【第十三章】2027年7月27日 ファーストクラス(アイスの物語)
──これは、夢だろうか?
わたしはそう思った。
いい夢か悪い夢かという話ではない。状況が現実離れしていた。
いえ、わたしはこの手の現実だって、過去にはよく知っていた。
自分が再びそういう扱いを受けるとは、もはや夢にも思わなくなっていただけだ。
中国駐日大使館、庶務雑務科による新中華界域視察チーム──。
つまり、宋科長とわたしと謝雨萌に準備されたチケットはファーストクラスだった。
【NC801便】
am8:30 北京大興国際空港発
am11:50 界延安ロイ・マイセン国際空港着
新界域航空、英語名はNeo-Sino Air。
今年の4月に就航したばかりの、彼らの実質的なフラッグキャリアだ。
まだ就航本数はすくないものの、湾岸の王族系キャリアにも負けないハイクラス向けのサービスが売りで、すでに世界の航空会社レビューでは軒並み高評価を叩き出している。
今回の視察出張について、界域側は詳細な日程や交通手段を事前に明かさず「7月27日の朝6時半に北京市内の宿泊先ホテルのロビーにいるように」とだけ伝えてきていた。
そこで、わたしが前夜に泊まった格安チェーン系ビジネスホテル、七天如庭酒店──庶務雑務科なので支払いは自腹なのだ──の北京南站店で待っていると、党幹部御用達の中国国産高級車・紅旗のHQ9が玄関前に静かに横付けされた。フロント左右のフェンダー上には、中国国旗と、それよりワンサイズ小さい新中華界域の行政区画旗の小旗がはためいている。
そのまま空港に連れて行かれて、界航ファーストクラス専用ゲート前で下車した。制服姿のスタッフの挨拶を受けながら、この待遇に首を傾げている宋科長や謝雨萌と合流して専用ラウンジに案内された。
界航スタッフにパスポートを手渡し、最高級の普洱茶とツバメの巣のスイーツを供される間に出国手続きが終了する。いちいち出国レーンに並ぶ必要はなく、荷物もいつのまにか、X線検査なしで機内に積み込まれていた。
パスポートを返却され、再び紅旗に乗ってタラップ横付けで搭乗する。エアバスの最新鋭機だった。
「Mademoiselle Bai, bienvenue à bord. 白希冰お嬢さま、本日は当機にご搭乗をいただき……」
完全個室のファーストクラス・キャビンに入室後、ウェルカムドリンクのドン・ペリニョンに一口だけ口をつけたところで、機長がCAを引き連れて直接挨拶にやってきた。
「ご丁寧にありがとうございます。安心して機長にお任せいたしますわ」
わたしはグラスを置き、フランス語で応じて軽く微笑んだ。育ちによる慣れは恐ろしい。数年ぶりの体験でも、自動再生のようにこういう所作が出る。
機長はフランス人で、ファーストクラス担当のCAたちは日本人・アメリカ人・イギリス人だった。わたしがフランス語や日本語を話しても、彼らはかたくなに、冒頭の口上以外は外国人なまりの中国語しか話さなかった。英語すら使おうとしない。
欧米人や日本人は、かつて祖国を侵略した帝国主義者の末裔だ。そんな彼らを中国人のVIPに膝まづかせ、徹底して奉仕させる。キャリアとしてそんなコンセプトがあるのだろう。
正直なところ──。
わたしだって中国人だ。なので、この手のもてなしは悪い気はしない。
つい2年半前。白錫来おじさまが健在だった時代には、マクドナルドでポテトを買うみたいな当然さで、こうしたサービスを受ける機会も数多くあったのである。
目の前の歓待が、新中華界域側のなんらかの意図にもとづくことは理解している。
そもそも、わたしが受ける特別扱いは、自分の努力の成果として勝ち取ったものではない。わたし個人の人間性とも無関係な理由から生じている。だから、自分が特権的な立場を享受して当然であるかのように考えるのは、大きな思い上がりだ。
いまのわたしは、その事実はよくわかっている。
だが──。
徹底的な計算にもとづき疎漏なく提供される、至高の快適性。
その根底に流れる、端正な無表情さとも言うべきVIP向けサービスの思想。
懐かしい。
わたしが育った故郷の空気だ。そんな思いを消すことができない。
■
──ところで、あれも現実だったのかしら?
