【第二十七章】2027年8月1日 界域官僚操作術(翔平の物語)
「吸うかい? コイーバのプレジデンタル・エディション。かのフィデロ・カストロの愛飲品だ」
上昇を終えたeVTOL機内で、レックスから無造作に超高級葉巻を突き出された。
本音では誘惑を感じるが、断る。
贈与の受容は服従だ。最近、アイスの前では禁煙したのも理由だが。
運転席のレックスが火を点けた。
おそろしく芳醇で上品な香りが漂ってきた。
後ろの座席で、謝雨萌の隣に座るノイナーが静かに窓を開け、無言で首をかしげている。彼女は煙が苦手らしい。
「タチレクまでは一直線に飛べば20分。ただ、せっかくだからラオスの金三角経済特区が見えるルートにした。あちらも界域の飛び地みたいなものだからね」
一帯一路政策で作られた中国系経済特区だ。ここ15年、中国政府は世界各地に中国国内とそっくりな街をいくつも建設してきた。その多くは現在、実質的に新中華界域の支配下にある。
窓の下には、茶色い水をたたえたメコン川が、山地を切り裂くようにして南に流れていた。
「いい眺めだろ? タカダ。いまから彼女にプロポーズするなら、目をつむって耳をふさいでおいてやるぜ」
おれは彼の言葉を無視し、無言で運転席をにらんでいた。
1本のスティックと最小限の物理スイッチ以外、タッチパネルがひとつあるだけだ。レックスはスティックから完全に手を離し、上半身をひねってこちらを向いている。上昇時以外はほぼ自動運転らしい。
「……ノイナーの紹介がてら、世間話をしよう。僕は5歳のときから、多少の精神疾患があってね。彼女は僕のセラピストみたいな立場だ。もっとも、疾患は先々月にひょんなことで完治した。いまは100%、僕は自分の心を整えられている」
レックスがそう言って笑いかけた。
親愛の情にあふれた表情に見えた。
だが、こいつはすくなくとも、完全な善意の味方じゃない。
チャガンに平気で軽口をきき、ノイナーとかいう界域のナンバー5を当然のように同乗させるやつなのだ。
■
「ほんとうに、わたしたちを出国させる気なの?」
アイスが振り返り、背後のノイナーに尋ねた。
例によって首をかしげられた。当然のことを聞くなということか。
「なぜ」
「王昊天総司令が許可なさいました」
「どういうこと?」
「順を追ってお話します」
ノイナーは表情を一切動かさない。
声は鈴みたいに小さく、抑揚もまったくない。
お人形が喋っているみたいだ。いや、AIの会話音声のほうが、まだしも人間らしい話し方をするんじゃないか。
「……新中華界域には、幹部と行政職員全員が共有する義務と目標が3つあります。ひとつ、王総司令への服従と忠誠。ふたつ、中華の民のユートピアの建設。みっつ、それらの手段としての、中国共産党の真の理想の実現」
無口なやつだと思ったが、話すべき内容があるときは話すらしい。
「3つの基本路線のうえで、王総司令をのぞく新七常委。つまり残る6人の最高幹部には、各人が理想とする『中国の夢』の追求が認められています。すなわち」
チャガンは白家の復興。
シーラは中華テック千年帝国の建設。
ノイナーは儒教社会の実現。
ライはシンガポール以上に完璧な経済国家の建設。
廬凱はアフリカ中華民族の確立と拡大。
耶律叔珍は、西側倫理に拘束されない医療の実現。
「各人の理想について、他の幹部は一定の協力関係を保つ。一種の同志関係です」
逆に言えば、彼らに基本路線以外の意思統一はない。他人の理想に対する関心もない。会議はほぼリモートなので、幹部同士の人間関係も深くないことが多い。
そして、界域政府は中国人の官僚社会だ。
侵官之害。つまり君主に与えられた職務権限を逸脱し、他部署の業務範囲に影響をおよぼす越権行為は激しく嫌われる。
仮に自分の支配領域が他の幹部に侵されたと感じた場合。
界域幹部たちは、最高指導者の王昊天に訴え出て、仲裁を仰ぐ。
「……独裁君主って、もっとエラそうなもんかと思ったがな。幹部のケンカの仲直りが仕事かよ」
「中華帝国の官僚組織は、操作者が腕力と技術で乗りこなす機械なのですよ」
今回、シーラが「出禁」なのも、そういう事情だ。
シーラは6・4テロでアイスを銃撃し、しかも湯島のホテルで彼女を散々にからかった。それに激怒したチャガンが、王昊天にねじこんだのだ。
アイスが界域参加を決定するまで、現地でシーラとは絶対に接触させないでくれ、と。
「ただ、幹部には面子があります。一方の主張だけを聞き入れると、指導者に対する遺恨が残ります。ゆえにアフターケアが必要です」
おれはアイスと顔を見合わせた。
話はわかるが、おれたちの出国の件となんの関係があるんだ?
