【第二十六章】2027年8月1日 贈与の魔法(翔平の物語)
国境検問所の右側。
露店市場を抜けた先の河畔。
こじんまりしたシャン様式の寺院前の空き地に、レックスのクルマが停まっていた。
クルマ。
ただし、空飛ぶクルマ。
新中華飛天科技集団が製造した、5人乗りの個人用eVTOL 機だ。
「2年前、タカダの国は大阪万博で失敗していたな。……ああ、マウントを取ってるわけじゃない。気にしないでくれ」
レックスが言った。おれの現在の服装は、こいつが持ってきたエンポリオ・アルマーニのTシャツとシンプルなパンツだ。
受け取るときに「GPSタグが入らないファッションにしたぜ」と耳打ちされた。
いちいち気にさわるやつだ。
アイスはさっきの暴行シーンがつらすぎたらしく、血の気が失せた顔のまま、おれの左腕を強く両手でつかんで離さない。
もっとも、ケガはほぼ完治していた。
瀕死だったので、実は本当に治るのかやや不安だったが、確かに回復力が高まっている。
刀槍不入。これはどういう力なんだろうか?
「ここで待ってろ。おれが先に確認する」
アイスをクルマから1mほど手前で待たせた。
謝雨萌が痛めつけられていた場合、できるだけ彼女に見せたくない。
■
後部座席のドアを開け、おれは言葉を失った。
謝雨萌は静かに──。身も世もない目でこちらを見つめた。
「……おい」
メガネの奥を涙で濡らしている。
こいつのこんな顔を見るのははじめてだった。
「高田か……」
彼女は何度もえづき、必死で絞り出すように言った。
消え入りそうな雰囲気だ。
「ごめん……。あたし……」
白いマスクをつけていた。顔を殴られた痕を隠すためだろう。
目が赤い。
怖くてひとりで泣き続けていたのだ。
頼りになるので忘れがちだが、謝雨萌もか弱い女性だ。
おれたちの大切な友人を、一人で置いて出たことを後悔した。
こんな姿のこいつを、いまのアイスに会わせるのか。
「ダメだよ……。もう……」
「見ろ……。『風と木の詩』……。いま読んでも涙が止まらねえ。あたしは創作者として大切な初心をいつしか忘れて」
は?
「勿忘初心牢記使命。主席のお言葉は常にBL的に尊い……。ジルベール……」
はああ?
よく見ると、彼女は手袋をはめ、古い漫画本を大事そうに持っていた。
足元の紙袋にも、往年の小学館フラワーコミックスの名作。
マスク着用は、自分の飛沫で貴重な古本を傷つけないためらしい。
脱力した。こいつは通常運転だ。
だが、ことここに至った事情を聞くべきだった。
■
昨晩、謝雨萌はレストランで時間を稼いでからホテルに戻った。そして、EVリムジンの返却手続きをおこなった際のことだ。
「ホテルのカウンター近くで、カバンからアクリルスタンドを落とした人がいてな。あたしが好きなジャンルなのに、見たことないサークルのやつだった」
それを拾って渡した。男が礼を言い、爽やかに笑った。
レックス・オウヤン。芸能関係の仕事をするイギリス華人の企業家だという。
「ありがとう。台北の開拓動漫祭(台湾版コミケ)の関連業務でもらったノベルティを落としてしまったんだ」
でも、これは手元にたくさんある。興味があるなら差し上げる。
そう言われたらしい。台湾渡航のハードルが高い中国人腐女子にとって、開拓動漫祭は幻のイベントだ。
いっぽう、レックスの隣には、彼のビジネスパートナーだという女がいた。
中肉中背。顔立ちは比較的整っていたが、髪の毛はボサボサで眉毛も適当、化粧は最小限。どうでもいいデザインの白Tシャツと、無印良品っぽいズボン。なのに、カバンにはこだわりを感じるキーホルダーが光っていた。
高級ホテルのロビーでなお、この格好。
同じ世界の者だ、と謝雨萌は思った。
「台湾の件、わたしがメインでやってて。実はけっこう腐なんです」
意気投合した。彼女は本当に詳しかったらしいのだ。気になる作家の話になった。
「えーと。……Red★Star先生。ご存じです?」
目を丸くしてうなづいた。
「わかるんですね!! 作風が最高なんです! 絶対の権力を握り、中国人民14億人を支配する主席。しかし自分が恋する前総理の心だけは思い通りにならなかった。むしろ政治的に敗北させたはずの彼に、今日も心と身体をもてあそばれてしまう! 視察先の農村で、人民解放軍施設で、そして天安門広場で──。しかも、この前総理は、同じ共産主義青年団の前主席の前では『お兄ちゃん』とか言って甘えちゃうんですよ! ああっ、激エモ激シコいっ。わかりますか!? 伝わりますか!?」
──本物のファンの方だ!
