【第二章】2027年6月4日 谷中霊園(翔平の物語)
ハチみたいな羽音──。
昨晩に聞いたあれは、気のせいじゃなかった。
ああ、ネコもそうだ。
はじめは深夜の公園で出会った、首輪付きのネコ。
あいつがいたのも偶然じゃない。
だが、その詳細を確認するのはもはや難しい。
2027年6月4日午後12時55分。
奇しくも両親の命日と同じ日。
おれは死んだ。
場所は不忍池が見えるオープンカフェだ。
壁一面がガラス張りになった洒落た店である。
どういうわけかアイスと昼食を食べていた。
あいつは席に座っていて。
おれは水を取りにちょっと立ち上がって戻ってきた。
ヴォォォン……。
そう、ハチみたいな羽音だ。
突然、背後からその音を聞いた。
振り返ると、例のネコがいて。
池の上を黒い何かが飛んでいた。
それが羽音の主で、マシンガンをぶら下げた戦闘用ドローンだと気がついたときには、すでに銃口が火を吹き、オープンカフェのガラスがバリバリと割れはじめていたのだ。
満員の客や店員は、驚く間もなく絶命した。
弾幕は横薙ぎに店内を舐め回し、窓ガラスと食器が凄まじい音を立てて割れ続けた。
さっきまでお茶を飲んでいた主婦が頭を撃たれて横倒しになり、MacBookを開いていたサラリーマンがキーボードに頭を沈め、若い女の店員がデリプレートランチを取り落としてその場に崩れ落ちた。
カフェの注文用タブレット端末が撃ち抜かれていた。
銃弾は壁やテーブルで跳弾し、あらぬ方向に飛び続ける。
突然の乱射では、悲鳴なんか上げる暇もないとわかった。
そして──。
おれはアイスをかばった。
なぜそうしたか。答えようがない。
とっさの行動に理由なんてないからだ。
背中と後頭部の複数箇所に、灼けるような衝撃があった。
崩れ落ちる前に見たのは、アイスがなぜか一瞬浮かべた、寂しそうな目。
それが、おれが見た最期の景色だった。
■
時間をすこし……。そうだな、今日の朝まで巻き戻そう。
普段通りの口調で述べていくが、そこは勘弁してくれ。
自分が午後、無差別乱射テロで絶命するなんて、考えてもみなかった時点の話なのだ。
この日の午前7時半。
「哎呀!」
目覚ましのアラームの代わりに、おれは女の細い悲鳴と衝撃で目を覚ました。
場所は浅草橋の神社のベンチだ。睡眠中、いつの間にかおれの肩に頭を乗せてしまったアイスが、起きるやいなや全力で飛び退いたらしい。
「……ああ、おはよう」
重いまぶたを開くと、彼女はすでに立ち上がっていた。寝癖で髪がすこしハネている。苦い表情で唇を噛み、目尻をぴきぴきと痙攣させながら足元の砂利を睨む。さっき叫んだ声は、意外にも女子中学生みたいな響きだったが、もはや同一人物とは思えない近寄り難さだ。
彼女はしばらく立ち続けた後、ツカツカと陸軍士官の行進みたいな足取りで姿を消し、5分後に一分の隙もない姿で戻ってきた。近くの公衆トイレで口をすすぎ、一瞬で髪とメイクを直したらしい。すげえなこいつ。
「いや、あのさ。寝たから一人でほっとくわけにもいかなくて」
「知ってます」
「しかし、朝からピシッとしていて驚くよ。職業柄、さすがって感じだな」
なぜ、良心的判断から付き添ったはずのおれが、彼女の機嫌を取っているんだ。
「当然、です。そもそもわが祖国の外交官は中国の特色ある大国外交を代表する存在であるので」
はい??
