【第二十四章】2027年8月1日 ホタルと逃亡者(翔平の物語)
「すごい」
後ろからアイスの感嘆の声が聞こえた。
運転しているおれでも息を呑んでいるのだ。手持ち無沙汰の彼女には、いっそうよく見えるのだろう。
待避所を見つけたのでバイクを停めた。谷側の視界が開けている。
エンジンを切り、ライトを消した。
おお。
星空だった。
5等星か6等星か、よくわからない。だが、東京では絶対に見えない小さな星までよく見えた。
地上に明かりはほとんどない。
しかも幸運なことに、今夜の月は爪の先ほどに細かった。
「あれ、雲? ……あ、そうか」
空の真ん中が、白く薄い靄で区切られている。
天の川だ。こんなにくっきり見えるのか。
「日本に帰ったら、有楽町マリオンのプラネタリウムいく」
アイスの行きたいところ、プラス1。
確かに解説を聞きたくなるな。星座はわからん。
でもこの空は。空気は。
人間が作るものは、本気を出したときの自然には絶対に勝てない。
なぜか森のなかにも星があった。
ピコピコと点滅し、動き回っている。
「ホタルか」
「わたし、はじめて見た」
彼女が育った北京の都心にホタルはいない。おれも幼少期に見た記憶はない。
ただ、シャン州のホタルは、日本のやつと比べて発光間隔が異常に短かった。
「小学校の林間学校のときに見たやつはちょっと違う感じだったぞ」
「もっとのんびり光るんだ。それ、どこで見たの?」
アイスが行きたいところ、さらにプラス1。
千葉県君津市、濃溝の滝。
これは渋いぞ。場所どこだっけか。
さておき、道を急ごう。
深夜の山道は、できればはやく抜けたい。
バイクの速度から逆算すると、すでに20キロほど進んでいる。
道路は1.5車線くらいの幅があり、ヒビ割れているがいちおうは舗装されていた。
ちなみに出発前、おれは警察署で国際免許を取っておいた。ミャンマーはジュネーブ条約非加盟国なので、結局は無免許運転だとアイスに教えられてがっくりきたのだが。
■
「いまのところ、追っ手の気配はないね」
「現在位置を知ることは誰にもできない。最後まで大丈夫だ」
半分は彼女を安心させるためにそう言った。
とはいえ、よく数時間でここまで考えた、と思うほどの対策は施している。
たとえば、出発前におれがやったもうひとつの細工だ。
ソーの店にいたラートという男に、謝雨萌のAI翻訳を介してお願いをした。
おれの公社スマホを持って車で出かけ、界延安の北あたりで電源を入れてほしい。そのまま、中国国境のモンラまで一気に突っ走り、そこでスマホを中古屋に売ってほしいと。もちろん代金は受け取ってくれて構わない。
すでに充分にチップをもらっていたラートは、面倒な申し出を快諾してくれた。
──7月28日の夜。
衛兵に撃たれてジャングルに倒れていたとき、レックスがなぜおれを見つけられたのか。その後にいろんなことが起きて忘れていたが、あれは明らかに不自然だった。彼がおれを探した理由はわからないが、明らかにピンポイントで発見していたのだ。
いちばんありうる可能性が、サイバー人民公社で木村に借りた公社スマホの位置情報だった。木村はアカウントにおれの個人情報を紐づけしていた。そうしないと界幣を使用できないからだ。
界域から見て、いちばん追跡しやすい端末である。なので、電源がついた公社スマホを、あべこべの方角の中国国境に向かわせれば、追っ手はより混乱する。アイスが中国に逃げたと勘違いしてくれればしめたものだ。
加えて、もうひとつ。
実はおれは、謝雨萌が第1候補として選んだミャンマー・ラオス友好橋から出国する気がない。ここは彼女にとって激シコいルートらしく、メモには孤独な不良青年ミャンマー君×素朴な山岳ショタっ子ラオス君が耽美な友好を育むラフ絵まで描かれていたが、あえて放棄した。
おれが向かうのは第3候補、西に15キロずれたワン・コーコーというマイナーな国境ゲートだ。これは出発前はアイスも知らなかったことである。
理由は非情だ。万が一、国安スマホがハッキングされていた場合や、界域側が謝雨萌に極度に厳しい尋問をおこなった場合のリスクを懸念したからである。
現実的にはほぼないと思えるケースだ。だが、実際に拷問を受けた者としては、界域の行動に「絶対」はないと感じる。
おれの選択を後で知っても、謝雨萌が気を悪くしないことも想像できた。
彼女の正体は、激エモ激シコ主席受けナマモノ作品を執筆する天才同人作家、レッドスター先生……。だが、その活動は党にとって、中国民主化運動の宣伝ビラを作る以上の大タブーだ。ゆえに彼女の行動や発想は、結果的に専門のインテリジェンス・オフィサーのそれとかなり近いものになっている。
