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【第二十二章】2027年7月31日 お豆腐外交官(翔平の物語)

 おれは狭い後部座席で身体を縮めていた。

 車内の温度が冷えているのは、過剰運転気味のエアコンのせいだけではないだろう。


 彼女はスーツのスカートに右手の爪を立て、目元をぴくぴく痙攣させていた。

 いつものアーモンドアイが、尋常じゃない厳しさでフロントガラスに表示中のARナビを睨んでいる。

 自動運転車でよかった。

 運転手がいれば、おびえてハンドル操作を誤りかねない。


「……ありがとう。おまえもしんどかったよな」

 おれは言った。返事がない。

 アイスは下唇を噛み、車窓に広がる椰子の並木と高層ビル街に視線をそらした。

 ひざの上の手を、ぎゅっと握りしめている。


 短い付き合いじゃない。もう知っている。

 こいつが異常に近寄りがたいときは、本人が気まずかったり、感情の揺れ動きが激しいときなのだと。


 7月31日、午後4時。

 界301医院の麻酔準備室に踏み込んだアイスは、制服姿の()()たちをびしばしと指揮しておれの身体拘束を外させ、ストレッチャーを運ばせた。おれはさっきまでの個室に戻り、服を着替えた。

 彼女が引き連れてきたのは、チャガン以下、白家系の公安部隊の者たち5人だった。メンバーにはなんと、昨日までおれを責め苛んでいたざんゆぃろんも混じっていた。

 ベッドの上に適当に脱ぎ捨てられたおれのシャツとズボンを、彼が丁寧にたたみ、人懐っこい笑顔すら浮かべて差し出してくる。さすがに驚いた。

「お食事は抜きだったと聞いています。近くでなにか食べていかれますか?」

 丁重に断る。彼は先日、チャガンから拷問を命じられたときと同じ声で「かしこまりました」と応答した。

 阿鼻叫喚の拷問もかいがいしい身辺の世話も、ただの仕事なのだ。そこに憎悪や悪意はない。だが、親愛の情も人間性もありはしない。

 アイスの新たな臣下は、そういう人間たちだった。


「お嬢さま、リムジンでお送りいたします」

 着替えたおれが部屋を出ると、チャガンがうやうやしい態度で主人に話しかけていた。

「結構。車は自分でアプリで呼びます」

「しかし」

「くどい。2度言わせないで頂戴。この界域のあらゆるものは、主人のわたしがどう使おうと勝手なのです」

 ぴしゃりと退け、スマホを開く。

 チャガンの表情は、妙に満足げだった。


 病院入口。

 アイスは車両選択ボタンを押し間違えたらしく、トゥクトゥクに毛が生えたような後部座席2人乗りの黄色い三輪EV車がちょこんと停まっていた。

 後ろも振り向かずに乗り込む。おれはチャガンたちにすいませんと一礼してからあとに続いた。

「おやあ。隅に置けないねえ。こんな子といつ出会っ」

 見送りに出てきた耶律淑珍を、アイスが車内から睨みつける。

「ありゃま。この子は鬼嫁だよ。うちの息子に嫁いだら、あたしゃ困っちまうね」

 淑珍は小区(ちょうない)の極悪嫁が、善良で()弱く美しい姑をイビった事例をいくつもあげつらいながら、院内にトコトコと戻っていった。

 チャガンたちの部隊は、主家の(あるじ)が乗る三輪EV車が見えなくなるまで、外で最敬礼を続けていた。


 車内でカバンをまさぐる。

 おれの私物は、新品のTUMIのビジネスバッグにまとめて入れて連中から返してもらっていた。バッグはおわびのプレゼントらしい。

 自分のスマホを開いた。

 昨日夕方──。

 つまり、チャガンがおれのスマホを使って、「もう連絡するな」と勝手にアイスに返信してからの未読件数。

 1件。

 「好的(わかった)」と一言だけだ。

 ただ、その上に15件ほど送信を消去した痕跡があった。

「これ、なにを」

 聞いた。

「……」

 彼女はなにか言いかけて黙った。おれと目を合わせない。

 そして、眉間に皺を寄せながら氷の結界に引きこもり、現在にいたる。


「水、飲むか」

 さっき臧獄龍からもらった、小さなペットボトルが2本あった。

 アイスはそれをひったくるように受け取ると、一気に半分くらいごくごくと喉に流し込んだ。

 なんだか懐かしいな。この反応。

 ふう、と大きく息を吐いて目を閉じる。

「……ごめんなさい。わたし、むかしみたいなことやってるよね」

 キャプを閉めて返してくる。


 受け取ろうとして、おれが右手を伸ばすと、両手でぎゅっとつかまれた。白い手が氷のように冷たい。

 ペットボトルをシートに置き、そのままつかんで離さない。そして、おれの手の甲を大事そうに自分の口に近づけた。目をつむり、唇に押し当てる。

 手の甲に水分を感じた。指の背に硬い感触があった。アイスはぼろぼろ涙をこぼしながら、ハムスターがひまわりの種をかじるような仕草で、おれの人差し指を甘噛みし続けていた。

