【第十四章】2027年7月27日 中華の民のユートピア(アイスの物語)
香木の薫香が、うっすらと漂っていた。
完璧に手入れされた熱帯植物の森から、小鳥の声が漏れている。
ぴかぴかの黒曜石で縁取られ、澄んだ水をたたえた広大なプール。
ヤシの葉を編み込んだ屋根を戴いたプライベートガゼボ。
その隣に、ほんのり湯気を出す水面に花びらが浮かんだ岩造りのジャグジー。
……はあ。
わたしは屋外のサンラウンジャーに身を横たえてため息をついた。
この設備と雰囲気は、大学2年の夏に一族に連れて行かれたモルディブの会員向けスパと、ほとんど変わらない。いや、それ以上だった。
これのどこが「視察」なのか?
異常なまでのもてなしは、何が目的で?
まるで、おじさまが失脚する前の時間に無理矢理タイムスリップさせられているみたいな──。
「おまえ、カミソリ持ってね? ムダ毛剃るの10日くらいサボってたわ」
隣の謝雨萌に肩を叩かれた。
スパで準備されたビキニ姿だ。しかし、彼女の手足やわきの下は極めて形容しがたい状態になっていた。わたしはビキニこそ着たものの、気を抜きすぎることに若干の抵抗感があり、バスローブを羽織ったのだが。
とはいえ、よかった。自分は決してタイムスリップはしていない。
界域側のもてなしが生む異常な圧は、謝雨萌の存在で常に中和される。過去に経験がないが、女子校の休み時間の同級生ってきっとこんな感じなのかな。
「あっちのスタッフの人に尋ねてみたら?」
「そうする。まったく、スパ銭みたいに洗い場にドカッと置いといてくれりゃ楽なのにさあ──」
そのとき、背後に気配があった。
か細くて白い手がすっと伸び、謝雨萌に安全カミソリを渡す。
「お困りのようですので。持って参りました」
風の音みたいな小さな声だった。抑揚がほとんどない。
声の主を見る。
……少女?
ひどく小柄で痩せた、かわいらしい女の子だった。
髪はおかっぱで柔らかく、透き通るように肌が白い。
ややツリ目の二重で、無表情。ガラス細工みたいなはかなさのある子だ。
いくつだろう? 17歳くらいに見えるが、妙に底知れない落ち着きも感じる。
なにより、いでたちが奇妙だった。
濡羽色の烏紗帽に、襟と袖が黒く縁取られた白絹の袍服。
つまり、教科書で見る宋代の儒学者そのままの服装だったのだ。
ただ、プールサイドでは場違いでも、コスプレめいた違和感はなかった。
近年、中国の若者には王朝時代の伝統衣装が「バエる服」として流行っているが、彼女の装いはもっと落ち着きがある。日本の茶道の家元や舞踊の師匠みたいな──。伝統衣装を日常的に身につけている人の空気感だ。
少女が胸元で両手を合わせ、わたしを軽く拝んだ。挨拶は儒教儀礼ではなく、タイ式のワーイと呼ばれる方法のようだ。
だが、謝雨萌に向けては手を合わせない。相手によって使い分けているのか。
「白さまの応接を仰せつかりました、カノックワン・ラッタナチャイと申します」
小さな鈴が響くような中国語だった。
「長い名ですので、ニックネームのノイナーでお呼びください」
名前や挙措を見る限り、おそらくタイ人。
丁寧な言葉づかいと異装。
わたしの接待に特別に起用されている時点で、普通の女の子ではないだろう。
いや、よく見ると──。
「界域では思想幸福調整局の局長をつとめております。積もるお話は、これからゆっくり」
ノイナーは表情を変えずにそう話すと、儒服の裾をひるがえした。
焚きしめられた沈香の香りがわずかに漂う。
ついてきなさい、ということか。
■
すこし、話を巻き戻して説明したい。
”新中華界域経済特区は2015年7月──。中国主席の偉大なる国際戦略「一帯一路」の精華として、ミャンマー側との99年間の土地租借契約によって誕生しました。以来、地域の平和と繁栄のため、揺るぎなき使命感をもって歩んでいます”
”やがて2016年2月、人民解放軍シャン州駐屯部隊の王昊天大隊長が、豊富な石油鉱脈とウラン鉱山を発見。地元武装勢力を駆逐したことで、この奇跡の大地は一夜にして黄金の界域へと生まれ変わります。翌年2月、王氏は中国政府の支持のもとで特区代表に就任し──”
わたしたちは空港からの車内で、3Dホログラム映像での説明を受けた。
登場した王昊天は、ほほとあごに髭がある、いかにも軍人然とした男だ。
当時、解放軍がミャンマーに非公式展開をおこなっていた事実は国家機密に属するが、わたしたち向けの特別ムービーなので問題はないらしい。
車両が主要インフラ施設や大きな建築物に近づくたび、映像はきりよく終了し、チャガンや盧凱が説明を加えた。完全に再生時間が計算されているようだ。