機体の上昇中、全身にしずかに重力を受けながらそんなことも考えた。
あちらの現実は、過去には経験がない。
昨日。
天津空港に到着後、翔平のトランジット時間が6時間もあり、わたしも急いで北京に行く必要はなかった。なので、自分から提案してふたりで天津の街に出かけた。
それが、とても楽しかったのだ。
正直なところ、わたしは今回の新中華界域への出張は──。
より正確には乗り換えのための中国行きは、気が進まなかった。
もちろん、わたしはこれでも祖国を愛している。中国に戻りたくないなんて、職業上も倫理上も考えるべきではない。
ただ、行き先が北京となると話が違った。あの街は特別なのだ。
自分から尋ねたいと思える人は誰もいないけれど、わたしの顔を知る人がたくさんいる。かつての同級生や同僚の間で、失脚した自分が意地悪な好奇心の対象になっていることも、おおむね察しがつく。
街で誰かに会わないとも限らない。
面識のないどこかの誰かが、なぜかわたしの顔を知っていて(困ったことにそういう事態も多いのだ)、無用な関心を持つ人たちにあることないことを触れ回るかもしれない。失脚者の末路についての噂話は、北京の民の最大の娯楽だ。
わたしが今回の渡航に、わざわざ天津行きの春眠航空を使ったのは……。
やはり、ぎりぎりまで北京に近寄りたくないという心理が最大の理由だった。
もっとも、思い切って正直に言うと──。
中国入国の第一日目、翔平に隣にいてほしかった。
そんな気持ちもあった。
近ごろ、けっこう居心地がいい東京での日常。
その時間をわたしに与えてくれる相手。彼がいっしょなら、中国にも多少はリラックスして戻れるような気がしたのである。
わたしは最近気がついたのだが、対等な人間関係というのは、たまには相手に甘えたり頼ったりしても構わない。逆に彼がそうしたいときに、わたしが頼られるに足るほどしっかりした人間であればいいのだから。
それなら、両者の関係はやっぱり、対等だ。
天津でのわたしはちょっとはしゃいでいたと思う。
19世紀以来の西洋建築が多く残っている五大道に行って──。まあ、あちこちでスマホの自撮り配信をする人だらけで異国情緒なんか吹き飛んでいた場所だったけれど、そういう感想を共有できる相手がいるのは楽しい。
租界の古い建物のカフェで飲むコーヒーはすてきだ。翔平と歩きながら半分づつ食べたソフトクリームも、驚くほどおいしかった。よく考えてみると、わたしは過去に中国の街で誰かと買い食いをした覚えがないのだが、やはり自分の人生経験にはなんらかの欠損があった気がする。
「日本でも横浜とかは、ここと若干近い感じだぞ。おれたちの組み合わせで中華街に行く気にはならないけどな」
「へーえ」
わたしはココア味のソフトクリームを食べながら言った。
「じゃあ翔平、ひとりで横浜に行ってよ」
「なんでそうなるんだよ」
「それなら監視のためについていけるもの。あと、鎌倉と横須賀も行ってね」
ああ、どうしてわたしはこういう言い方しかできないかな。
でも、彼は「行く」と言ってくれたので、日本に戻ったら横浜に行くのだ。
鎌倉と横須賀も。
たのしみ。
■
「おい、この飛行機やべーよ。機内Wi-Fiの速度、下り960Mbpsで上り850Mbpsだぞ。どんな技術力だよこいつら……。って、おまえなんかスケベ顔してね?」
わたしの回想は、キャビンへの訪問者によって中断された。
謝雨萌である。彼女の見立ては断じて拒否したい。
「まあ、リア充の日常はどうでもいいとして、この機はチャガンに感謝だな。完全に個室だから作業がはかどってたまらん。メシ食いたきゃ持ってきてくれるし、あたしゃここに永住したいよ」
ファーストクラス・キャビンがあやしげな漫画の制作部屋に。事実を知ったら、さっきの機長とCAたちは卒倒するだろう。
ちなみに隣のキャビンの宋科長は、例によって「日本のねえちゃんはサービスがいい」とかCAにひどいことを言いながら獺祭をがぶ飲みしているようだ。到着後に新中華界域側との顔合わせがあるはずだが、あの人は仕事をする気があるんだろうか。
とはいえ、どんな環境でも振る舞いを変えない謝雨萌たちも、わたしの日常の一環だ。
仮に新中華界域の視察が自分一人ならと考えるとぞっとするので、やはり謝雨萌が同行しているのは助かる。
それでも、宋科長はいらないけれど。
「しかし、記者としては多少の真面目な感想も抱くな。界域のやつら、カネありすぎじゃね? こりゃあ異常だろ」
ドアを閉めた謝雨萌が、声のトーンを落として言った。
それはわたしも感じていたことだ。ミャンマーの経済情勢は専門外でしっかり把握していなかったが、例の6・4テロの後に調べ直して目を疑ったのである。
新中華界域の表向きのGDPは、推定で1000億ドル超。近隣国のラオスやカンボジア、さらには本国のミャンマーをも上回る数字だ。
彼らは5年前、支配地域内での石油とウラン鉱山の採掘に成功、さらにシャン州の豊富なレアメタル資源の安定供給にも目鼻をつけた。柔軟で合理的な経済政策による金融センター化も順調らしかった。近年、香港の地位が没落していることで、その補完的地位を確立しつつあるらしい。