「ゆえに、突如生起せる段階的矛盾に対しても大局的見地より戦略調整をなし総体国家安全観の戦略的思考を堅持して柔軟な対処が望まれる。すなわち責任ある大国としての人類運命共同体の建設のため奮闘する新時代外交の理論的実戦として弁証法的唯物論と歴史的能動性の見地より解釈する限り現今の突発的状況は変数として処理されて……」
アイスは眉をしかめて薄く目を閉じ、あやしげな呪文めいた言葉をぶつぶつと呟いた。党官僚という生き物は、あらゆる行動にこの手の理屈をつけなくてはならんのか。
謎の詠唱が終わる。質問。
「それで、本日午前の行動は例年通りなの?」
「ああ。谷中霊園」
「じゃあ、今年も全日の行動追跡ね。政治敏感日の通例で、形式上の仕事だから気にしないで」
去年までなら言わなかったセリフだ。
■
ラッシュ時間をやりすごしてから総武線に乗った際、アイスは普通におれの側に付いた。従来、ドアひとつ離れて彫刻みたいに立ってるのが常だったのだが。
しかも「み●ず学苑の広告やべえよな」「なんなのこれ」みたいな、どうでもいい雑談にも応じたのには驚いた。まあ、いまさら監視者ムーブを続けても無駄だもんな。自分自身で「無意味」と言い切った任務のために、他人に対してバリアを張り続けるのは疲れるだけだ。おれとしても当然、普通に接してくれるほうがありがたい。
だが、アイスの変化はさておくとしても、この日の東京はあまりに奇妙だった。
まず、乗り換えた山手線が秋葉原駅を出たところでいきなり停車した。
1時間近く車内で缶詰めにされ、最終的には次の駅まで乗客全員で線路脇を歩く羽目になった。スマホのニュースによると、東京23区に乗り入れるJR各線と地下鉄・私鉄が、原因不明の運行系統エラーで残らずマヒしたんだと。そんなことあるのかよ。鉄道各社のシステムバグは……過去に下請けで担当してないはずなので、たぶんわが社のせいじゃない。
そして、到着した御徒町駅の電光掲示板もふざけていた。
京浜東北線 北京方面 天安門広場行き 89:64
【戦車がまいります。危険ですのでご注意ください。】
悪趣味極まれりだ。そこに他の乗客たちが群がり、「なにこれ」「海賊版対策?」などと言いながらスマホを片手に写真を撮っている。画像はさぞかしSNSでバズるのだろうが、遺族感情としてはさすがに気分が悪い。
駅の外のタクシー乗り場も混雑していた。理由は電車のトラブルもあるが、どうやら都内の信号や首都高のETCが残らずバグったのが主たる原因らしい。それどころかカーナビもおかしくて、東京駅から御徒町に来るのに、鹿児島県知覧経由で道のり2800キロと表示された。と、下車したばかりの男が携帯でわめていた。
この状況、大規模なサイバー攻撃とハッキングが疑われる──。5次請け末端とはいえ、IT企業の社員としてはそう思う。気の毒に。各社のSEは今夜、徹夜で確定だな。
さいわい、谷中霊園は御徒町駅からでも、徒歩半時間ほどで着く。延々と歩かせてすまないとアイスに謝ったら、「慣れてる」と答えた。そりゃそうか、普段からやってたな、こいつ。
「でも、車に注意しろよ。いつも以上に」
そうね、とうなずく。
この調子だと、仮にケガをすれば救急車がいつ来るかわからない。そもそも病院のシステムが麻痺している可能性もある。事実、信号が機能していない上野四丁目交差点で、無茶な侵入をしたらしいアルファードがバニラの広告バスと正面衝突を起こして横転していた。
似たような事故が都内のあちこちで起きているらしく、警察はまだ来ていない。
■
「しかし……」
上野公園を通り抜けながら、現在の事態を考えた。
「この騒動、まさか中国政府の仕業とかじゃないよな」
アイスの返事がない。
しまった。気軽に尋ねすぎたか。こいつの立場上、言えないことは山ほどあるはずで──。
「……私もずっと考えてたけど、それは99%ない。理由は3点」
あれ、答えてくれるのか。
「まず、現今の国際情勢のもとでわが国が関与する合理的動機を想定し難い。次に、仮にやるとしても6月4日は絶対に選ばない。西側各国のメディアが、例の事件にからめて騒ぐのは明らかでしょ。わが国の政府がそれを望むとは思えない」
例の事件とは、いうまでもなく六四天安門事件のことだ。現在の中国国内ではタブー……なのだが、当時を知る年配層や、アイスみたいな外交官なら、まあ普通は知っている。
