【第一章】2027年6月4日 浅草橋(翔平の物語)
うめき声が、デスクのあちこちから聞こえる。
壁のデジタル時計は「2027/6/4(FRI) am01:18」。無機質かつ残酷な数字の行列だ。
「ドローン宅配特区プロジェクトのシステム、納品完了……」
ゾンビの檻のような社内から「ああ」と声が漏れる。本当は歓声を上げたいが、体力が削られすぎてため息しか出ないのだろう。
東京都台東区浅草橋、資本金500万円の零細ブラックIT企業「さくらぎソフト」。いつもの5次請け官公庁案件。形式上の納品完了から1時間20分をバグ修正に費やし、やっとコンプリートだ。まあ、このくらいの遅延ならなんとかなるなるだろ。たぶん。
「……翔平、またクソ汚ねえコード書きやがって。動くのかよこりゃ」
単車魂、と毛筆書きされたマグカップを手に、加賀が残ったインスタントコーヒーを胃に流し込みながら憎まれ口を叩いた。古参社員だけに、まだ会話できる余力があるらしい。
「あー、動く動く。一般国民が使えるかは知らんが、仕様は満たしてる」
「……その通りだ。いつも助かるぜ、戦友」
おう、と応え、拳を差し出してきた加賀とフィストバンプを交わす。
「それじゃ、さっさと帰るわ。明日──っていうか今日の日中は、家庭の事情でノートク入れっから」
「……お前、独身じゃなかったか」
「両親の命日だよ。えーとなんだ、中国でいう『六四天安門事件の日』ってやつ」
「……そうか、すまん」
「構わねえよ。大昔の話だ。じゃあ加賀、お疲れ」
「……ああ、お疲れ」「……五徹の翔平」
カバンを持ち、さっと立ち上がる。
机に突っ伏して魂が抜けかかった後輩たちが、「お疲れ様です」と聞き取れなくもないうめき声を上げた。
そんな彼らを背に、胸ポケットに突っ込んだ社員証を取り出し、「高田翔平 Shohei Takada」とダサいゴシック体で印字されたカードをリーダーに押し当てる。後輩社員ども、てんで情けねえな。おれより15歳近くも年下のくせに、たった3徹でゾンビ化してやがる。いや、一般常識からするとおれのほうが「異常」になるわけか。
──五徹の翔平、ってのはおれのあだ名だ。
3徹どころか、5徹も余裕で働くから、ってことらしいが、逆に他の人間はなぜ無理なんだ? よくわからない。
連日の徹夜に加えて、タバコも吸えば酒も飲む。ラーメンもがっつり食うが、健康診断はすべて優良値だ。周囲でコロナやインフルが蔓延していても平気だし、そもそも過去に風邪を引いたことってあったっけ。
加えて社内の連中いわく、おれの見た目は「さくらぎソフトの超チート」らしい。髪は黒くて肌も荒れていない。体型の崩れもなく、社会人3年目くらいには若く見えるんだと。理由は知らねえ。生まれつきの体質じゃね?