「あのさ」

 おれの言葉に、なにかを言おうとして口を離した。しかし、しゃくりあげてしまい会話にならない。

 抱きついてくる。そして、うっうっと声を殺して泣きはじめた。

 いつもの髪の香りにすこし、汗の匂いが混じっていた。今日1日、無理をしてずっと気を張っていたんだろう。

 おれは左手を大きく回し、彼女の左肩をぽんぽんと叩いた。

 アイスがようやく顔を上げた。真っ赤な目をしていて頬がベタベタだ。アイラインが溶けてにじみ、目の下が黒くなっている。拾った豆柴の子どもみたいな顔になっていた。

 またなにか喋ろうとする。言葉にならず、おれの服に顔をうずめた。


「大丈夫だ。ちょっと先になるかもしれないが、いつか、横浜に」

 なだめようと思い、髪の毛をなでた。柔らかいマッシュボブがふるっと揺れた。

「……りなの」

 なんだ、聞こえない。

「……むり」

 どうした。

「いけないの」

 過呼吸気味で、声が気の毒なほど震えている。

「よこはまも」「じんじゃも」「あなたと、もう」

 絞り出すようにしてやっとそれだけ言うと、「嫌!」と大きな悲鳴を上げて泣きわめいた。


「……ひとまず。高田の生還を祝して乾杯だ。ここはあたしのお気に入りの一曲を」

 ホテルの謝雨萌の部屋。

 彼女はグラスに王老吉を注いでおれに突き出すと、テレビをつけてスマホのBluetooth機能をいじりはじめた。

 室内のBOSEのスピーカーから、とんでもない爆音で電波系アニメソングが流れ出す。

「こんなときにふざけるな。せめて音量を下げろ」

 彼女の耳元で言った。

「……何もふざけていない。ただの盗聴対策だ。長年の地下(BL)活動(執筆)歴を舐めるな」

 謝雨萌がおれの耳元にささやいた。すまん、と応じる。

 アイスはすこし落ち着いたものの、室内のベッドに座ってうなだれている。

「……なにがどうなったのか、おれに聞かせてくれ」


 ──謝雨萌の話によれば。

 昨日の夕方、チャガンが送った偽メッセージを受診したあと。アイスは一瞬放心し、それから10分間ほど「やつの名誉のために伏せてやる」と謝雨萌があきれたレベルで激しく動揺した。

 だが、ひと通り荒れてから真顔になると、突然ロボットみたいに立ち上がり、猛烈な速度で思考を開始した。

 ……ふだん、おれとアイスのRINEは日本語だ。おれは中国語の書き言葉が苦手で、ボイスメッセージ以外ではほぼ使わない。なのに、妙に整った文体のメッセージが送られてきた。

 誰かが代わりに送信したのではないか。考えるに、おれは死んではいないが、拘束されてむりやりパスコードを解除されるような状況にある。拘束者はおそらく中国人だ──。あれが仮にAI翻訳なら、中国語ではなく日本語で書いてくるはずだからだ。

 マフィアの拉致や、通常のスパイ容疑による拘束の可能性も低い。それならば、あんな文面を送る意味がない。

 彼女がおれと交流することを阻止する意思。そして、他者を拘束できる組織。それらを持つ人間は限られる。

 チャガンだ。

 ──ここまでの推理に15分。

 その後、おれが相当ひどい目に遭わされている可能性が高いことに思い当たり、アイスは再び10分間ほど泣き叫んだ。謝雨萌になぐさめられ、自分の頬を殴りつけてから推理再開。

 

 自分が界域に呼ばれた理由も、アイスはすでに見当がついていた。

 シーラの暴走行為の謝罪にしては──ちなみに彼女は「お嬢さまに万死に値する危害を加えた」とチャガンが激怒して今回は出禁らしいが──、接待のレベルが異常である。よほどの目的があると考えたのだ。

 界域の幹部たちは、有能なのに本国で冷や飯を食わされた者が多い。チャガンはもちろん、親中的すぎてルワンダ外務省で警戒された廬凱、武漢の研究環境を失った耶律淑珍もそうだ。1ランクが下の幹部にも、アメリカから来た華人弁護士のイーサンというやつがいる。