「たとえば、シーラは出禁にされたけれど、今回の件で推しの先生に会えたから大満足なんだ。昨日はひさしぶりに自分で外出したらしいぜ」
レックスが口を挟んだ。
後部座席で、謝雨萌がはっと顔を上げた。
「……さすがレッドスター先生。自分が界域に呼ばれた理由がわかったらしいね」
彼女がホテルのロビーで出会った、作品を激賞する熱心な読者。
腐女子の小詩。
──シーラ。諸葛詩月。
「ご本人からの伝言です。『私が世界を滅ぼしても、先生だけは生き残らせる』。例の漫画は彼女の愛蔵品で『信者から神への供物です』とのことでした」
ノイナーが淡々と言った。
「シーラもかわいいよね。本人がテックの神さまなのに、神にも『神』がいるんだとさ」
呆然とする謝雨萌に、レックスの笑い声が飛んできた。
■
窓の下には、山とメコン川しかない単調な景色が延々と続いていた。
アイスがおれの手を握ってきた。
今朝のチャガンの一件以来、彼女の顔色はずっとさえない。手もおそろしく冷たい。
いったん指をほどかせ、自分の手のひらで包んでやった。
──手のひら、か。
おれたちは完全に、界域の手のなかで踊らされている。
こいつらはおれたち自身よりも、おれたちの行動を知り、操り続けている。
猫が面白半分にネズミをいたぶるみたいに、爪を立てて傷つけながら、撫で回して遊んでいるのだ。
「……白希冰さまの象徴元首就任について、王総司令は当初、非常に前向きでした」
おれの思考に、抑揚のない声が差し挟まれた。
王昊天は煩瑣な儀礼を嫌う。政治も軍事も、常に一線で動きたがる。
ノイナーは、チャガンと似たようなことを言った。
「しかし、界301医院の一件です」
アイスが麻酔準備室に突入し、強引におれを救助した事件だ。
あれに幹部序列2位のライが激怒した。
シンガポールのエリート経済官僚出身で、界域の大番頭だ。
「あのとき、白希冰さまはチャガンと白家派公安部隊を私兵のように動かし、チャガンとはセクションが異なる医療部門──。耶律叔珍の支配領域に介入なさいました」
これが問題視された。
界域に必要なのは、君臨すれども統治をしない象徴だ。それが、あの女は地位を受諾した初日から、政治的実権を行使した。与えられた役割に常に従う性格の人物、という事前の説明とは全然違うではないか。
「今後、界域の女王が傀儡に甘んじず、軍事・警察部門を握るチャガンを抱き込み実権の掌握を図ったら? もしくは、チャガンが女王の権威を傘に増長した場合は? 権力の二重体制が生じる。最高指導部内におけるパワーバランスが崩壊する」
──ライはそう主張したらしい。
アイスがため息をつき、わずかに苦笑した。
彼女やチャガンの人格からして、そんなことをやるはずがない。
しかし、ライは「官僚」という文字が服を着て歩いているような人間なのだ。
「ほかに、耶律叔珍も激怒だよ。『あんな鬼嫁に家の敷居は跨がせません』と総司令府に1時間半の陳情だ。白菜が高いとか広場舞(おばちゃんダンスの会)の場所が狭いとかの文句も合わせてね。たまらないよな」
レックスが首をすくめた。
他の幹部に猛反対された以上、チャガンは強く出られない。
「わしが儀礼に出るよりも象徴元首を選ぶほうが面倒だ。後日の課題にしろ」
昨夜7時半、すっかりうんざりした顔の王昊天が、幹部全員が接続する
リモート会議の画面のなかで、頬杖をついてそう言った。
結果、本件は沙汰止みになった。
■
「その時間は──」
アイスが小声で言いかけ、口をつぐんだ。膝に右手の爪を立て、目を閉じる。
気持ちはわかる。
おれだって、仮にこの場にレックスやノイナーがいなければとっくに叫んでいる。
──昨日7時半。
つまり、悪夢でうなされる彼女をおれが叩き起こし、界域からの脱出作戦を開始した時間。
このとき、王昊天は象徴元首計画をとっくに投げ出していたのだ。
