【第二十章】2027年7月30日 中国公安部フルコース(翔平の物語)
窓のない部屋。つけっぱなしの電灯。
いちおう、まずい食事は出てきた。だが、約30分おきに出たり、逆にずいぶん長く出なかったりとタイミングがデタラメだ。日付をわからなくする目的らしい。
睡眠は常に妨害された。すこしでも目を閉じると水をぶっかけられたり、耳元に大音量で中国の愛国歌謡を流されたりする。
時間感覚を狂わせ、眠らせずに精神を限界に追い込む。中国系の公安組織が得意とする拷問のようだ。
責め苦はさらにあった。
手足を老虎凳と呼ばれる特製の金属椅子に固定。身動きが取れないところに、罵倒、殴打、放水。さらに手首を縛って天井から吊るし、警棒でめった打ち。火花を散らす電気棒を身体に押し当てて通電。
気持ちの悪いピンク色をした謎の薬品を注射する、ずっと同じ姿勢で立たせ続けるといった拷問もある。それらを繰り返しながら、
「お前は一生ここから出られない」
「日本にいる家族を皆殺しにしてやる」
と、耳元に囁いて脅し続ける。
──まあ、平気だ。
おれは別にこれぐらいなら大丈夫である。常人ならば数時間で精神に異常をきたすと思うが。
自分の家族は、実父母も養父母もとっくにこの世にいない。それ以外──。まあ、目下のおれの弱点である約1名については、界域の連中が危害を加える可能性はまずない。
とはいうものの、肛門に電気棒を突っ込んで通電する拷問は困った。新たな趣味に目覚めたらどうする気だよ。あと、その棒で顔を殴るのも勘弁してくれ。
おれはそんな感じで、各種の責め苦を受け流していた。
なんとなく時間もわかる。いまはたぶん、7月30日の午前7時半ごろだ。
徹夜と昼夜逆転には、日本一慣れている自信がある。伝説のブラック企業社員、五徹の翔平を舐めてもらっちゃ困るよ。
▪️
おれが界延安のインターチェンジでロボコップどもに捕まったのは、前日7月29日の午前9時過ぎだった。
「貴様はどうやって、人体特異効能を継承した? 喋れ」
連中の上司らしきチャガンは、手近な派出所の取調室におれをぶち込むと、高圧的な口調で言った。
「知るかよ」
そう答えると、問答無用でチャガンの乗馬靴が腹にめり込んだ。
「再度聞く」
「いや、本当に知らな……」
側頭部に思い切り蹴りが入った。部屋の隅に吹き飛ぶ。リーチのある脚と正確なキックだった。おれに痛みはないといはいえ、なんてやつだ。
「喋りたくなるまで、中国公安部特製のもてなしをお見舞いする。従うのが身のためだ」
おれは答えなかった。ものを言うと蹴られると思ったからだ。しかし、今度は「返事をしろ」と、警棒で思い切り喉を突かれた。
彼の部下が、拘束拷問用の老虎凳を運んできた。
40歳前後で固太りの、細い目をした角刈りの中年男だった。
「紹介してやる。臧獄龍。これはニックネームだがな。新疆の収容所で200人ほど殺して、界域に流れてきた腕利きの拷問官だ」
「畏れながら局長」
男が敬礼した。
「本官が死に至らしめたウイグルの潜在的危険分子どもは294人、後遺症を残した者が676人であります」
「ふん。それはお前に失礼をした」
チャガンはきびすを返し、臧獄龍の肩をポンと叩いた。
「次に私が来るまで、まずは通常のフルコースをお見舞いしろ。こいつが吐くまでな」
▪️
……その後の経緯は、すでに述べた通りだ。
おれは新中華界域を自分の目で見るという渡航目的だけは、充分に達成できている。特殊詐欺拠点に拉致され、衛兵に撃たれ。そして拷問。ここは想像以上にろくでもない場所ってことだ。
だが、困ったな。おれは本当に、自分がなぜこの力を持っているのかを知らないのだ。
昨晩、右腕に重傷を負ってジャングルをさまよっているときだ。倒れる前に、なにかが脳裏に浮かんだ気もしたのだが。
適当なことを言って、とりあえず拷問をやめさせるか? だが、ウソがバレるともっと面倒な事態になるかもしれない。昨夜のレックスの話を聞く限り、界域の連中は明らかに、おれ自身よりも人体特異効能の性質をよく知っているみたいなのだ。
レックス──。
よくわからないやつだった。はじめからおれを当局に引き渡すのが目的なら、昨夜のうちにやっていただろう。もしくは、宿の部屋に警官を突撃させるかだ。わざわざ、翌日に界延安までドライブに連れ出した意味がわからない。
あいつ、実は全然悪いやつじゃなくて、検問も偶然だったのか?