優先順位を絞るべき状況で、常に最悪の事態を想定する。謝雨萌はその判断を否定しないだろう。彼女はこれまで、おれやアイスよりもずっと危ない道を渡り続けてきた人間なのだ。
でも、だからこそ無事であってほしい。あのプロフェッショナルの情報部員には。
■
「ちょっと、ここで待ってろ」
出発から50キロほどの地点。おれはそう言ってアイスをいったん下車させ、バイクを引いて泥の山を登ろうとした。
目の前に土砂崩れが広がっていたのだ。
よく調べると大型バイクや四躯車両が強引に突破した轍が残っているが、このバイクの排気量では登れない。人力で引き上げるしかないのである。
「手伝う」
やめとけ。
彼女はかなりの寝不足のうえ、服装はいつものオフィススーツだ。バイク騎乗ができるパンツスタイルの服が他にパジャマしかなく、やむを得ずこの恰好なのである。
「服に泥がはねる。あとでイミグレ抜けるときに不審に思われるぞ」
それでも手伝おうとして、足をくじきかけたので慌ててやめさせた。
「別のところでおれが助けてもらってるんだから、いいんだよ。ただの分業だ」
アイスはなぜか、こういう状況では意地でもおれと対等に行動したがる。まあ、それも彼女のよき個性なんだが、たまに無理をするのだ。
バイクをなんとか1人で引き上げ、向こう側に下ろす。
型の古い韓国KIA製の汚れたセダンが、路上に放置されていた。
人の気配はない。
向こう側から泥山を越えようとして、故障して乗り捨てたってところか。
もういちど泥山に引き返し、アイスをおぶって登りなおした。
その頂上まできたところで──。
拳銃を突きつけられた。
■
数分後。
おれとアイスは、汚れたKIA車の前に立たされていた。
「たまにいるんだよ。ここを通る亡命者が」
シャン人らしき中年男は、なまりの強い中国語でそう話した。
人民くずれ──。いったん中国文化を受け入れて界域支配に組み込まれたものの、馴染めず故郷に戻った非籍民らしい。さらに、手に山刀を持った若い仲間が2人。彼らは中国語はほとんどできない。
山賊。
謝雨萌が残したメモに記されていた、狂犬病の野良犬に次ぐシャン州移動のリスク。
若い男の1人が、スマホのライトでおれたちの顔を照らした。
「蓮の花みたいにきれいな女だな。……人民A層の金持ちの娘か? ときどきいるんだ。B層の男とくっつくやつが。支給ゼリー目的かもしれんがね」
若い仲間2人が無邪気に笑った。ゼリー、という単語はわかるのだろう。
「しかし、実家に反対されて駆け落ち亡命。逃亡者を捕まえると界域の報奨金が出るが、この女は直接売り飛ばすほうがいいな」
駆け落ち亡命か。当たりだ。
ただし、A層とB層どころじゃない。
人民C層の特殊詐欺拠点さくらぎソフト勤務のタカダと、界域の女王の組み合わせだぞ。びびってくれ。
「なあ、やめてくれよ。ちょっと待ってくれ。な。話せばわかる。現金を出す。中国の人民元だ」
おれは血相を変えた表情で、ポケットから財布を出してみせた。
チャガンたちにもらったTUMIのバッグには、金や貴金属を入れている。あっちは開けられない。
「……困ったな。打ち合わせたやつを、まさか本当にやるとは」
「気をつけて。たぶん、若い人たちは刃物しか持ってない。わたしもがんばる」
小声の日本語でアイスと話す。
おれは財布のなかから、天津の空港で両替した1000元をつまみ上げた。
人民元の額面最高額は100元だ。なので、紙幣10枚。
「どうぞ」
ぱっ、と空に投げる。
男たちの目が、宙を舞う赤い毛沢東たちに吸い寄せられた。
「おらあ!」
突進して中年男につかみかかり、拳銃を腹に押し当てた。
男が驚いて引き金を引く。
爆竹に似た破裂音が響いて、おれの腹に銃弾がぶち込まれた。かゆい。
すこし身をかがめた。
脚。
チャガンとよく似たフォームの蹴りが、男の後頭部にクリーンヒットした。
隣の若い男が呆然としている。むしゃぶりついた。動揺しながら力なく振り下ろした山刀が背中に当たったが、マッサージ棒で叩かれたくらいの感覚しかない。
おれは山刀を素手で握り、男を突き飛ばした。そこにアイスが渾身の当て身を食らわせる。男はKIA車に叩きつけられてから、ヨロヨロと逃げ出した。
もうひとりは、とっくに山刀を放りだして山に逃げている。
■
散打。つまり中国式の護身術。
お嬢さまが幼少のみぎり、ピアノと乗馬とお習字と二胡とフランス語に加えて……。叩き込まれた習い事。
運動が好きなので高校時代までやっていたらしいが、本人いわく実力は微妙だ。型をきれいに再現できるものの、やんごとなき身分なので、試合どころかスパーリングも厳禁。なので、多少の心得がある相手となら、仮に格闘しても絶対に歯が立たない。