謝雨萌は正体を明かすことは必死で自制した。しかし、小詩と名乗った彼女に、レッドスター先生のサイン本をあとで日本から送る、くらいの話はしたらしい。
その様子を見て、レックスが言った。
「先日、東京の神田神保町の古書店をまるごと買収したときの在庫品があるんだ。古い日本語の漫画で、僕は読めない。興味があるなら譲るよ」
倉庫は近所にある。翌朝に持ってくると話した。
漫画の名は『風と木の詩』。
全巻に著者の宛名なしサインが入った初版本美品。
レックスの目にはただの在庫品でも、この道を歩む巡礼者には、第一級の聖遺物──。
■
「……餌付けされてんじゃねえよ」
おれはつぶやいた。
謝雨萌。おまえ、すごいやつだと思ってたのに。
漫画をもらうまでは仕方ないとしても、なんで現在の状況で、知らない人間のクルマに乗れるんだ?
なに考えてんだよ。
だが、事情はもうすこし複雑だった。
翌朝早朝、レックスは一人でやってきたのだ。
そこで古書を渡しつつ、「確かに謝雨萌さんだと確認できた」と話して、秘密を打ち明けた。
数日前、撃たれていたおれを助けた。彼はおれの友人なのだと。
半信半疑の謝雨萌に対して、レックスは自分のスマホを操作し、ドライブレコーダーの映像を見せた。
負傷した外国人を保護した翌朝、おれがアイスに会いたがった。なのでレックスが界延安に連れて行こうとした。しかし検問にぶつかり、おれはチャガンに連れていかれた。そう説明したらしい。
「助けた翌朝、彼の服は血だらけだった。この格好じゃアイスちゃんに会えないって言うから、僕がまだ着ていない服をあげた。ほら、この日のタカダは普段以上にいい男だろ?」
彼はスマホの動画に、ポール・スミスを着て助手席に座るおれの映像を表示した。謝雨萌の目から見ても、おれはシュッとして見えたそうだ。
「いくら好きな子とデートって言われてもさ。仲のいい友人じゃなきゃ、いい服は渡せないよ。違うかい?」
すべて微妙に辻褄が合っていた。否定するのが難しい。
■
ドラレコ動画を再生中に、レックスのスマホに見知らぬ番号の着信があった。
彼が電話を取ると、相手はアイスだった。
そこで、謝雨萌が電話をかわった。
アイスは国境近くの集落で村人のスマホを借り、界域当局のマークがいちばん薄いレックスの番号に緊急連絡をおこなったという。
「雨萌、ごめん。イミグレーションの建物内に界域の検査官がいて、ここから先に行けないの」
アイスの声はそう言った。
さらにいわく。
翔平は出発前、市内で友人のレックスとひそかに落ち合い、バックアップ計画を決めていた。レックスが担うリスクが大きいため、これまで謝雨萌と情報を共有しなかった。理解してほしい。
そして、いまからレックスに空飛ぶクルマで緊急救援に来てもらう。彼と同行してくれと。
「高田も電話口に出て、すこし喋った。だから乗ったんだ。これはヤバかったのか? 機内でもレックスがいちど電話を掛けて──」
そこで話したアイスの声はリラックスした印象だった。なので、謝雨萌は安心して漫画を読み、ジルベールの悲劇に泣いた。
──謝雨萌の判断は間違っていなかった。
おれが同じ立場でもそう動く。
仮に自分に予備計画があった場合、彼女に喋らないことはあり得た。
万が一、国安スマホがハッキングされた場合や、彼女が界域側の尋問に屈服した場合。それを避けるため、まず味方から欺く。謝雨萌のインテリジェンス感覚なら、当然想定したはずだ。
「……そんな電話、かけてない」
アイスが後ろから言った。
友だちの様子を知るため、話の途中から側に来ていたらしい。
当たり前だ。レックスを使う予備計画なんか存在しない。