いや、それにしては2日目の態度が不気味だった。完全な別人みたいに見えたのだ。例の早朝トレーニングを見ても、只者とは思えない。
「ボーっとするな」
臧獄龍の警棒が側頭部に飛んできた。
おれは首を左に曲げ、もういちど前を向いたところでドアが空いた。
チャガンだった。
「喋る気になったか」
「本当に覚えていないんだ。どうしようもない」
「ふむ。その言葉は事実らしいな」
今回はおれを蹴らなかった。こんな答えを導くために、おまえは部下に20時間も拷問させたのか。
「臧獄龍。ご苦労」
おや。まさか終了か?
「フルコースの各種データを見た。やはり、こいつは1分以上連続して身体に危害を加え続けない限り、ほとんどダメージを受けない。あらゆる方法が効かない」
「はい」
「今後の方法はお前の経験に任せる。記憶を思い出させろ」
ちょっと待て。これは──。
■
おれは悲鳴を上げ続けた。
あまり詳しく説明したくない。なにより恐怖感に押しつぶされて半分くらいしか覚えていないのだ。時間がどれだけ経ったのかも、途中からはわからなくなった。
覚えているのは、たとえば。
唐辛子をたっぷり入れた水を洗面器に満たし、そこに十数分以上もむりやり顔を突っ込ませる。最初の約1分はダメージを受けないが、それはかえって後に訪れる恐怖を倍加させた。
「一、二、三、四……」
約1分の無敵時間が切れる15秒ほど前から、臧獄龍は耳元でカウントダウンをはじめた。
「……十四、十五」
数が切れると地獄が襲ってきた。おれは何度も失神したが、心臓が動いている限り、しばらく放置されると回復してしまう。
他にもいろいろとあったが、もういいだろう。
ただ……。
いろいろな拷問を継続的に試されて、かなりの時間が経ってからだ。おれの精神は限界に近づいていた。刀槍不入のおかげか、長年の業務のせいか、おれはメンタルがかなり強いのだが、それでも人間の心はあるのだ。
思考が像を結ばない。
おれは頭をぐらぐらと揺らし、途切れ途切れの意識のままで、再び老虎凳に拘束された。臧獄龍が手慣れた様子で、おれの頭にハチマキのようなものを巻く。コードがついており、その先はよくわからない機械につながっていた。
電撃責めだ。
臧獄龍が機械のスイッチを入れて通電する。
例によって1分間のアイドリングタイムの後、突然衝撃がきて身体が跳ね上がった。おれはのけぞって椅子ごと転び、頭のなかが真っ白になった。
そうだ、真っ白に。
光……。
■
──おれはなぜか、懐かしい場所にいた。
北京市西城区、横水坊胡同。
夜。狭い室内。壁の新聞紙。
赤い牡丹の花が描かれた暖水瓶。
玄関先のユリの鉢と三輪車。脚の1本が短くてガタガタいう食卓。白いホーロー製の食器。
おれの手のひらはもみじのように小さかった。
服はむかし着ていた、パチもののドラえもんが描かれたボロい幼児用タンクトップ。
ここは実家だ。おれは、3歳。
「翔翔儿」
懐かしい声が聞こえた。おれの小名(幼児名)だ。
母さん。
寝間着姿だった。露店で買った安っぽい緑色のホットパンツと、脇の部分がほつれて自分で縫い直した綿のキャミソール。
おれは母さんに抱きついて甘えた。懐かしい匂いがした。
「あなたは、世界一かわいい」
母さんがおれに手を回し、頭をなでてくれる。
ふふっと優しい笑い声が頭の上から降ってきた。だが、声がなぜか湿っていた。
「翔翔儿。あのね」
母さんがおれの両頬に手を当て、目を見て話しかけた。
あれ? 違う。
目が違う。
でも、嫌いな人の目じゃない。
よく知っている目だ。好きな目だ。
「母さんたちはこれから、お出かけしなきゃいけないの。でも」
その目に涙が溜まっていた。