ただし、力加減を気にせず素人に一撃ぶつけるだけなら可能だ。泥棒や痴漢の撃退用。正しい意味で護身術である。
目の前の連中にはそれで充分だった。
界域東側にいる山賊は、かなり弱いのだ。
山賊たちは10人以上の組織を作ると、スマホ連絡を傍受した界域当局によって新兵のフィールド訓練の対象に選定され、熱探知ドローンとAIスマートライフルで狩られる。最近は訓練対象がいなくなり、5人以上でも狩られている。もうすぐ環境省レッドリストに載りかねない。
現在まだ山賊をやっているのは、近所のただの村人だ。人数は数人以下。武器も猟銃か拳銃が一丁あればいいところである。拳銃はラオス経由で入ったベトナム製。暴発リスク特大、撃てれば儲けもののへっぽこ銃だ。
おれの刀槍不入と、人間カルチャーセンター姫の微妙な散打アタックだけでも、いざとなれば対処できる。謝雨萌メモにはそう書かれていた。いちおう、役割分担はアイスと事前に打ち合わせておいたが。
「おい、ワン・コーコー国境まであと何キロだ?」
「……25キロぐらいだ」
バイクの荷造り用の紐で両手を縛られた中年男はそう言った。サイという名前らしい。
「おまえのKIA車、まだ走るよな? 残りのガソリンは?」
「8割はある」
「じゃあ、いま買い取る。金10gインゴット5本。このバイクもつける」
「そんなにもらっていいのか? 新しい耕運機が買えるぞ」
希望に満ちた目でおれを見た。本業は農家らしい。
銃はこちらが確保している。もはや危険はなさそうなので、彼の紐を外してやった。
「かわりに、おれたち2人のことは他人に喋らないでくれ」
「もちろんだ。助かる。この恩恵の礼をしたい」
車の試運転も兼ねてサイの家まで行き、トイレを借りて食べ物と水を補給してもらった。
彼は山で震えていた若者たちを呼ぶと、おれのバイクに3人乗りで誘導してくれた。
満面の笑みで手を振るサイたちに見送られ、車を出した。
車内に電子ガジェットがないかは徹底的にチェックしてある。
20年近く前の車両らしく、エアコンやカーステレオすらアナログ式だ。安全だ。
■
車に乗り換えたのは理由がある。
検問リスクが高い界延安周辺からは離れたし、国境にはあと数十分で着く。これから朝を待つなら、野犬や蚊の心配がない車両のほうがいい。
なによりもアイスだった。こいつは数日前からほとんど寝ていない。事実、サイたちと出くわす直前にはバイクの後部座席で2度ほど舟を漕ぎかけ、慌てておれにしがみついていた。
眠って落下して大けが、逃亡失敗。そんなオチでは笑えない。
「……ありがとう」
事実、彼女は限界だったらしい。助手席に乗って細い声でそうつぶやくと、一瞬で寝息を立てはじめた。しっかり眠っておけ。おれはイヴ・ドロームの高級バスタオルを、アイスの身体にかけてあげた。
ホテルの部屋から拝借したものだ。支払いは界域政府だから別にいいだろう。そもそも、こっちはもっと重要なお宝を、界域から盗み出すところなんだから。
フロントガラス内にくっついたシャン人の仏教のお守りが揺れている。
──隣のかすかな寝息を聞きながら、考えていた。
仮にこのまま出国できれば、おれの界域滞在は実質的に合計5日間だ。
初日に気負っていたときに考えていた、現地での目標。
「歩む道を見つける」
とっくにクリアしている。
人体特異効能の継承方法。
具体的な部分には謎が多いが、秘密を決して明かしてはならない。
界域はこの世の地獄だった。あらゆる中華の民のユートピアなんて笑うしかない。
実態は人民の下から上まで、管理のなかで仮りそめの夢を与えられ、イカれた思想を持つ7人の幹部どもとAIに支配されたディストピアだ。
まあ、おれが生まれた中国本土もそういう部分はある。だが、界域はあまりにも中国の毒が凝縮されすぎていた。
王昊天が今後、なにをやるのかは知らない。
だが、あいつや幹部たちは、どう考えてもシャン州の支配だけでは満足しないだろう。
それを阻止──。は、大変だ。しかし、連中の拡大を鈍化させるキーのひとつは、おれたちが持っている。
おれの刀槍不入。そして、仁間の転生だ。
これらの力について、界域に現在以上の情報を絶対に与えてはいけない。
ただし、旅で果たせなかった目標もある。
父さんと母さんが書いたノートだ。
現地でほとんど拘束されていたから仕方がない面もあるが、情報すらもほぼ得られなかった。唯一、どうやらレックスが読んでいたらしいことがわかっただけだ。
……レックスか。
界域で会った人間のなかで、いちばんわけがわからないやつだった。おれに近づいた目的も、チャガンたちとの関係も不明なままだ。
ただ、あいつは人体特異効能について、誰よりもよく知ってい──。
え。
まずい!