車両は自動運転車だ。運転手は儀礼的に座っているだけ。
交通規制が敷かれた真新しいハイウェイに、他の車は一台も走っていない。
空港から10キロほど先にある界延安特別市の主要部は、壁に覆われた正方形の都市だった。
南北を貫く大きな9本の主要道路。壁の各辺にはそれぞれ、大きな3つの門。もちろん他にも小さな道路や門はあるようだが、上空からは完全な碁盤の目に見えるだろう。
王昊天たちが政治行政をおこなう施設は、界棗園総司令府。正方形の北辺中央にある。裏庭には広大な中華庭園と乗馬用の草原。東の小山にはミャンマー仏教の巨大な仏塔がそびえ立っている。
「ドン引きだな」
謝雨萌が耳元でささやいた。同感だった。
前の席に座るチャガンが「なにか?」と振り返る。
「悪ふざけが過ぎるわ」
■
一定以上の教育を受けた中国人なら誰でもピンとくる。
この都市のデザインは完全に、儒教の帝王の都のコンセプト通りなのだ。つまり、むかしの唐の長安城とか、それを模倣した日本の平安京とそっくりな設計である。
しかも、「界延安」「界棗園」という単語。
延安は中国共産党が全国の解放前に拠点を置いた革命聖地で、棗園は当時の党中央の場所だ。わたし自身、就職直後の研修ほかで、何度も「お参り」させられている。
古代の帝都を模した拠点に、党が飛躍の足がかりにした地名をつける。
王昊天たちは明らかに、新興都市の建設以上の未来を──。
つまり、中華世界の天下を目指している。
「おたわむれを。……中華の伝統と党の足跡に敬意を示しつつ、中国現代化の成功を反映した都市設計ですよ。王昊天総司令のアイデアに、中国主席が支持を表明された結果です」
チャガンは取り合わなかった。
事実、車窓から見えた市内は「中国現代化の成功」そのものだった。
面積こそ小さいものの、界延安の外観は中国南方の一線都市──。つまり上海や深圳とほとんど変わらない。中国国内と同じスーパーマーケットや飲食チェーンが出店しており、ここが中国ではないのが逆に不思議に思えるほどだ。
事実、界域は4年前から、ライという経済局長の意向でGDPなどの各種統計をミャンマー本土から独立させた。時間もミャンマー時間ではなく北京標準時、公用語も中国語だ。
わたしは中国人だから受け入れられるが、他の国の人からは「やりたい放題」と批判されても仕方がない振る舞いだろう。
「手厳しいですね。しかし、新中華界域は、地上のあらゆる中華の民の烏有之郷なんですよ。政治・社会・経済・思想のすべてにおいてね」
国際局長の盧凱が言う。
ルワンダ出身の彼がそう話すのは不思議だった。
「中華の徳を受け入れた者は、民族や国籍を問わず中華の民である──。王昊天総司令はそうおっしゃっています」
界域のやりかたに異論があるならば、自分のように中華の民になればいい。そうすればユートピアのメンバーになれる、盧凱はそう話した。
「最盛期の清朝みたいな考えかたね」
「ご理解いただけて幸いです。だから私はアフリカ中華民族として界域政権に起用されているのですよ。能力と向上心さえあれば、中華の民の機会は平等なんです」
やがてリムジンは、5つ星クラスの壮大なホテルに横付けされた。
盧凱の説明では、新中華一帯一路フォーラムの正式な開幕は明後日で、明日の夜は歓迎レセプション。それまでは界域側から接待を提供します、という。
日程にゆとりがありすぎる。彼らがわたしたちを呼んだ目的はフォーラムの出席それ自体ではなく、やはり界域の力を見せつけることにあるのだろう。
チャガンと盧凱はここでいったん離れた。そして──。
わたしと謝雨萌は界域側が運営するVIP用の高級スパに連れてこられた。
■
「んっ。ああん」
「おおう、カミング……。ホーミタイッ……。いいよこいよおおお……」
謝雨萌が小さくつぶやき続けている。
しかも、どさくさにまぎれてなにを言っているの。
ただ、わたしも声を押し殺しているだけだった。
レモングラスをベースに、複数の香料を混ぜ込んだアロマの香り。
室内に置かれた古い仏像。照明を落とした部屋。
外界の音はすべて断たれている。
謝雨萌の声がなければ、わずかに水のしたたる音しか聞こえない。
両手に薬草オイルを塗った女性が優しく微笑み、わたしの背中を撫でて押す。
インドのアーユルヴェーダを取り込んだタイ式リフレクソロジー・マッサージ。
気持ちが良くないはずはない。
界域のもてなしの手法は、単純だが有効だ。
さきほど、ノイナーがわたしたちをいざなったのは隣接するヴィラだった。
