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【間奏5】2035年9月3日 ひとときの真実(聖母の物語)

 ──早朝。

 千代田線に揺られ、綾瀬駅で下りる。

 建物の影から東京スカイツリーがちらりと見えた。いつもの景色だ。

 わたしの荷物は仕事用のバッグと、卵焼きを入れた紙袋である。


 尖椒じえんじゃお煎蛋じえんだん。青唐辛子入りの中華風卵焼き。

 りぃじぇに作り方を教えてもらったのに、昨夜4回ほど失敗してしまった。でも、最後のこれは会心の一作だった。


 実はわたしは、料理がまったくできない。

 過去、家事はすべて阿姨メイドまかせ。教えてくれる親もおらず、身につける機会がなかったのだ。

 日本に来た3日後、油を引くのを忘れて目玉焼きを作って焦がし、あやうく消防事案になりかけた。当時はまだ関係が悪かった謝雨萌からネチネチと嫌味を言われ、つい最近まで料理を封印してきたのである。

 でも、これからはがんばるのだ。

 食べてほしい人がいる。


「お、すげえなこれ。むちゃくちゃうまいぞ」

 わたしの──。

 いいや。もう、認めちゃおう。

 わたしが大好きな人は、尖椒煎蛋をごはんに乗せて幸せそうな顔で食べてくれた。


 朝の北京亭は、わたしのためだけの食堂だ。

 カウンターに、シュールな顔のカモメの木彫り人形が置いてある。横浜のお店でわたしが大笑いして、彼が「連れて帰ってやる」と買ったのだ。

 今朝はその隣に写真立てが置かれていた。

 ごく幼い彼と、両親が写った白黒の家族写真。

 3歳の彼はなかなかかわいい。お父さまとお母さまは──。どこか寂しげな雰囲気も感じるが、幸せそうな表情だ。


「ねえ、ご両親って、外交とか翻訳関係の人?」

 写真の右下に、古い筆跡の書き込みがあった。

「いや。父さんは大学の中国文学科の講師で、母さんは販売員だ」

「この書き込み、フランス語だよ?」

 流暢な筆記体である。細いマジックペンで書かれ、月日でなかば退色している。


 C’était réel, juste un instant.(それは真実だった、ほんのひとときの)

 Je vous aimerai à nouveau. C’est une promesse.(私は再び、あなたを愛すると誓う)


 わたしは読める。だが、なにを意味しているのか。

 彼の両親は、たぶんフランス語はできない。真実(réel)ひととき(instant)という言葉選びも、家族としては奇妙だ。 

 それどころか、これって──。

 いや。自分の思いつきを追い払った。あまりにも荒唐無稽だ。


「それよりおまえ、今日の勤務は?」

「あるけど、なんとでもなる」

 彼が笑った。

「じゃあ、おれは()()()鎌倉にでも行くかな」

 やったあ。大好き。

 わたしは水を取りに行くふりをして立ち上がり、自分の大切な人の背後に回った。

 首筋に抱きついてしまえ。

 いいよね。前に界域でも同じことをしたし。

 あのときは大泣きしていたけれど、いまは違。


 ……()()

 おかしい。

 わたしはどうやって。あそこから出て、彼とここにいるんだ。

 

 周囲がぼやけはじめた。そろそろ目が覚めるのだ。

 「嫌!」と大きく叫んで、目の前の彼を抱きしめた。

 両手が空を切り、わたしは暗闇のなかで前のめりに倒れた。


「……白希冰元首」

 侍従長の(ざん)(ゆぃ)(ろん)の声で目を覚ました。わたしは首をうなだれていた。

 深緑色の質のいいソファ。壁に掲げられた柳宗元の書。目の前にある紫檀の(こづ)くえは清朝の名品で、ショットグラスに入ったジンが半分空になって置かれている。龍が細やかに彫刻された翡翠の灰皿。さっき吸いかけていたタバコは、すでに片付けられていた。