 ──自分はスカウトされる。しかも、相当上位のポストで。

 ニセ返信を受け取ってから1時間弱。

 アイスは精神的に限界まで追い詰められながら、おれと自分自身が置かれた状況を9割方まで正確に把握した。

 次のフェイズは、手持ちのカードから解決(ソリュー)方法(ション)を考えることだった。


「……この人材を活用できてない中国大使館って、あほじゃないのか?」

 おれは言った。仮にあいつが並の人間なら、おれはいまごろ医院で淑珍たちのおもちゃにされている。

「マジで大使館はあほだと思うぞ。しかもこの女、7月28日の夜からろくに寝てないくせにこの処理速度だ。メンタルお豆腐姫のくせにな」

 ベッドに目をやった。

 お豆腐姫は驚異のフル稼働で完全にシステムダウンしたらしく、上半身をキングベッドに投げ出して寝息を立てていた。

 謝雨萌に彼女の靴を脱がせてもらい、俺が上半身を引っ張ってしっかり寝かせてやる。

 目尻に涙の結晶が残っていた。ベッドサイドに放り出されていたクレンジングシートで拭いてあげると、アイスは寝ぼけたまま、おれの手に頬をすりよせた。

 電波系アニソンが3曲目に突入し、男性声優のイケボが部屋に響き渡っていた。


 7月30日夜、アイスが推理を完了したところで、チャガンから電話があった。翌朝、彼の勤務前に朝食を摂りながら話をしたいという。

 いざ聞いてみた話の内容は、彼女が事前に想像した通りだった。

 さすがに象徴元首にされるとは思わなかったそうだが。この件が、界域の最高幹部7人のあいだでは共有されていることも判明した。

「……かしこまりました。わたしも白家の娘です。王昊天閣下には謹んでお受けいたしますとお伝え下さい」

 ただし、唯一の条件。

 おれを拘束先から連れ帰る。

 チャガンはそれに相当な難色を示し、本来の勤務をすべてキャンセルして延々とアイスを説得したり、王昊天に連絡するために何度も席を外したりした。しかし、彼がシガリロを1箱カラにした午後2時半、困難な交渉はようやく妥結点に達した。

 結果、チャガンを通じて白家系の公安部隊が召集され、おれはすんでのところで救出されたのである。


「……横浜には行けない」

 そういうことだったのか。

 かなりのショックがあった。

 さすがに、あいつに対する気持ちに正直になるべきだと考えたところで、これだ。

 どうすればいいんだ。

 気は進まないが、おれも界域に残るか。相手が女王さまでは気軽にデートはできないが、界域の幹部たちはフットワークが軽い。会うことはできるだろう。せめて人民B層に入れば、これからもあいつに会える。それが無理でも、すぐ近くで見ていられ。

 ……いや、だめだ。

 王昊天は能力の継承方法を知りたがっている。たとえアイスが重要な人材であっても、やつにとっては能力の奪取のほうが優先順位が高い。

 いっそ、秘密を伝えて界域内での地位を得て、もっと堂々とアイスと──?

 論外だ。世界を滅ぼしかねない材料を親の仇に与えて、好きな女といっしょにいたがるやつなんて、おれなりの倫理観ではクズだと思う。いい歳をして青臭いが、そう思うから仕方がないのだ。そんな行動をするやつは、おれじゃない。

 仮におれがそうしたとして──。すくなくとも、あいつを幸せにできる人間では一生なくなってしまう気がする。あいつの人生を閉じ込める檻の側に、おれが回ってどうするんだ。

 じゃあ、やはり界域に残り。いかん、堂々巡りだ。


「高田、悩みは察する。実にエモくてシコい愛の物語だが、これは創作でこそ輝く。リアルの友人が困るのは見たくない」

 謝雨萌が言った。その通りだが、シコいって何だよ。

「苦しむお前にさらにキツいことを伝えなきゃならん。このお豆腐姫が、おまえを助けるためにチャガンと交渉した妥結点の内容だ」

 ──明後日8月2日。

 午後14時発の新界域航空802便におれを押し込み、アイスはそれを見送る。それを今生の別れとして、以後は高田翔平はこの世に存在しないものと考え、界域の女王として白家の復興のために尽力する。

「……おい」

「あいつを責めるな」

 謝雨萌が言った。

「タイムリミットがあるなかで、おまえの救援という最優先ミッションの達成だけを考えた交渉を、奇跡的に成立させたんだ。仮にあいつが外交官じゃなきゃ、そもそもお前はいま、ここに座ってない」

 ベッドに目をやる。

 お豆腐メンタルの天才外交官は、寝言をつぶやき続けていた。


”チャガン、わたしは白家のために”

”日本での暮らしは忘れ”

”でも明日から1日半だけ”

”わたしをまだ……。わたしでいさせてください”


 こいつの夢のなかでは、今日の8時間にわたるギリギリの折衝がまだ続いているらしい。

 責められるはずがない。感謝しかない。

 しかし。おまえ、それで本当に納得できるのか。


「……常に相手の意思を気にするのはいいことだ。だが、お前自身はどうするんだ。高田?」


 謝雨萌はメガネをかき上げ、キツネみたいな目でおれを見た。

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