まあ、独身アラフォーのブラック社員の外見がどうであろうと、世界は何も変わらず回る。おれは軽やかな足取りで、廊下をテクテクと歩いた。
グッバイ。さらばクソ職場。もっとも、休み明けの朝にはまた来るけどな。
■
梅雨前の深夜の空気は心地よい。
近くの神社。おれは境内に置かれたベンチに腰掛け、ICOSのスイッチを入れた。
炊飯器のような匂いに包まれ、電子タバコの紫煙を吸い込む。うめえな。退勤後の夜に外で吸うタバコは至福の癒やしだ。
何気なくスマホに目を落とす。
38年前、自分がまだ北京の自宅で泣き続けていた時刻である。
──天安門事件の夜に両親が死んだ後、おれは遠縁の在日中国人の家庭に引き取られた。
ゆえに4歳からは足立区綾瀬の育ちだ。最初は全然口をきかなかったらしいが、暗い性格の外国人の子どもは、平成の下町の小学校で生き残れない。適応の結果、このちゃらけた性格ができあがり──。その後の人生航路は省略するが、とにかく現在にいたる。
もっとも、事件を忘れたわけじゃない。むしろ、3歳の記憶なのに妙に鮮明なくらいだ。
普段はことさら思い出しもしないが、この日のこの時間には妙に頭にちらつく。
1989年6月4日未明。すなわち8964。
そうだ、こんな空気の夜だったのだ。
日中は快晴で、夜には新月に近い細い月。なにかの植物の匂いがして──。
乾いた気持ちのいい風が吹いているのに、心がザワつく。この感じだ。
実のところ、おれの両親は、天安門事件そのもので死んだわけじゃなかった。
■
拳銃の銃口。
北京の下町にあった狭い居間で、テーブル越しに媽が俺をかばっている。
犯人は軍服──。
正確には中国人民武装警察の制服というやつを身に着けていた。
「燕芳! 翔翔児!」
玄関先のドアが空く。おれたちの名を呼ぶ、爸の慌てた声。
武警の男が声の方角へ銃を構え直す。
そして──。すぐさま父の腹を撃った。
「売国奴どもが」
低い声。男は頬を引きつらせて笑うと、再び母とおれに銃口を向けた。
母の喉から、ヒュウ、と声にならない悲鳴。
照準。
「王昊天!」
父の叫び声。一瞬の間。
ボトッ。
父が投擲したらしきユリの茎が、男──王昊天の首に刺さり、床に落ちる。
頸動脈から、スプレーのように間歇的に血が吹き出していた。
王昊天は顔をしかめて状況を把握してから、憤怒に満ちた形相で上体をひねる。
銃口。
パンッ。
父の頭が撃ち抜かれた。
「化け物ども……めが」
ゆらりと大きくよろめいてから、王昊天が再び母に銃を向ける。
パンッ。
パンッ。
パンッ。
連続する銃声。母がおれをかばい、よく見えない。
「八、九、六、四……」
男のうめき声。
「俺と……貴様らの……」「命日だ」
パンッ!!
母の左胸に穴が空いた。
優しい瞳。口から大量の血液を吐いて、崩れ落ちる。
視界が開け、血に染まった居間と玄関口が見えた。
そこでは父も、犯人の王昊天とかいうやつも。
全員が倒れていて──。
■
ふう。
おれは東京の空を仰いだ。
到底、3歳の子どもが背負える話じゃない。われながらよくぞ……。
いや、別にその後の人生が上々ってわけでもないんだが、ともかく人格が歪まずに生きてきたのは偉いものだと思う。
手元のICOSの電源が切れていた。
無意識に握りしめていたらしく、本体が汗ばんでいる。
いい歳をして、真面目に昔のことなんて思い出すからだ。カートリッジ1本、ほぼ無駄にしちまった。
8964モードからシフトの切り替えだ。ここからはまた、いつもの軽薄でテキトーな日本人リーマン、高田翔平の顔に戻ろうじゃないか──。
「がっ!」
やべえ。吸い直そうとして、汗の滑りでICOSを取り落とした。1週間前に買い替えたばかりだぞ。
ああああ。手のひらサイズの滑らかな電子ガジェットは無情にも落下し、ベンチの端に当たって斜め上にすっ飛んでいく。その先は石畳だ。終わった。奮発して買った6980円のモデルが、一瞬で傷だらけである。
ぱし。
手水舎の陰からスッと出てきた女が、宙を舞うICOSをこともなげにつかんだ。
おれに目も合わせず、それを突き出す。