慌ててハンドルを左に切り、車体が横に大きく揺れた。
ふう。息をつく。大丈夫だ。
カーブへの反応が遅れ、あやうくコースアウトしかけた。
ガードレールがない山道は危険だ。最後の最後まで油断できない。
アイスは一瞬目を覚ましかけたが、「……ん」とつぶやいただけで、再び夢のなかに戻っていった。よほど眠いらしい。
■
いまのヒヤリハットの原因はこいつである。
いきなり寝言で「爱你哦……」とかつぶやくのはマジでやめろ。確かにそう聞こえたぞ。
破壊力がドローン兵器よりもだいぶ強い。
リアルで顔を見つめながら言われたら、おれ心臓麻痺で死なないか?
大丈夫か世界。
……まあ、こっちも歩むべき道だ。
仁間にからかわれそうだが。
アイスが幸せになるようにがんばる、という目標。人生の道にできる。もうほんと、マジで余裕でできる。
おれはこの中国共産党のお姫さまを、本人が望むような普通の人間に戻す。
界域元首も白家の復興も、党内の権力闘争も考えなくていいような、ただの人の日常を生きさせてやる。
極端な話、こいつが将来、おれじゃない同年代のごく普通の誰かを選んでくっついて、幸せになる未来を選んだって、自分は笑って納得でき。
いや無理。それはほんと無理。絶対に嫌だし実際にそうなると今後20年くらい心の傷を引きずりかねないので真剣にやめてほしいのだが。
しかし、仮に万が一にそんな絶望的な将来があっても、おれは自分が選んだ道を後悔しないつもりだ。
だって、こいつだよ?
愛想を尽かされないように、おれ自身もしゃきっとしなきゃな。
──午前2時前。
夜の闇に沈黙している、ワン・コーコーの国境検問所に着いた。
日本の田舎のコンビニくらいの小さな建物で、目の前の小さなロータリーの中央に国旗ポールが2本立っていた。昼間はミャンマー国旗と界域旗が掲揚されるのだろう。
車の窓を開けてみると、虫やカエルの声に混じって水音が聞こえた。
メコン川である。その向こうは自由の地、ラオスだ。
マイナーな国境だけに、周囲にあるのは地元のシャン人の小さな市場と、SIMカードを売る携帯屋と古い食堂。あとは、すでに1階の明かりを常夜灯に切り替えた華人系の安ホテルが1軒。カウンターでは受付係の男が、床に敷いたゴザのうえでタオルケットをかぶって眠っていた。駐車場に車はない。
本当は彼をたたき起こして、あちらに泊まりたい。
だが、ここはまだ界域の領域だ。出入り口の監視カメラにAI顔認証追跡アラートがついていたら、そこでアウトになる。
数百メートル戻ってから、未舗装の農道に入る。集落の隣にトラクターの転回用の空間があるのを見つけ、そこに車を停めた。
アイスは熟睡している。
おれはいちおう寝ないでおくか。
シートを倒し、身体を休めた。
国境が開き、おれたちが最後の関門を突破するまで、あと6時間半。
彼女の寝顔に目をやってから、「君津もいくぞ」とつぶやいた。
カエルとトッケーの鳴き声が響く田んぼの周囲を、星よりも多いホタルが飛び回っていた。