 ああ。すこし意識を失ったか。

 5年ほど前から、昼間でもジンが手放せなくなった。

 足取りさえふらつかなければ構わない。どうせ自分はただの置物だ。


 わたしはさっきまで、天安門の楼上で戦車の洪水を見ていた。

 中華全人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利90周年記念式典。

 中華民族の勢威を示す軍事パレードだ。

 わたしは王昊天とともに、中国主席の隣に立って閲兵した。隊列には界域軍も加わっているのだ。


 新中華界域は、わたしの加入の2年後に独立を宣言し、中国と軍事同盟を結んだ。

 中国は界域の技術に支えられ、翌年に台湾を()()。さらに東南アジアからアフリカに至る各国と一帯一路恩恵連盟条約を──。つまり彼らを属国化した。

 アメリカはまだ存在する。だが、脅威ではない。

 パーマストン・ドラッグによる社会混乱。サイバーテロと認知戦。界域の工作の結果、アメリカ国内では愚昧なトランピストとリベラル偽善者たちがもう5年も内戦をやっている。国連もNATOも崩壊した。在日米軍はとっくに撤退して──。

 

 だから何だ。外交官みたいなことを考えてどうするのか。

 あんな夢を見たからだ。

 わたしはジンの残りをあおった。


 界域に加わってから、過去の知人とは連絡を取っていない。

 謝雨萌。李姐。仁間。そして──。

 26歳のたった2ヶ月間。金銭的利害も権力バランスも考えないで、わたしと接していた奇特な人たち。わたしを人間に戻しかけた人たち。

 いらない。

 人間じゃない者は、そんな連中と話す言葉を持たない。


 そうだ。わたしは人間じゃない。

 すくなくとも、人間じゃない存在の遺伝上の母親だ。


 ──白啓衡ばいちぃはん。6歳。

 わたしの卵子と、人民解放軍から選抜された最も優秀な血筋と遺伝子を持つ中国人男性の精子を、試験管で混ぜた受精卵。それに徹底的なゲノム編集を加え、代理母に植え付けて出産させた、究極の中華民族。

 親族の白錫来のDNAをすこし混ぜ、「男系の白家の子」としてデザインしたと聞いている。

 異常に知能が高く、1歳になる前から本を読んでいた。現在は四書五経すべてと毛沢東選集の全巻を平然と暗唱する。目下のおもちゃは核兵器起爆装置のアルゴリズムとポスト量子暗号理論、ブラック-ショールズ偏微分方程式だ。

 病気をしない。発育は異常に良好で、すでに12歳くらいに見える。50メートル走のタイムは4.9秒。趣味は自分で改造したAIスマートライフルを使い、フィールドに放させた人民C層の多重債務者たちをヘッドショットして遊ぶことだ。

 なんて子だ。

 ……いや、子?

 そもそも、自分が彼の母親だと思ったことがない。

 妊娠の苦労も、出産の痛みも、母乳を含ませた経験もないのだ。育児は専門のスタッフが担当している。わたしがやった唯一の仕事は、界301医院産婦人科の特別個室の白い天井を見つめながら、処置をおこなう耶律淑珍の言葉に相槌を打っていたことだけだ。


 わたしは結婚していない。

 結婚した場合、中国人の血族概念では、子は白家ではなく夫側の一族の子どもになる。加えて夫を持てば、その親族が政治的に無用な権力を握る。

 チャガンは当初、わたしを王昊天に嫁がせる案も検討した。だが、あちら側が「笑わない女」を嫌がった。先入観に反して、平素の王昊天の性格は陽性なのだ。

 加えて、美しき女王は永遠に純潔であれ──。という、権力者の男性たちのばかげた理想も反映されたらしかった。笑わないが清らかな女。下々の者からのあだ名は「氷の聖母」である。

