【第二十三章】2027年7月31日 界域突破作戦(アイスの物語)
「……いかがなさいましたか? お嬢さま」
長いコール音の後に、声が聞こえた。
彼は王昊天と2人でいるときでもない限り、わたしの電話には必ず出る。
「出るのが遅いわよ、チャガン!」
わたしはヒステリックに叫んだ。
応答までに一瞬の間があった。会議中なのだ。
すでに彼には、一方的なショートメッセージを20通くらい送っている。
「高田翔平にはがっかりよ! 帰国の件を伝えた際、彼がなにを言ったと思いますか? 『カネをくれ』ですよ。信じられる?」
「ならば再び拷問しましょう」
こともなげに言う。
「……いえ。それには及びません。でも、百年の恋が覚めました。彼はわたしのお金と地位が目当てだったのです。聞いてくださる!? 公園でザリガニを食べさられて」
「万死に値します。即時の逮捕を」
「待ってチャガン。わたしは具体的な解決を求めてるんじゃなくて、傷ついた気持ちに共感して寄り添ってほしいだけなの。もっと理解して!」
──さっき、情緒不安定そのものの夢を見たせいだ。
自分でもうんざりするほど、ものすごく面倒くさい女の演技ができている。わたし、本当にこういう人になってしまったらどうしよう。
昨日まで、わたしは翔平に病み気味のメッセージを大量に送った。チャガンはそれを見ている。漢字を拾い読みしただけでも、わたしの脆さは理解したはずだろう。
実際に翔平と再会して幻滅し、八つ当たりしている。
昼間の冷静な交渉とギャップがあっても、奇異には感じないはずだ。
「会議が忙しい? いつ終わるのよ。会議とわたし、どっちが大事なの!」
「本日23時まで重要な調整がございます。明日の建軍節式典が……」
内容のない話に、自分が知りたい情報の罠を混ぜた。
チャガンは本来、端的で簡潔な会話を好む。内心はじりじりして呆れているはずだ。今日1日、彼の業務は停滞している。
「わたしの値打ちを下げないために、高田に100万界幣A(約1500万円)ほど手切れ金をくれてやります。まあ、海南島のリゾート会員権も買えない端金ですわね。ちょっと、聞いてるの? この件、構いませんこと?」
「……仰せのままに」
わたしはスマホを握りながら、隣の謝雨萌に頷きかけた。
チャガンの予定をつかみ、資金確保の目処も立った。わたしから翔平の人民公社スマホに、上位層貨幣の界幣Aの大金が振り込まれてもすぐには怪しまれない。
ちなみにわたしのNCF-Payアカウントは、元首就任を受け入れた段階で、「品位を保つため」に2000万界幣(約3億円)が振り込まれている。出どころは、チャガン一派が白家復興のために貯めたポケットマネーらしい。
■
「おめえ、分厚い取説が必要なめんどくせえお嬢のフリが上手すぎだろ。こっちが本性じゃねえのか?」
「……違います。断じて」
謝雨萌は笑いまくりながら、机に向かってペンだけは動かし続けていた。
スマホに表示されたGoogle Mapsの画面をメモ帳に大急ぎで書き写しているのだ。縮尺を変えて、何枚も。
目的地までの距離は70キロ。
高速道路は存在しないが、道路はひとまずある。
道を間違えないよう、分かれ道や途中の村についてのあらゆる情報を記し続けていた。
道中で発生し得るリスク、出入国条件やイミグレーションの開放時刻まで調べ、行き先を第3候補までピックアップする。それぞれの道順を記す。
わたしと翔平が読んでわかるように。
──謝雨萌はスマホを3台持っている。
私用、業務用、そして極秘連絡用だ。
3台目のセキュリティは極めて高い。彼女が地下活動で使用する端末なのだ。
もちろん、界域のハッカーなら、どんな端末でもいつかは突破してくる。ただ、極秘端末を日本の回線にローミング接続し、国家機関レベルのVPN(通信匿名化ツール)を噛ませれば、検索内容を知られるまでにかなりの時間稼ぎができる。
端末の出どころは意外な人物だ。
「陳さんを覚えてるか? おまえに正体がバレた日に話した、大使館宿舎の盗聴担当の人だ」
さっき、謝雨萌はそう話した。
覚えている。わたしたちの部屋は、この人物の手で盗聴器を外してもらっているからだ。
陳さんは中国国家安全部、つまり情報機関に所属する40代の女性である。任務は大使館員の動向監視と、宿舎内の会話盗聴だ。ただし。
