【第十七章】2027年7月28日 痛いの痛いの飛んでいけ(翔平の物語)
夜10時過ぎ。
狂乱のKTVを抜け出す際に別の部屋を見たら、大ホールに50人くらいの人民C層が集合しておっぱじめている現場に出くわした。
退廃的な乱交パーティーというより、雨季のカエルの大量繁殖池みたいな光景だ。人間も生物なんだなと思わざるを得ない。
なんと子どもやじいさんを連れて来た連中もいる。子どもたちは慣れているのか、部屋の端に固まって親のスマホでパズルゲーをやったり、ホールの照明をガチャガチャいじくったりして遊んでいた。じいさんは他の老人仲間と、周囲のぶっ飛んだ状況を完全に無視して茶を飲み、のんびり象棋(中国将棋)を打っている。
キッズがクレヨンしんちゃんを再生したカラオケ大画面。ぶりぶりざえもんの前で繰り広げられる、全裸の老若男女による人民大繁殖活動。シュールすぎる光景だった。
おれはKTVを出て、第三新人民公社の東北端に向けて歩いた。
人民公社の敷地は四角形だが、正面入口から入って見たいちばん奥に、北方向にぽっこり飛び出た区画がある。
閩融建築工程有限公司という福建人経営の建築会社だ。
界域政府の仕事を受注して人民公社の建設を手掛けている──。
いっぽうで、副業として複数の詐欺拠点から管理費名目でアガリを徴収している。大昔は故郷の沿岸で密航ビジネスをやっていた蛇頭の連中が、流れ流れて界域で商売をしているらしい。
日本とは違い、中国では黒社会と一般企業の境目はいいかげんだ。
閩融建工の周囲は、リング上の有刺鉄線を乗せた壁に囲まれていた。
出入り口は1か所。門扉は閉じられている。赤く塗られた分厚いスライド型の銅扉には「闲人免进」(関係者以外立ち入り禁止)とデカく書かれていた。
門の近くの値班室(守衛所)を見る。ハゲで小太りの守衛が、ショート動画を見てサボっていた。中国あるあるだ。モニターに監視カメラの映像が表示されても、すぐには気づかないかもしれない。
サカイさんからは、敷地内にある白い漆喰塗装の小さな建物の3階が、詐欺拠点向けの事務室だと聞いた。昼間に堂々と尋ねても無駄らしい。パスポートとスマホは盗み出すしかない。
黒社会系とはいえローカルな建築会社である。そこまで鉄壁の警備があるとも思えない。
門から離れる。電柱の暗がりで壁をよじ登る。
有刺鉄線を素手でつかんで乗り越えた。つくづく自分の身体の強靭さが謎だが、この場合はありがたい。ズボンはすこし破れたが。
敷地内のコンクリート床に飛び下りた。巨大な簡体字で「安全重于泰山」(安全は泰山より重い)と書かれた建物と、トレーラー置き場が見えた。
屋外敷地には資材が乱雑に放り出され、数台のフォークリフトが乗り捨てられている。どこが安全第一なんだ。日本の現場基準ではありえない適当さだが、おかげで身を隠しながら進めそうだった。
目当ての3階建てに近づいた。入口を見る。
くそ。カギが顔認証方式だ。
界域の会社だけに、ボロ企業なのに無駄にセキュリティ設備がいい。
■
……ん?
しめた。守衛が持ち場を離れて白い建物に向かった。
俺は建物の前に停められていたミニバンの下にもぐりこみ、できるだけ入口に接近した。
守衛がノコノコと建物に近づく。
顔認証──。
しない。
隣りにある非常用のフタをパカッと開けて、スマホのライトで照らしながらパスキーを打ち込んでいる。2→5→8→3と押したように見えた。
ドアが開き、守衛は1階の戸棚から青島ビールと、つまみ用のヒマワリの種を取り出して、またノコノコと出ていった。
これまた、意識の低い中国世界のあるあるだ。
スペック上はハイレベルな警備システムでも、実際に運用するとめんどくさい。なので現場の人は楽な方法で済ませている。しかも守衛はどうやら、オフィスのビールを勝手にパクっているようだ。黒社会をおそれないおっさんである。
守衛が値班室のドアを閉めたのを見て、建物に接近する。
ナンバー表示はランダムテンキーだったが、試しに打ち込んでみるとあっさりカギが開いた。
そっと3階に上がる。部屋はふたつ。
木村に借りた界域スマホのライト頼りで右の部屋に入る。
よくわからないトロフィー。茶葉。建築資料。中国主席の顔がプリントされた皿。
あれこれ引っ掻き回してみたが、見つからない。
次はスチール棚の扉を開けてみよう。金庫に入ってたりしなきゃいいが。
そう思ったところで、後頭部に冷たい棒状のものが当たった。
■
「たまに、ここに忍び込む狗堆(詐欺労働者)がいる」
聞き覚えのある声だ。
朝に俺を車に乗せた男だった。
くそ。部屋に忍び込むと彼のアプリに通知が飛ぶ仕組みでもあったのか。
「言いたいことはあるか?」
「……スマホの場所は?」
無言。
問答無用で拳銃が火を噴いた。
おれは頭を撃たれて死──。
死なない。すこしかゆい。
どこかの雑貨屋で虎標萬金油を買って塗っておこう。
おれが倒れないことに驚いた男の手をつかむ。
空いた手で思い切り殴られた。痛くはないがよろめく。
回し蹴りを食らう。横に倒れる。
残念ながらおれは格闘技なんか習っていないのだ。
「スマホの場所は?」
男は答えない。
部屋の電気がついた。まずい。数人で来ていたのか。
一人が電話をかけている。さらに人を呼ぶ気だ。この場に残るとまずい。
出直しだ。スマホとパスポートはひとまず諦めよう。おれは窓に突進し、慌ただしく開いて3階から飛び降りた。
フォームに失敗し、地上にびたんと胴体着陸したが、服が破れた以外は問題ない。
男が階上で叫ぶ。発砲した。弾が背中に当たった。
当然、ケガはない。どこに逃げるか。
出入り口と逆方向の壁近くにフォークリフトが放り出されていた。
無理矢理よじ登り、壁上の有刺鉄線をつかむ。壁の向こうに身を投げた──。
■
……未舗装の細い道。
その向こうは草の生えた坂だった。おれは勢い余って転げ落ちていた。
先はそのままジャングルになっている。
ここは公社の外なのか?