アイスが「あ」と小さな声を上げた。
それでおれも思い当たった。こうした場合に、この土地ならばあり得る可能性。
──AI合成音声。
アイスは界域内で、いくらでも音声を録音される機会があった。おれもレックスの車内で彼と喋っている。
界域の技術なら、これらの音声データから偽電話を作れる。
偽アイスをメインで喋らせたのは、彼女のほうが録音音声の量が多く、ボロが出にくいからだ。ホテルの室内を盗聴すれば、謝雨萌に対する友人口調の喋り方のデータも取れる。
普段の謝雨萌なら、もしかすると多少は疑ったかもしれない。この手のことには気が回るやつなのだ。だが、彼女は電話を受けた時点で、すでに罠にとらわれていた。
贈与の魔法だ。
ポール・スミスの全身コーデ。TUMIのビジネスバッグ。
開拓動漫祭のアクスタ。伝説の漫画の初版サイン本。
相手が欲しいもの。しかし、その気になれば手に入るが自分ではなかなか買わないもの。その範囲で、最大限に貴重なものや高価なものをポンと与える。
仮にこれがペットボトルの水なら、礼を言ってもらいっぱなしにできる。菓子折りくらいならば、同じようなものを返せばいい。
だが、返礼できる範囲を上回る贈与を受けた場合、相手が返せる謝意の選択肢は限られる。
無形のものを選ぶしかない。
すなわち、贈与した者の人間性を信頼する。警戒を和らげ、提案を受け入れる。
実のところ、多少は世慣れた中国人ならば、誰もがこの手の人心掌握術を使う。
違いは贈与の技術だ。
ヘタなやつは、地元のメシをバカみたいに大量に食わせたり、相手の趣味を無視したクソでかい謎の置物を押し付けたりして、自己満足してしまう。でも、相手は本音ではありがた迷惑としか思っていないから、こちらの言うことは聞いてくれない。
だが、技術のあるやつ。
つまり超一流の中国人は──。
贈与で他者を操り、駒に変える。
■
「レックス、おまえ、どういうつもりだ?」
「同じことを3度も言わせるなよ。困ってる外国人を助けたいだけだ。君とアイスちゃんはさっき、僕のおかげで救助された。それとも、チャガンに連れて行かれたほうがよかったのかい?」
言葉が出ない。その通りなのだ。
「ああ、そうだった。機内はあと1座席空いている。ここで乗せる子がいるんだよ」
くそ。完全にこいつのペースだ。
レックスの言葉が終わると、寺院の伽藍から、小柄な美少女がふっと出てきた。
メコン川の河風が吹く。
白いシルクの裾がたなびいた。
身長は150cmになるかどうか。黒髪。おかっぱ。真っ白な肌の小さな顔。
服装は……。なんだ。和服みたいだが違う。
教科書とかに出てきそうな。むかしの中国の儒学者の服。
少女は歩みを止めると、まずレックスに手を合わせて深々とお辞儀をした。
その後、アイスに軽く合掌してお辞儀。おれや謝雨萌は無視。
怪訝そうなおれの顔を見て、彼女は表情を変えないまま、こく、と首をかしげてみせた。
「あなたも……。追ってきたの?」
アイスが凍りついた表情でつぶやいた。
「いえ。お見送りに参りました」
少女は再び、からくり人形のような動作で首をかしげた。
ノイナー。沈清瑤。タイ華人。
本名、カノックワン・ラッタナチャイ。
どう見ても10代の女の子だが、27歳。
生物的には男性らしいが、性別という標識は無意味。
新中華界域序列5位。思想幸福調整局長。朱子学者。
あらゆる属性に理解が追いつかない。女は見た目ではわからん。
「界域の偉い人に、事情を説明してもらおうと思ってね」
レックスが言った。
「僕が喋ったっていいが、タカダは僕の言葉も素性も信用しないだろ。違うかい?」