平さんの近くにいた。……しかも、彼の魂が強化されており、同属性の私の精神を退けた」
場所は界域だ。親玉のあいつが、たまたま近所にいても変じゃない。しかし、強化ってなんだ。
「前回のオフシーズン、私は王昊天の能力を観測しに行ったことがあるのです」
今年1月下旬。仁間は界域と地理的に近い中国雲南省に渡航し、感知を試みていたのだ。
「現在の私の力が、先代のパンジュン・ラマ10世の4割程度とすれば、王昊天の力は2割程度。そんな印象でした。理由は魂のありかたです」
活仏が適切な形で転生するとき、前世の精神は転生先の魂にスムーズに継承される。新旧の魂はきれいに混ざり、ひとつの人格として統合される。仁間の場合はそうである。
だが、転生の経緯が強引だと、継承がうまくいかない。
転生先の本来の魂は、前世の魂と溶け切らず、コーヒーの底に沈んだザラメ砂糖みたいに残存する。
「しかし……」
仁間が中空に目を漂わせた。
「現在の王昊天の力は私と同等。もしくは多少、凌駕しています。今年のどこかで、彼は魂の統合に成功したようなのです」
王昊天に完全に吸収されたらしき、あわれな人格の名前。
──欧思遠。
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欧思遠は、現在の王昊天(転生後)の戸籍上の本名でもある。
「党内向けの機密データベースからさえ削除されていました。帰国出張時に北京で紙資料を調べ続けて、やっと明らかになったのです」
謝雨萌のサークル仲間、国家安全部の腐女子の陳さんの話である。
国安は中国人民14億人のあらゆる情報にアクセスが可能な、最強の情報機関だ。おれたちは謝雨萌を介して、陳さんに調査を頼んでいた。前世の王昊天の調査は難航しているらしく、まず時代が近い現世の情報からもらったのである。
欧思遠は1989年9月4日、中国湖南省長沙市で生まれている。
父親は国防科技大学で国際法を教える著名な大学教授。軍籍を持つにもかかわらず、平和主義者の改革派知識人として知られた人だった。母親も軍医畑。インテリ家庭である。
ちなみに、「欧」という姓は中国でけっこう珍しい。もとは「欧陽」とか「欧侯」みたいな2字姓の一族が、縮めて名乗っているケースも多いようだ。
欧思遠は5歳のとき、近所の市場で誘拐被害に遭いかけ、犯人の目にハサミを突き刺して助かっている。他にも小学校の同級生に変死者がいたり、近隣で住民の爆発死亡事故が起きていたりと、幼少期に不審なニュースが目立つ。当時の教師の評価も、知力は高いがかわいげを一切感じない子、というものだ。
だが、彼は初中時代からリーダーシップを発揮しはじめ、教師にも気に入られるようになった。人望は厚く成績良好で、なかでも古典・体育・政治(党教育)科目は全校でトップクラス。ストイックに努力する性格で、共産主義青年団活動や校内の軍事訓練活動にも極めて積極的だった。
ただ、中国の体制が比較的自由だった当時としては、思想が「左」(毛沢東思想)すぎる点が教師から不審がられていたらしい。彼の父親はリベラルな知識人だったのに、だ。
ほかに教師による特記事項。毎年6月中旬、精神が極度に不安定になり、辻褄の合わない言動をする傾向あり。この時期の共青団行事参加は本人が避けがち。
彼はやがて北京の軍事院校に進学し、人民解放軍の士官教育を受けて中国共産党に入党した。
その後は陸軍特殊部隊に配属され、中国軍部が国際法を無視しておこなっていたミャンマー・シャン州極秘進駐ミッションに参加。現地の武装ゲリラの掃討で凄まじい戦績を上げ、特例として中国主席から直々に表彰を受け──。
「やがて2016年2月、駐屯部隊の大隊長として石油やウランの鉱山を発見。翌年に中国政府の後押しを受ける形で、軍を退官して新中華界域の特区代表に就任。『王昊天』を名乗り、わずか11年で最強のサイバー軍事経済軍閥を作り上げた」
おれは手元の陳さんメモを読み上げた。
仁間がため息をついて手を合わせる。
「彼の両親は2017年12月、息子からプレゼントされたIoTスマート家電が事故を起こし、自宅室内に一酸化炭素が充満したことで死亡しています。王昊天が界域の権力を握った直後ですから、おそらくサイバー手段で口封じをしたんでしょう」
大学入学まで育ててくれた血縁上の親を、平気でむごたらしく殺すのか。
おれも仁間も、養父母に育てられた子だ。とことん胸糞が悪くなる。
■
「それで、王昊天がもっと強くなったわけなんだろ?」
こんなやつが両親の仇で、おれやアイスをもてあそんだ連中の親玉なのだ。
「対抗できないかと思い、わたしも多少は力を高めてみたのです」
「ひょっとして王昊天を呪い殺す……。とか?」
「呪殺や性瑜伽(性愛ヨーガ)は知っていますが、実践は禁忌です。自分が完全体の状態で祈りまくれば成功できますけど。やってしまうと、次は転生できなくなります」
やべえ。いちおうは呪殺の方法知ってんのかよ。っていうか性愛ヨーガってなんだ。すごくやばそうな響きだが。
「私が今回、身につけたのは転生の応用なのです」
仁間は無視して話を続けてしまった。
──転魂法。
彼がこの夏、ちょこっと修行して取り戻した能力だ。
自分自身や思い入れの深い人の過去の時間に、魂を数日だけ飛ばす。で、借り物として生きさせてもらう。
王昊天が体験してきた、不十分な転生状態の超ショートバージョンだ。
「しかし、自分で試してみたのですが、いまいちなのです」
借り物の人生のなかで、自分の魂はその借り主のように動くことができる。だが。
「歴史を改変できないんですよ。1970年代の大阪に100回くらい転魂したのですが。何度トライしても野村監督が南海球団フロントと衝突してクビになります」
野球マニアしか理解できんことを言うな。
ちなみに仁間はチベットにも80回ほど転生したが、国の運命は変わらなかったという。野村監督を救おうとした回数のほうが多いぞ。いいのかそれで。
「よかったことは、沙知代夫人の真の魅力を理解できたくらいで。逆に2度と見たくないチベット亡国の現場を何度も見るハメになりました。現時点では使いどころが微妙です」
メリットが野村沙知代しかない新能力。
過去で王昊天を暗殺するみたいなことも、当然無理。
これはどうにも使えない──。
あ。ちょっと待て。
スマホが振動してる。
「……あ。もしもし? さっきはごめん。おれが悪かった」
目の前で仁間がニヤけた。
電話先が誰かを察しているのだ。
おれがとりあえず謝ったのを見て、声を殺してムフフと笑っている。この坊主うぜえ。
「うん。わたしもさっきはごめんなさい。また話し合おうね。それより」
アイスが普通の声で言った。
用事があって掛けてきたようだ。口調が真剣である。
続く言葉を聞き、おれは「まじかよ」とつぶやいた。
彼女はこう言ったのだ。
「井村所長の遺族と会った」
井村臣之介。
つまり、1989年の人体特異効能の研究所の所長だ。