「高翔平,你终于下班了」
中国語。アナウンサーばりに標準的な発音だが、人間味は欠けている。
とはいえ、いいところに現れてくれた。超人的な反射神経に感謝だ。
「谢谢。时间这么晚,你还等着我啊?」
完全無視。
かわりに左手にはめたレディースの高級腕時計に目を落とす。
「監控対象のデータ。社泊がない場合の平均退勤時刻24時11分。本日はやや遅めながら……。標準偏差は72分につき、誤差の範囲」
棒読みめいた口調で女がつぶやいた。
毎度毎度、意味不明な統計を取りやがる。人間アップルウォッチかよ、こいつ。
もっとも、このアップルウォッチ女は──。肩書と見てくれだけは、大変よい。
本名、白希冰。通称「アイス」。
中華人民共和国駐日大使館の三等書記官どの。
中国共産党員ってやつである。
よく整ったクールなマッシュボブの黒髪に、鼻筋の通った小顔。
顔立ちの印象は全体的にネコ系だが、茶トラや三毛猫ではなくアビシニアンあたりの偉そうなネコである。吹き出物ひとつない白磁のような肌は、深夜にもかかわらず荒れた様子がない。
左手の例の腕時計も、ジャケットの胸元のポケットに指した万年筆も、華美さを抑えた上品なつくりだ。腹立たしいほどよく馴染んでいる。
年齢26歳。身長は推定167センチ、体脂肪率18%。八頭身で、モデル寄りのアスリート体型。あまり大きくない胸と長い脚。おかげで黒のパンツスーツが、そのまま外資ブランドのモデルに起用されそうなほどぴったり似合う。
つまりは……あれだ。
生成AIに「高气质美女」と中国語を打ち込んでくれ。まさにこういう人物のイラストが生成される。だが、こいつは紛れもなく現実にいる人間だ。あ、「高气质美女」ってのは、ツンとしてお高く止まったインテリの、ムカつく超ハイスペ中華美人のことな。
では、そんな高气质美女のアイスさまが、なぜ、おれに付きまとうのか。
すくなくとも、ストーカーや熱心なファンじゃないことだけは確実だ。
「おれの監視なんて、意味不明な仕事。おまえもよく続けてられんな」
「業務の意義に私的な価値判断は挟まない。それが外交官の規範」
軽くジャブを打つと、アイスは、ふん、と目も合わせずに無表情で答えた。
名は体をあらわす。おれのことは、オケラやカナブンくらいにしか思っていないに違いない。
「ま、いいや。おれはいまから7時間遅れの晩餐だ」「おまえ、今夜はメシ食ったのか?」
「……回答の必要を感じない」
ゆら、と形のいいアーモンドアイの瞳がすこし揺れた。
「じゃ、おれは隣のコンビニで飲み物買ってくる」
女は黙って視線を逸らし、右斜め上を見た。
おいおい、浅草橋の空にはろくに星なんて出ちゃいねえぞ。
■
唇。
モーヴピンクのリップが、缶チューハイの飲み口に触れる。
喉。
液体を嚥下してこくっと動く。
「ぷはあ」
吐息。
細くて長い指先に、マニキュアは塗られていない。
そんな指で缶を傾け、再び飲み口に唇を寄せる。そして一言。
「……うっま」
さらに一口。こくり。ぷはあ。
「翔平、つまみ剥いて」
「はいよ」
おれはカナブンから使用人に昇格したらしい。ひとまず使い捨てビニール手袋をはめた手元で、でかいハサミを持つ真っ赤な甲殻類の尾の殻をペリペリと剥いた。
十三味小龙蝦。
ザリガニの中華スパイス煮込み、現代中国庶民の初夏の夜食の王道だ。ガチ中華系のフードデリバリーを使えば、深夜の2時でもすぐ食べられる。
むき身を手のひらに乗せて渡す。アイスは「謝謝」と軽くつぶやいてから箸でそれを取り、老舗の高級懐石を食するような優雅な手つきで口元に運んだ。
お育ちがいいのは充分にわかった。だが、おまえが食べているのはドラム1桶1280円のザリガニだ。
「本来、おれの監視ってさ」
「……ん?」
「大使館で仕事ミスった新人が、1週間ぐらい科される懲罰任務だろ?」
「よく知ってるじゃない。本業の出勤退勤の前後にやらされる罰ゲームよ」
酒がすこし入ると、こいつは普通に会話に応じる。
「前にも似たようなヤツを何人か見たからな。『日本一ブラックな働き方の会社員の監視報告任務』……だっけか」