「絶対にまた会える。だから、これを……」
おれの頬が暖かくなった。
母さんの手が柔らかく光っていた。
光はやがて周囲を包み、あたりが真っ白になる。
だが、母さんの姿は見える。
「つよい子に……。なって」
母さんは無理に笑った。
あれ? やはり。
「おい、なんで」
おれは大人の声で言った。
彼女はなぜか、安っぽい緑色のホットパンツと綿のキャミソールを着て、いつもの目に涙を溜めながらむりやりに微笑んでいた。
やがて、おれは柔らかい光に包まれた。
■
「……ずいぶん長い失神だったな。俺の腕が落ちたかと思ったよ」
目覚めた。
界延安の取調室。老虎凳。
この数十時間で、臧獄龍が私語を口にするのははじめてだった。
低い音が部屋に響いた。
彼のスマホのバイブレーションだろう。
臧獄龍は発信者名を見てから、かしこまった表情で話しはじめた。
聞かれたくない内容らしい。廊下に出ていく。一息つけそうだ。
──おれは、思い出した。
そうだ。母さんが死ぬ、2週間くらい前。
柔らかい光。
たしかに、あんなことがあった。
間違いない。母さんはあのとき、おれに能力を分けてくれたのだ。
”……実は私は、研究所にまだ報告していない別の能力を持っています……”
6月4日、湯島のホテルでシーラに見せられた、母さんのノートの内容だ。たしか、続いてこう書かれていたはずである。
”……ごく幼い頃、曽祖父から輝くような力を受けたことがあり、それから私はまったく、ケガや病気をしていないのです。彼いわく「刀槍不入」。文革の迫害を避けるため他言するなと言い聞かされました。私は包丁で指を切っても血が出ず、故郷で疫病が流行ったときも……”
そういうことだったのか。
しかし。
理由はわかったとはいえ、絶対に他言すべきじゃない。シーラやレックスはもちろん、チャガンもこのノートの記述を知っている可能性が高いのだ。
だが、文章を書き慣れていなかった母さんの記述は「輝くような力を受けた」とかなり曖昧だ。
能力継承の具体的な方法が仮に、相手の両頬に手を添えるとか、目をしっかり見つめるとか、そういうものだったとすれば。
この情報を知っているのはおれだけだ。
■
あの光をどうやって出すのかは、おれにはわからない。
しかし、界域の連中は間違いなく、この力を欲しがっている。おれを拘束し、具体的な継承方法を聞き出したがっているのだ。そして、能力を他の人間に──。
王昊天。
そうだ。仁間が言うところの、パンジュン・ラマ10世の転生能力の半分を奪った界域の魔王だ。そして、前世でおれの両親を殺した暗殺者の生まれ変わり。
あいつが刀槍不入を身につければ、独裁者を古来悩ませてきた老化や病気や暗殺の不安はなくなる。毛沢東みたいにボケてヨボヨボになったり、スターリンみたいに脳卒中で死んだり、信長みたいにクーデターで殺されたりはしなくなるのだ。
しかも、眠らずに執務を続け、軍事行動を起こすことができる。
あんなやつが不死身になれば、世界も征服しかねない。人類の世の中すべてが、この界域みたいな中華のディストピアに変わってしまうんじゃないか。
絶対に、おれが継承方法を思い出したことを口にしてはならない。
王昊天に殺された父さんと母さんのために。
そして、おそらく世界を守るためにだ。
そのとき、ドアが開いた。
チャガンだ。なぜか臧獄龍を引き連れておらず、一人だった。
「貴様に話がある」
やや動揺しているように見えた。これまで見たことがない表情だ。
右手に白い物体を握っていた。
天津の五大道でアイスと買った、白地に水墨画風の模様が描かれたカバー。
──サイバー人民公社で没収された、おれのスマホだった。