おれが街で必死で金を買ったり、アイスがチャガンの予定を聞き出したり、謝雨萌が国安スマホで逃亡計画を練ったりした行為は、すべて無意味。命がけの冒険も、まったくの無駄。
「君たちも気の毒だな。もともと界域側は、今日8月1日にタカダとアイスちゃんが仲良く快適に帰れるよう、2人1室の新界域航空ファーストクラス・キャビンを手配していたんだぜ」
レックスが言った。
さすがにウソだ。こちらを困らせるために言っている。
理性はそう囁くが、足元がガラガラ崩れていくような感覚が止まらない。
おれはアイスと、知らない間に両手を固く握っていた。
本音を言えば、「助けてくれ」と叫んで震えながら抱き合いでもいなければ、心の平衡を保てないくらいには追い詰められている。
恐怖、怒り、無力感。
アイスの感情がおれ以上に強いことも容易に想像できた。
ここ数日、おれは肉体的な責め苦を大量に受けた。だが、精神的なダメージは彼女のほうが圧倒的に大きい。
「……ならば。チャガンは今朝、なぜ追ってきたの?」
アイスが声を震わせて尋ねる。
それでも、これは知らなくてはならない。
ノイナーが「意味はありません」と静かに言った。
もとより、経済的合理性と計画性を重視する経済部門と、金食い虫で不確実性が大きな軍事警察部門は関係が微妙だ。ドライなマキャベリストのライと、武骨な忠義で動くチャガンの性格も、折り合いが悪い。
「序列2位のライの主張に、序列3位のチャガンがおとなしく屈服すると、やはり権力バランスが悪くなります」
シーラの出禁処分と同じ構図。
「ゆえに王総司令が、チャガンなりの方法でけじめをつけることは許す、とおっしゃったのです。あらゆる異なる属性の臣下を統御し、相互の顔を立てる。君主による利害調整は芸術的なパズルです」
芸術? バカを言え。
要するに、高官どもの面子合戦の調整。
そんなもののせいで、おれは半殺しにされたのか。
許せない。
アイスはこいつらの気まぐれのために悩み、本来遭う必要もないつらい目に山ほど遭わされたのだ。
「まあ、そう怒るなよタカダ。ドキドキの逃避行で、中国人民14億人でいちばんかわいい女の子に愛されたじゃないか。彼女が君のために拳銃で死ねるって思うほどにね。界域に感謝したほうがいい」
ひっ、とアイスが過呼吸気味の声を出した。
「結婚式のアニバーサリームービーを作るときは連絡をくれ。黄色い三輪EV車での涙のラブシーンも、街や車内の監視カメラが一部始終を記録している。思い出は形で残したいよな」
ふざけるな。
おまえら、こっちをどこまでコケにすれば気が済むんだ。
アイスの目の焦点が定まらなくなってきた。息が荒い。
とっくに精神が限界のはずだ。
ちくしょう。ここまで一方的にボコボコにされているのに、ぜんぜん守ってやれない。
■
呆然とするおれたちの眼下に、ラオスの金三角特区のビル群が広がっていた。
「……おい、レックス。結局、おまえ何者なんだよ」
「君の友人だ。ちょっと距離感がつかめてないだけさ」
「ふざけんな!」
だめだ。感情の制御が効かない。
怒ったり狼狽したりするほど、こいつらは喜ぶのに。
「自分が本当は何者かなんて、意外とあやふやなんだぜ? タカダだって、母親にかばわれてから死体の前で泣いてた3歳の君と、ブラック企業のへたれ社員の君、アイスちゃんの王子さまになってる君──。これが同一の人格だって本当に思えるかい?」
詭弁だ。話をそらすな。
「刀槍不入。中国人民の多くは人体特異効能を持つが、この能力だけが桁外れの外れ値だ。だが、自分がその器に選ばれた理由を、タカダは長年なにも考えず生きてきたんだろ? ……いまの、能力に目覚めた気でいる君のほうが、ニセモノじゃないのか?」
ちくしょう。
「だが、信じてくれ。僕は君の友人でありたい。君は優秀な人間なんだ」
「ヨイショされてもうれしくねえな」
レックスはおれを無視した。