「3つめ。さっきの電光掲示板。あんなの、中国政府系のハッカーは絶対にやらない。というより、できない」
「でも、天安門に関心を持つなんて、普通は中華系の人間だけだろ? 香港や台湾あたりのイカれた連中か?」
「わからないけど、それを祈りたいくらいね」
「ん?」
「仮に中国本土に犯人がいたら、火消しで忙しくて外交官が過労死する」
冗談のつもりらしい。
おもしろいかはさておき、こいつ、本当はそういうことも喋るやつなんだな。
それにしても、今回の攻撃はよほどの天才ハッカーの仕業だろう。この世界のどこかには、レベル99の大魔道士みたいなやつがいるのだ。そいつはきっと、IT業界のザコ戦士である俺たちが作った日本のサイバーインフラなんて、メラ1発で消し炭にできてしまう。
考えながら、国立博物館の前を左に折れた。
おれの行き先は──。谷中霊園内にある、天安門事件の小さな慰霊碑だ。
数年前、日本で参議院議員になった帰化1世の中国系日本人が建立したもので、当時は世界初の試みだとすこし話題になった。
おれの両親の墓は北京にあり、もう20年近く行っていない。墓参りのかわりに、命日にはこの記念碑に行くことにしているのだ。
「あれ? 昨日の」
やがて、東京芸大前の小道でアイスが小さくつぶやいた。
視線の先に、赤い首輪をつけたネコがいる。
見覚えがあった。昨夜、神社の境内で彼女が見つけ、逃げられてしまったあのネコだ。
目が合った。どうやらネコの側も、おれたちを覚えていたのか、しばらくじっとこちらを見つめている。
やがて──。
そいつはなんと、歯を見せて笑ったように見えた。
■
近所の花屋で献花用の花を買い、記念碑に手向けた。
交通網が麻痺しているにもかかわらず、朝からすくなからぬ人が訪れたらしく、すでに花束が5〜6束。「勿忘六四」(事件を忘れるな)と書かれた小さなメッセージカードもある。
周囲には年配の中国人の参列者が何人か。さらに、日本人の記者やカメラマンが──都内の混乱を受けて例年よりはすくないが、何社かいた。
中国の若い方の意見を聞きたいです、とレポーターのマイクを向けられたが、「おれ、日本人なんすよ」と答えたら相手が引っ込んだ。残念だったな。ついでに言うと年齢も全然若くないぞ。
ちなみにアイスは、ずいぶん遠くの木の陰に隠れてこちらを見ている。気配を隠して真面目に尾行中……ではなく、記念碑の近くでは誰に会うかわからないからだ。
なにより、ここで中国大使館員がカメラに映ると非常にまずいらしい。まあ、人目を引く若い女がこんな場所に来たら、マスコミの連中は間違いなくレンズを向けるよな。
しばらく黙祷してから、その場を離れた。
父さん、母さん。おれ、日本でひさしぶりに中国人の友だち──と呼べる人間かは極めて微妙だけれど、ひとまず普通に言葉を交わす知り合いができたよ。よりによって党の役人だが、なんだか苦労してそうなやつだ。だから、くれぐれも怒らないでな。
「おまえ、どうすんの? もう昼だけど」
霊園を出てしばらく歩いてから、合流したアイスに話しかけた。
「今日の夕方まで、いちおう任務を継続する必要があるわ」
「いや、メシだよ。たとえば近所の別々の店で食べたり、同じ店でも席を離していたりすれば大丈夫なのか」
ちなみに従来のケースだと、こいつはおれの外食時には店の外で立ちっぱなしだ。監視がはじまった最初期、大雪の日に外で笠地蔵みたいになっている姿を見て気の毒になり、おれは天候が悪い日はあえて地下街やフードコートに行ったり、夜に居酒屋で飲むときは治安がよさそうな地域を選んだりと、過去2年半にわたり考慮を重ね──。いや、なんで監視される側が気を使ってんの?
「どこかのお店でいっしょに食べても問題はない。今回は私が払うよ」
どういう風の吹き回しだ。
「大した理由じゃない。昨日、ごちそうしてもらったから」
「領収書は『中国共産党』で切ったりするのか?」
「え、ちょっと」
──笑った。
「やばい。どうしよ。あははは。ばあか」
ずっと笑っている。過去2年半ではじめて見た表情だ。
考えてみれば……。
30分後にカフェでこいつをかばったのは、このときのこの顔のせいである。
そして、おれは死んだ。
すくなくとも、あの時点では間違いなくそう思ったのだ。
つづきます