そこには女性の施術師が待機しており、バスローブを脱いで横たわるように指示された。
かなり迷ったが、幹部級の接待を断れば角が立つ。
自分はチャガンの招待を受けていて、しかも身分的には中国政府の外交官だ。無防備なところをいきなり襲撃されたり、薬物を打たれたりする可能性は低い。
仕方ない。
そう思った。
最初はそれでも神経が張り詰めていたが、ノイナーが静かに部屋を出ていくと、柔らかな施術に意識が呑まれた。
日本での任務。昨夜からの移動。
あらゆる疲れがひとつひとつ、静かにアロマのなかに溶けていく──。
「いかがですか」
40分ほど経ち、施術にすっかり身心をあずけてしまったところで、ノイナーの小さな声が降ってきた。
「……ええ。たいへん。……心より、……感謝いたしますわ」
目の前には、彼女の白絹の儒服の裾だけが見える。
いけない。意識を保たなくては。
「大丈夫ですよ、そのままで。人間は通常、愉悦にあらがうことが困難です」
「……いえ、失礼を。しっかり起きて……。お話するべきです」
ノイナーがわたしの全身を見つめている気がした。
「白さまは、肉体の快楽よりもご自身の理性を優先なさいますか」
上体を起こす。施術師の女性に軽く謝ってから、軽くオイルを拭いてバスローブを身につけた。隣りにいる謝雨萌は眠り込んでいるようだ。
「ご立派です。それならばお話しします。私の自己紹介と、この土地で作りあげた社会の奇跡を」
彼女ははじめて、わずかに口元で微笑した。
■
ノイナー。中国名、沈清瑤。27歳。
タイ華人の彼女は、幼い頃から語学と哲学に異常な知性を示した。
わたしも多少は外国語が得意だが、彼女は10歳のときに古漢語(漢文)とサンスクリット語とパーリ語をあらかた読めたというから、桁違いの天才だ。
生物学的には男性で、11歳のときにバンコクの寺院で出家。3年後に還俗してからは女性名を名乗り、儒教・仏教・道教とドイツ哲学の研究に熱中した。上座部仏教教学と儒教の朱子学思想の研究で、タイと台湾でそれぞれ博士号を取得している。
「人間はさまざまです。快楽に流されたい人と理性を守る人。向上心がある人とない人。自由に思考したい人と考えたくない人。知力や貧富の格差も存在します」
ノイナーは流砂のようにさらさらと話す。
「従来の社会の問題は、頭脳や資本に恵まれた人のみに決定権をゆだねると、持たざる者がアパシーに陥ったり暴動を起こしたりすることでした。かといって、民主主義社会のように頭脳が劣った人にも等しく参政をおこなわせると、社会は容易に迷走してしまいます」
「日本やアメリカのような西側国家には、おっしゃる通りの欠陥があります」
わたしは応じた。「ただし、わが中国共産党は中国人民の生活と未来を向上させるためにたゆまぬ努力を続けており、中国はその矛盾を解決できると信じています」と付け加える。わたしはこれでも外交官なのだ。
ノイナーは無表情にわたしを見て「党の議論は措きますね」と言った。
建前の話をする気はないらしい。
──本音を言えば、ノイナーの指摘は中国において最も深刻だ。
わが国は人間が多すぎる。お金持ちや賢い人も多いが、貧しい人や、どうしようもない行動を取る人もその数倍以上に多い。
わたしが紅二代の共産党員であることをさておいても、中国の民主化なんて絶対にやるべきではないと思う。ダメな人たちに選挙権なんか与えれば、現在のアメリカどころではない混乱が生じるのは確実なのだ。
しかし、かといって党が彼らを締め付けすぎれば、やがて不満が爆発して社会がひっくり返る。
「真の理想的な支配体制とは、怠惰で享楽的でものを考えないダメ人間たちが、生の幸福を感じつつ黙っていてくれること。社会の勤勉な担い手が、分相応でいてくれること。そして、柔軟かつ合理的でイノベーションを生み出せる人たちに世の中を動かしてもらうこと。上・中・下それぞれの民が不満を抱かない階級社会の構築です」
言うは易し行うは難しだ。
孔子さまと諸子百家の時代から、中国の学者や政治家はずっとその方法を考えてきた。けれど、答えは見つからない。
「それが、中国人の支配については答えが見つかったのです。学びと努力を好む高度人材も中産層も、気の濁りきったダメ人間も。すべての階層の中華の民がそれぞれの目線で生の幸福を感じられる理想の社会を発明しました」
──あらゆる中華の民の烏有之郷。
新中華界域は、中国人の本質に向き合うことでその創造に成功した。
ノイナーは言う。
統治の柱は、思想・情報・通貨。
そして性愛であると。