「重めの腐女子でな。職業柄か、PLO×モサドとかタリバン×CIAでイケてしまう業の深い逸材だ。あたしもネーム段階から作品の相談をするくらいの仲で」
なので、陳さんとしては創作者を守っていきたい。ゆえに彼女は、国安が対日諜報用にカスタマイズしたシークレットスマホを、適当な理由をつけて謝雨萌に貸与しているのだ。
わが国の軍・公安や情報機関の末端において、この手の特権の乱用はそこそこ多い。まあ、多くは汚職や異性関係が目的なのだが。耽美漫画のためにやる人は陳さんくらいだろう。
──いっぽう、翔平だ。
彼は外出中である。すでにわたしからの「手切れ金」を送っておいた。現在、彼は人民B層エリアの金行で、ほぼ全額をはたいて金を購入しているはずだ。小型インゴット、薄片金板、ネックレスなどのさまざまな形で。
電子通貨の界幣は、利用履歴を追跡される。しかも、社会階層をまたぐ決済にはアラートが出る。だが、金なら問題がない。物々交換で、足がつかないアンダーグラウンドな支払いも可能になるのだ。
仮に翔平がチャガンからの電話で購入意図を聞かれても、生活のために金を買って持ち帰ると言い抜ければ、説得力がある。中国人は何百年も前から、この方法で国境を越えて資産を移動させてきたからだ。
わたし自身、このあとで謝雨萌と、成金娘のフリをしてホテル内カジノに併設されたジュエリーコーナーを訪れるつもりだ。購入する貴金属は、友人の彼女に「買ってあげる」ものも合わせて200万界幣(約3000万円)分くらいを予定している。
いきなり2000万界幣のおこづかいを無課税でもらった、党高官の娘。その常識の範囲内で、さほど怪しまれないギリギリの「浪費」金額である。
■
わたしたちが動きはじめたのは、いまから30分前だった。
「おい、逃げるぞ」
うなされていたわたしを、翔平はそう言って起こしてくれた。
無理だと思った。ここは界域なのだ。
「おれもそう思う。でも、作戦を立てた。成功率10%くらいだが、確率を上げたい。おまえもチェックしてくれ。寝起きにすまないが」
そんなことをすれば、翔平が危険だ。
ハイリスクな行動を取らなくても、あなたは明後日に無事に日本に帰れる。
「それじゃ意味がない。おれが嫌だ」
「わたしの意思は?」
「どう見ても明らかだろ」
「横浜いきたい」
「そうだ。だからおれも、諦めない。絶対行くぞ」
そう言って翔平は後ろを向いた。
試しに手を伸ばすと、ちゃんと背中に触れることができた。
よかった。これは現実なのだ。
睡眠時の二重夢、つまり夢のなかで夢を見る現象は、精神的に疲弊して脳が過剰覚醒したケースで起こりやすい。わたしが見たものは、フロイトだのユングだのを持ち出すまでもなく、残酷なほど生々しい2つの未来だった。
自分が生きたい真実は明らかだ。一瞬で終わらせたくない。
これからも最後まで、人間であり続けるためにあがいてやる。
「でも、危ない橋を渡る。おれもおまえも、多少は悪いやつになる覚悟が要る」
「わかった」
成功する可能性はわずかでも。
ちょっとだけ、悪いやつになったとしても。
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界域からは陸路で脱出する。
最低限の荷物だけを持ち、ふらっと出かける。途中、どこかで別の交通手段を調達する。
GPS追跡を防ぐため、スマホの電波は遮断する。つまり、移動中は地図で現在位置を確認できない。謝雨萌がさっきまで国安スマホで調べ、紙に書いてくれた情報が命綱だ。
逃亡するのは、わたしと翔平だけである。同行のリスクが大きすぎることと、人民曰報の記者に界域も無茶はしないという判断から、謝雨萌は残る。
逃げるのは今すぐだった。
今夜、チャガンは23時まで身動きできない。しかも、明日8月1日は中国人民解放軍の建軍記念日で、界域でも午前中に記念行事がある。儀礼嫌いの王昊天は出ない可能性もあるが、軍・警察部門のトップのチャガンは必ず出席する。
わたしたちは国境付近に深夜のうちに到着して身を隠し、チャガンがまだ動けない8月1日の早朝にイミグレーションを抜けるのだ。