聞こえるのは公社内の喧騒と、遠くを走る車の音。さらにジャングルから漏れ出る、虫や鳥の声。
服がひどい状態だ。サカイさんの口紅がべたべたついており、さらに泥とホコリ。ズボンもシャツもあちこち破れている。
持ち物は──。免許証が抜かれた財布と、木村にもらった界域スマホのみ。
今後もパスポートが回収できない場合、むりやり密出国して、重慶かチェンマイの日本総領事館に行くしかないか。苦労しそうだな。
ブゥゥゥン……。
考えていたおれの耳に、聞き覚えのある音が聞こえた。
ハチの羽音だ。
顔を上げる。
公社からの脱走者を見張る熱探知式の小型監視ドローンだった。
ちくしょう。
足元の石を投げると、命中して墜落した。前に日本で仁間と遊んだとき、一塁送球の方法を教えてもらったのが幸いしたらしい。
だが、地元のシャン人らしい衛兵が2人。なにかを叫びながら坂の上にやってきた。
こんなにはやく見つかるのか。
ジャングルに逃げ込む。衛兵たちが問答無用で鉛玉をばらまいた。
ツタやぬかるみに足を取られながらあがく。背中や後頭部にバチバチと弾が当たる。常人なら何回死んでいるんだろうか。
かなり奥まで逃げた。
衛兵の姿はもう見えない。弾はほとんど飛んでこなくなった。
さて、ここからどうしたものか……。
──バシュッ。
これまでと違う音がした。なんだ?
顔の右側に液体が飛んだ感覚があった。ぬぐう。
ぬぐえない。
右手が動かない。痛い。
大量の血。
最後の流れ弾が、おれの右肩を貫通していた。
■
血が流れ続けている。動脈が傷ついたのは確実だった。
自分の力を過信しすぎたのか。
そもそも、能力の正体も性質も不明なのに、なぜおれは信じたんだ。
──そうだ。どうして思い至らなかったのだ。
1989年6月4日。
おれと同じ刀槍不入の力を持つ母さんは、なぜ王昊天に心臓を撃ち抜かれて死んだのか。これまで、理由を深く考えてこなかった。
あの夜、王昊天は父さんの反撃を受けたあと、瀕死の状態で母さんに拳銃を乱射した。幼いおれはしっかり覚えていないが、プロらしき暗殺者が至近距離で撃っているから、弾は何発も当たっていたと考えたほうがいい。
それらはおそらく、母さんにダメージを与えなかった。しかし最後の1発だけが致命傷になった。現在のおれの状況とよく似ている。
だが、思考はまとまらなかっった。
血が流れ出るたびに生命が削られる感覚がある。
怖かった。おれは物心がついたときから、ケガや病気をおそれる心理それ自体を経験したことがないのだ。
負傷する、血が流れるってこんなに怖いことだったのか。
過去、小学校のジャングルジムの上から落ちたり、中学校でイカれた同級生から彫刻刀を投げられたりした際も、とりあえず無事っぽいので周囲は深く気に留めなかった。
おれ自身、ただの偶然で片付けてきた。いや、正確には常人と違うらしい気配は感じたが、あえて深く考えないようにしてきた。中国人移民の子が必死で日本社会に適応して、やっと普通の下町の子どものフリができたのだ。ここでビックリ人間あつかいされれば、過去の努力がパーになってしまう。
だから考えなかったし、成人後はそもそも大きなケガをする機会もなかった。不忍池でアイスを乱射からかばって倒れたときは、やはり銃だと死ぬなと合点がいったが、死んでいなかった。なので、そういうものらしいと適当に納得してしまった。
自分の性格がうらめしい。能力にしっかり向き合ってこなかったのだ。
右肩が焼けるようだった。すでに服の半分は真っ赤に染まっている。
「疼疼飞了呼呼哈」
痛いの痛いの飛んでいけ。
まだ普通の身体だったらしい3歳のときは、ケガをしたら母さんが治してくれた。だから怖くなかった。
母さんはもういない。アイス、助けてくれ。いかん、なんであいつの顔を思い出すんだ。
どれだけ歩いたかわからない。視野が暗くなってきた。
まずい。光がほしい。柔らかい優しい光が。
光?
そういえばむかし、母さんが、光……。だめだ。
よくわからない夢と現実が混濁しはじめた。
■
太い木の根の上に、腐ったシダの葉が乗っていた。
見えない。踏みつけてずるりと滑った。
ザクッと音を立て、ジャングルの腐葉土に倒れ込む。
起きられない。
倒れたおれの目の前を、黒とオレンジのまだら模様の不気味な多足動物が這っていた。
ちくしょう。
おれは自分の人生を歩いてみようと思ったばかりなのに。
なにもわからないまま、ここで終わりか?
頭のなかにアイスの顔が浮かんだ。
びしびしと近寄りがたいオーラを出しながら缶チューハイを飲んでいる、むかしの不機嫌そうな横顔だった。
おまえ、もう最期なんだからこっち向いて笑えよ。
アイス。
光……。