「そ。死ぬほどキツくて無意味なことをわざとやらせて、組織の絶対性と失敗の恐怖を植え付ける」「中国政府では割とよくあるやつね」
「でも、おまえ、明らかに仕事できそうなやつじゃん。なんでずっと、罰ゲームやらされてんだ?」
アイスが缶チューハイを持つ手が、ぴた、と止まった。
こいつの「監視」が始まったのは2年半前だ。
だが、現在のような明確なサボりはせいぜい最近1ヶ月──。
逆に言えば、過去の2年5ヶ月、こいつは明らかに無意味な任務を、ロボットばりに真面目にこなし続けていた。
頭は悪いやつじゃない。むしろ、おれが過去の人生で会った人間のなかでも、ずば抜けて思考のスピードが速くて論理的なタイプだ。日本語は同時通訳レベルで喋れるし、前におれの出待ちをしながら、iPadで英語だのフランス語だのの外交論文を読んでいたこともある。本来は同業者のなかでも優秀層じゃなかろうか。
「……仕事できそう、ですか。冗談きついな」
余計なお世話よ、と撥ねつけるかと思いきや、彼女はそうつぶやいた。
やがて眉をしかめ、ごっごっごっと缶チューハイの残り半分を一気に流し込む。
「もう無理!」
ベキッ。
空き缶をペシャンコに握り潰しやがった。おれは地雷を踏んだらしい。
「北京に帰らせてっっ!!!!」
ああ? まだ飲むから2缶目を買ってこいと?
はいはい。お嬢様の仰せのままに。支払いは全部、おれ持ちだけどな。
■
「党と国家の旧施策について、無作為に抽出したサンプルの予備的検証整理を命ずる──」
「ゆえに高翔平の動向を観察せよ」
「懲罰任務には最適の口実よね」
ロング缶を手に、アイスがなにやら官僚用語をつぶやいていた。
おれの監視任務には、党として説明をつけるための名目が存在するのだ。
ひとつはおれが六四天安門事件の犠牲者遺族とされていること……だが、事件の遺族は無数にいる。抗議デモでもやってなきゃ、いちいち監視対象にするまでもない。
主要な理由はもうひとつのほうだ。
「人体特異効能。40年前のわが国のトンデモ研究」
1980年代、中国政府は本気で、超能力の活用を研究していたことがある。つまり、気功で病気を治すとか、農業生産を促進するとかだ。
まあ、当時はソ連も似た研究をやってたと聞くし、日本でもウォ●クマンを開発した大企業がその手の研究所を作っていたから、昔はそういう時代だったんだろう。
そして、おれの死んだ両親──。
つまり高志軍と田燕芳の夫婦は、この人体特異効能研究の対象者だったのだ。
「ま、あなたはブラック労働でも身体を壊さないし、見た目だけは妙に若いし」「ほんとに超能力者かもしれないけどね」
くっくっく、とアイスが笑った。
酒のせいか口数が多めだ。こいつも冗談言ったりできるんだな。
……その後、彼女は悪酔いした。
境内の軒下にいるネコを見つけて、ふらふらと話しかけに行って逃げられたり、どうやら偉い人だったらしい自分のひいじいさんの話をとりとめもなく喋ったり、空からハチの低い羽音が聞こえると──まあ、これはおれも聞こえたのだが──言ってみたり。
長年の懲罰任務で疲弊した中国のエリートさまは、いろいろため込んでいたのだ。さすがに、毛沢東が描かれた紅い中国紙幣を賽銭箱に放り込み、「党に許してもらえますように」と柏手を打ったのにはドン引きしたが。日本の神様って、中国共産党の人事評定に介入できんのか。そもそも党員は無宗教じゃなかったっけ?
もっとも、傍目には実にアブない行動の数々も「美女のプッツン奇行」として絵にはなる。見た目のいいやつは得だよな。
そして。
なんとこいつ、酔いつぶれて寝やがった。
「ぺきん……。ちょうのうりょくで……かえりたい」
弱ったな。おれ、この後はネカフェかサウナで仮眠するつもりだったんだが。だが、いくら自分の監視者とはいえ、寝言をつぶやく女を深夜の屋外に放置するのは人としての良心にもとる。
始発を待つか。
俺はそう思って目を閉じ、いつしか眠り込んでいた。
これが、平凡な日常の最後の一夜になるとも知らずに。