 くだらない。

 白啓衡が()された後、汚染のない卵子の提供元としての役割が消えたわたしが、ジン以外の何で暇を潰しているのか。元首公邸に大量のゼリーが運び込まれていることは、知る人は誰でも知っている話だ。


 小几に目を落とした。

 ショットグラスにおかわりが注がれていない。臧獄龍に声をかけた。

 振り向いた顔を、翡翠の灰皿で思い切り殴りつける。グラスを叩き割り、土下座させた彼の後頭部に足でぐりぐりと押し付けた。

「……しかし、そろそろお時間なのです」

 踵の下から、苦悶混じりの声が聞こえた。


 服装を整えてから、中南海の地下指揮所に向かう。

 重要度が高い属国であるロシア・北朝鮮・パキスタンの首脳らとともに、ぞろぞろと戦略会議室に通された。続いて、中国主席と王昊天が入ってきて、前方の壇上に座る。

 会議とは名ばかり。わたしと属国首脳たちは、上の決定に拍手を送る側だ。

 中国主席は82歳だが、外見は40代なかばに見えた。界域の技術による臓器移植と美容手術で若返ったのだ。わたしも永遠に、見た目だけは26歳の白希冰のままでいるに違いなかった。


「9・18中華民族抗日自衛行動」

 人民解放軍の将官がブリーフィングを開始した。

 界・中両国による対日開戦計画だ。宣戦布告の日は、かつて日本帝国主義者が侵略戦争を発動した9月18日である。

 われわれは前もって、占領下の台湾の高速鉄道を自作自演で爆破、傀儡で残しておいた国民党のぢゃんづぉりん特区総統を爆殺する。そして、日本の自衛隊特務による先制攻撃を受けたと主張する。

 在日米軍は撤退済みで、日本に反撃能力はない。あとは報復自衛行動を名目に、横須賀・呉・佐世保・那覇の自衛隊基地を標的とする核ミサイル攻撃を──。


 その計画が、一部変更された。

 中華民族の恥をそそぐ戦いで、基地攻撃はまだ手ぬるい。経済的利益を犠牲にしてでも、日本の中心を地上から消し飛ばせという中国主席の強い意向が示されたのだ。

 結果、東京に5メガトン級の戦略核を打ち込むことになった。

 着弾地点は、東京スカイツリー。


 北京市内の高級ホテルに戻ったわたしは、コップにジンをどくどくと注いで飲んだ。

 記憶の底にある、嫌な建物名を聞いてしまった。

 低層マンションの切れ目から見えた、尖った塔。

 綾瀬、と書かれた千代田線の駅名。雑然とした街並み。

 その先に、看板の「北京」の赤色が半分はげた築30年2階建ての──。

 

 遠い世界の景色が浮かびかけ、わたしは頭を振った。

 ジンのあてに甘いものがほしくなった。AIルームサービスを開くと、特製の天津ソフトクリームがお勧めですと案内された。わけのわからない罵声を散々にわめいて、ジンの瓶をコミュニケーションパネルに叩きつけた。

 よろめきながら室内をさまよう。机の上の鞄に手が当たり、中身が床に散乱した。

 ここは界域ではなく中国本土だ。普段のわたしが入手を禁じられているものも、それなりの手段を通じて手に入る。

 赤い錠剤。パーマストン・ドラッグ。

 1粒どころか半粒でも効果がある代物だ。

 ありったけの錠剤を口にいれ、ジンで一気に流し込んだ。


 数歩歩くと視野が暗くなり、足がもつれた。

 わたしは暗闇のなかで前のめりに倒れた。

 うわごとをつぶやいた。


 C’était réel, juste un instant. (それは真実だった、ほんのひとときの)

 Je vous.. (わたしはあなたを……)


 こういう、意味か?

 違う……。気がする。

 あの人……。名前……。

 もう思い出せなくて……。


「嫌!」


 最後にそう叫んだとき、誰かに肩をつかまれた。

 世界でいちばん大切な人の手が、無明の闇からわたしを引っ張った。

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