「僕らは望むことが一致している。しかも、利害はなにも衝突しない」
「どういう意味だ?」
レックスは説明せず、「スマホを見ろ」と言い放った。
──おれは言葉を失った。
AirDrop。開くと、見覚えのある文字。名前。
「君はこのPDFデータを読みたがってたろ? 友情の証だ。帰国前の手土産に渡しておくよ」
言葉が頭に入らない。
「今回は、データが消えたりはしない」
なぜだ。なぜこれをいきなり渡す。
「よく読んで、考えておけ。お前とまた会うことはある」
声が低い。
「わかったな。高翔平」
おれは重力に引き寄せられるように頷いていた。
■
タチレク市内の巨大なビル街を右手に眺めながら、eVTOL機が着陸した。
降り立った場所はなんと、界域側と隣国タイ側の陸路国境検問所の制限エリア内に設けられた。VIP向けのヘリポート。つまり、空港でいう通関後の土地だ。
「僕はこれでも忙しい。また会えるのを楽しみにしている」
レックスはそう言い放ち、ノイナーがアイスに向けて小さく合掌をした。
そして、どこかに飛び去っていった。
おれたちが降り立った場所には、界域側とタイ側の国境職員が、白布をかけたテーブルを前に勢揃いしていた。パスポートを出すと、ミャンマー出国とタイ入国のハンコを目の前でポンポンと押す。タイ側の電子アライバル・カードは、界域が前もって送信しており不要だそうだ。
「あちらの建物の向こうがタイ国内です。ただ、その前にヘリポート脇のNSF-Payステーションにお連れいたします。タイ側での通貨がまったくなくてはお困りでしょう」
界域側の職員が、そう言ってアイスの界域市民S層向け支給スマホをポンと返した。元首就任時にチャガンにもらい、わざとホテルに置き去りにしてきたものだ。
アイスがステーション端末に案内されていく。
「……」
彼女がタッチパネル画面をにらんで固まっていた。
その後、ああ、と天を仰いだ。
「……どうしよう」
戻ってきたアイスに「なにがだ?」と聞いた。
「いきなり全額が両替された」
「希冰。それはまさか」
謝雨萌が焦っている。おれも意味はわかる。
アイスが所有する界幣Aは、逃亡開始から一切手つかずだった。
今回の両替金額、日本円で約2億7000万円。ホームラン王の年俸かよ。
「どうすんだ。現金輸送車で移動するレベルだぞ。いや、それより税関」
謝雨萌が肩をすぼめた。
「いらん。あのステーションがすべての答えだ。通常のドルやバーツじゃなく、仮想通貨のUSSTにチャージされる仕組みっぽい。これなら税関を100回越えても資産移動できる。界域には呆れちまうな」
さっき、アイスはUSST専用両替端末を見て、もともと自分が持つウォレットに、全員の帰国費用相当分くらいは入れておくかと考えたらしい。しかしアカウントが紐づけられた瞬間、界幣Aの全額がなだれ込んできた。
界域はことITに関わることならば、あらゆる不可能の壁を平気で突破する。
──贈与の魔法。
あいつら、最後にとんでもない実弾をぶち込んできやがった。
「完全にあたしたちの負けバトルだな。この悪の帝国、どうすりゃ滅ぶんだ?」
知らねえよ。
マジでなにをどうすりゃ勝てんだ、あんな連中。
■
──それから2日後。
バンコクのボーイズゴーゴーバーを興味津々で見に行きたがる謝雨萌の首根っこをひっつかみ、おれたちはタイ国際航空のエコノミークラスでつつましく日本に戻った。
スカイライナーで日暮里駅に到着し、ひとまず3人で駅横の富士そばに寄る。
「……ねえ、翔平。蕎麦に生玉子入れるの、できればやめない?」
「中国人的には死ぬほどキメえ食い方だぞそれは」
「うるせえ。日本人はこうやって食すんだよ」
月見かき揚げ蕎麦をすすり、どうでもいい会話をしながら、ようやく実感が湧いた。
おれたちは本当に、戻ってきたっぽいのだ。
あの異常すぎる世界から。
日本に。