なお、陸路でも南のタイ国境や北の中国国境は、界域の管理下にある。空港からの出国と同じく拘束される可能性が高い。かといって西のミャンマー本土は内戦中だ。
向かう方角は東だった。
メコン川の向こう。
最もマイナーな隣国の、ラオスの山岳部に逃げる。
ラオス側が手薄なのは、新中華界域の事情が関係している。
界域の支配領域は、日本の本州の半分くらいの面積だ。ただし、そのコアエリアは、タイ国境のタチレクから首府の界延安、を通って、中国国境のモンラに抜ける大延大高速公路のラインに限られている。
日本に置き換えると、宇都宮→東京→静岡間の幹線沿線の数都市と、都市間の交通インフラだけが超先進国、みたいな感じだ。
界域の強固な支配は点と線に限られ、その他の地域は近隣の東南アジア諸国の田舎と大きく変わらない。
しかも界域政権は、コアエリアよりも東(ラオス側)に対する関心が薄い。
西方面(ミャンマー本国側)は、征服の対象となる広大な土地が広がり、中国やタイとの貿易利益も見込めるおいしい地域だ。しかし、東方面は山とメコン川しかない。その向こうは、ラオスの貧しい田舎。つまり伸びしろが薄いのだ。
住民たちは非籍民が多い。つまり、現地のシャン人などの少数民族だ。彼らは中国語と中国文化を身につけない限り、界域の「人民」(中華の民)にならない。戦争ショウで暴発させられる傘下の地方軍閥も、そうした存在だ。
界域は中国人の外来政権で、権力が確立されてからの歴史も浅い。地域の先住民の同化支配は、まだ進んでいないのだ。
──ラオス国境は、統治の穴の象徴である。
建付け上、界域はミャンマーの経済特区だ。なので、貿易の利益が薄く、周辺も非籍民地域であるラオス国境の管理は、ミャンマー政府の顔を立てる目的であちら側の人員に任せている。首都ヤンゴンの国軍政権の、一種の飛び地である。
ヤンゴン政権の腐敗は深刻だ。
この国境なら、係官に金を握らせれば通してもらえる。
■
「念のために再度確認するが」
戻ってきた翔平が、ホテルの廊下を歩きながら小声で尋ねた。
「おまえのクソ上司、本当におれの顔を知らないんだよな?」
「うん。謝雨萌も言ってたでしょ。保証する」
そう答え、インターホンを押した。界域側がわたしたちと別棟の安い部屋を準備したのは、この人は不要、という判断ゆえだろう。
わたしも彼は不要だと思う。しかし、いちおう会っておく必要がある。
かなり長く待ってからドアが開いた。
「ああん? 白か。なんだお前。わしは業務で忙し──」
わたしは驚いた。
頭をてらてら光らせた見知らぬ男性が、宋科長の声で出てきたからだ。服装は裸にバスローブをまとっただけの気持ち悪い姿で、部屋からはもっと気持ちの悪い臭いが漂っている。室内に、ほぼ裸体の女性2人の姿が見えた。相変わらず最低だ。
この最低男性は、話の途中でなにかに気づき、「ちょっと待て!」と怒鳴ってドアを閉めた。数分後、おなじみの宋科長が顔を出す。頭髪の全体が右に大きくずれていた。いろいろと事情を察した。
「あの、許可を求めにきました」
ああん。と、いつもの居丈高な口調で宋科長は言った。
「おなかが痛いので、早退していいですか。界域から」
「ダメに決まってんだろうが」
そうなのだ。
形式上、わたしは大使館の指示で出張中である。上にとってはどうでもいい仕事とはいえ、途中で帰る場合は上司の許可を得なくてはならない。地味にハードルが高い問題だった。
「白、ハラが痛いとはなんだ……。ははあん、わしは達人だからニオイでわかる。あれだな」
にちゃあ、と笑う。ものすごく気持ち悪い。
なぜわたしは、こんな上司がいる日本に帰りたいのだろう。一瞬思った。
「で、誰だ? 隣の色男は。任務を放りだして駆け落ちか??」
無駄に正解しないでほしい。
「はじめまして、宋閣下。わたしはマツモトヤスシ界延安エリアマネージャーで、日本人駐在員の山田です」
翔平は宋科長の冗談を無視して、でたらめを言いはじめた。高校時代にバイトをしたドラッグストアの名前を出している。
「傑出した外交業績から、閣下は次の駐大阪総領事の呼び声も高いと。白希冰さんに教えていただきまして」
「うん、まあ、耳が早いね君は」
そんなわけないでしょうが。
「つきましては、弊社も総領事閣下とお近づきになりたく。……ご存じですか。このゼリーを?」
その後の話に、詳しい説明は不要だろう。
翔平は、わたしが副業でこっそり彼らのバンコク支店で働きたがっていると適当に並べ立てた。そして、部下の任務放棄を黙認する見返りとして、宋科長にゼリー3パックと金5gのミニインゴットを賄賂として渡したのだ。ゼリーは先日の病院で失敬したという。
「白ぅ、未熟なおまえにもようやく外交官の自覚が芽生えたなあ」
人間として終わっている提案にあっさり買収された宋科長は、ニンニク臭い口でゼリーをビュッと吸うと、満面の笑みで部屋に引っ込んでいった。
やがて、閉じたドアの向こうから「おじさんオオカミになっちゃったよお!」と遠吠えが聞こえてきた。
ゼリーの作用は、わたしも界域幹部のノイナーから聞いている。
嫌悪感しかないが、助かるためだ。仕方ない。
ついでに宋科長、ずっと界域にいてくれないかな。
■
午後9時過ぎ。
わたしたちは、ホテルで手配してもらったEVリムジンに揺られていた。
謝雨萌と夕食を食べに行く。途中から自分で運転してみたいので、手動運転モードのロックをオフにしてほしいと頼んだうえで、外で待っていた翔平を拾ったのだ。
行き先は、界延安の南壁の外の展望台近くにあるヒルビューレストランだ。謝雨萌は途中までは着いてきてくれる。
壁を出たところで停車、翔平が運転する。わたしと翔平はスマホの電源を切り、謝雨萌が愛用する電波完全遮断袋に入れる。
翔平は途中で右折し、1車線の細い道に入っていった。路傍に人家がまばらな道で、周囲はジャングルだ。
いつまでもこのEV車で移動する気はない。車両は間違いなくGPS追跡されているし、盗聴器が設置されている可能性もある。
界延安の郊外でも、山のほうにはシャン人の非籍民たちが住んでいる。
雑貨屋の前で停車した。東南アジアの田舎に多いボロボロの店で、小分けにした洗剤やシャンプーの袋が店先に吊り下げてある。あらかじめ、謝雨萌が国安スマホで調べて見当をつけた店のひとつである。
彼女が自分の私用スマホで、まずは界幣で決済して水を買う。それから国安スマホを立ち上げ、シャン語のAI翻訳文を無言で見せる。
店内に監視カメラは見当たらない。仮に非籍民たちのスマホが界域の盗聴型マルウェアに汚染されていても、声を出さなければわからないはずだ。
ソーという名前の店主と、隣家から遊びに来ていたラートという男が、裏の納屋に案内してくれた。界延安空港の建設で地元の村がなくなり、近所ぐるみで移ってきた人たちらしい。
ちょっと古いガソリンバイクと、界域電工の新品EVバイク。ここで車両ではなくバイクを選ぶのは、万が一に検問があったときに回避しやすいからだ。
GPS追跡の可能性がない古いガソリンバイクを選ぶ。
口止め料も含めて金10gインゴットを3本渡した。翔平によると、金価格は1gで2万円くらいだ。十数年落ちの中古バイクの相場としては破格である。ソーたちは手早くバイクを整備し、タイヤの空気も入れてくれた。
「あとはなんとかする。日本に帰ったら、あたしと陳さんにクッソエモい駆け落ちの物語をじっくり聞かせろ」
謝雨萌とはここでお別れだ。わたしがハグをすると、彼女は耳元でそう囁いた。
メガネの奥の瞳が潤んでいる。わたしもそうだ。
ドライブレコーダーにわたしたちが映り込むのを防ぐため、彼女が先にEVリムジンで去った。例のレストランに行ってたらふく飲み食いしてから、ホテルに戻るのだ。チャガンに尋問された場合は、「手動運転で郊外に迷い込み、雑貨屋で水を買っている間に2人が徒歩で逃げた」と証言するつもりのようだ。国安スマホは帰路に破壊して捨てるという。
バイクは、タイ・ホンダ製のZOOMER-Xといった。
ヘルメットをかぶる。
ガソリンバイクをすぐ近くで見るのは人生初だ。幼少期に乗馬の経験があるので、二人乗りはいちおう大丈夫だと思う。
ラートになにかを手渡していた翔平が、バイクにまたがった。
わたしも慌てて乗る。
「走行中に後ろで寝るなよ」
出発した。
自由のために走るぞ! とか、かっこいいセリフを言うかと思ったが、無駄にヒロイックになれない局面ということか。これからが大変なのだ。
わたしは彼の腕の下に手を回した。
寝ない。あの夢はもう見たくない。
逃げてやる。
わたしが、未来の世界でも人間でいるために。