企業誘致についても、中国のEV大手のBRD、ドローン大手のDJY、通信大手のHUAWAIやXiaoni、台湾企業でEMS最大手の隆海精密工業……と、錚々たる面々の工場や研究所の進出が発表されている。
人件費は中国の3分の1、なのに中国国内と同レベルの労働者を大量に供給できる社会設計がなされており、いまやチャイナプラスワンの選択肢の筆頭に上がっているそうだ。
「いくら人件費が安くても、内戦中の軍閥にわざわざ進出する中国企業もなに考えてんだって気がするけどな」
盗聴器を警戒してか、謝雨萌が耳元でささやいた。
そのあたりの事情は調べているみたいだ。表向きは真面目な記者なので、宋科長と違っていちおう仕事はやっている。
「首府の界延安特別市やタイ国境のタチレクSEZの治安が極めて安定している、ということみたいね。それでも多国籍企業のデューデリジェンスに耐えうるのは驚くけど」
「党からのプッシュが強いのかもな。ウチの主席が、こないだも界域を褒める演説を発表してたし」
あり得る話だ。
進出しているのは大部分が中国本土の企業。台湾のファックスコムも党との関係が非常に良好だから、要望を聞き入れるだろう。ちなみにファックスコム創業者のテリーマン・ゴーは往年わたしのおじさまと仲がよく、重慶市に巨大工場を建設していたのだが、今後に新中華界域に移るのはこの重慶市の工場機能らしい。
いっぽう、界域の実際のGDPは、表向きの数倍はあるという噂もある。
「特殊詐欺拠点とオンラインカジノ拠点、マネロンと麻薬製造と売春。ここ十数年、主席のステキな魅力のせいで中国本土がクリーンになったから、国内の黒い産業が一気に東南アジアに流れ出た。新中華界域にしても、もとはそのへんのやべー産業で経済力がハネた場所らしいな」
通称、中華暗黒ベルト。
祖国にとっては不名誉な名称だが、事実としてその現象はある。往年、おじさまとチャガンが叩き潰した重慶の黒社会も、カンボジアやミャンマーに流れ込んだと聞いているのだ。
「界域の場合、石油とウランが見つかって外ヅラが一気にホワイト化した。もっとも、実際はいまでも裏でいろいろアレなことをやっている。……って、丸山ゴ●ザレスがYouTubeで言ってたぞ」
謝雨萌の見立てに異論はなかった。
でも、丸山ゴ●ザレスって誰かしら。
■
NC801便が静かに滑走路に滑り降りた。
天候は快晴。気温は29度。高い山々で囲まれた盆地に、真新しい空港施設が見える。香港国際空港とやや似たデザインだった。
「……くっせ。こいつ、これで外交の場に出る気かよ」
駐機した機内で、出口に向かう宋科長から漂う臭気に、謝雨萌が声をひそめて言う。ニンニクと日本酒と、なぜか排水口の下水臭が入り混じったひどい臭いだ。
宋科長は前夜、北京の安食堂でしこたま焼烤(串焼き)を食べて二鍋頭を開け、機内で迎え酒をかっ食らってから吐いたらしい。界延安への車はこの人とは別の車両にしてほしいと、チャガンに頼もう。
「マドモアゼル。あなたから先にお出になってください」
職業的自制心で臭気を我慢しているらしき機長が、小声のフランス語でささやいた。彼には本当に申し訳ない。
そして──。
タラップに出たわたしは、中国の革命歌「没有共産党就没有新中国」をアレンジした大音量のファンファーレに包まれた。
■
浅黒い肌を民族衣装で包んだ美しい女性たちが、タラップ下の滑走路に100人近くも居並び、いっせいにワーイをおこなう。タイ人やシャン人がおこなう合掌の挨拶である。
彼女らの背後には、漆黒のハイテク戦闘用スーツに身を包んだ新中華界域城市戦術警備隊(実質的に軍隊だ)の大柄な兵士たちが、目算で300人。
さらに正面には──。
金色のサッシュを右肩からかけた、見知った顔の男が純白の軍礼装姿で立っていた。
肩章には赤い星。腰の儀礼刀は西洋風のサーベルではなく、モンゴル式の湾曲した刀だ。黒漆の鞘で、柄は鹿角に金糸を巻いている。
「銀河英雄伝説みたいなやつが出てきたな。あいつがチャガンか?」
後ろに立った謝雨萌が言う。
彼女の比喩はいつもよくわからないが、フィクションの青年軍人めいた姿、と言いたいのならばその通りだろう。
チャガンの隣には、細身で手足の長いアフリカ系男性が立っていた。縁無しのメガネを掛け、服装はなんと中山装(人民服)だ。
オーダーメイドらしい仕立ての良い墨黒の生地で、左胸のポケットの蓋がアフリカの民族衣装風のデザインになっている。おしゃれの上級者だな、と場違いな感想が浮かんだ。
そこでスッと音楽が止まる。
「中華人民共和国駐日大使館よりお越しの宋建峰館務総監閣下、白希冰一等書記官殿。並びに人民曰報日本支局長、謝雨萌記者。新中華界域は偉大なる御来賓を熱烈に歓迎いたします!」
チャガンがそう叫び、軍楽隊が中国国歌を奏ではじめた。
彼とアフリカ系男性が歩み寄る。
「あらためて自己紹介を申し上げます。界域城市戦術警備局長、チャガン・バトエルデネ。王昊天総司令のもと、警察軍事部門の実務を主管しております。隣のこちらは──」
「ンサヴィマナ・盧凱・アランです。界域国際事務戦略協調局長。外交部門を束ねております。欧米言語ではアラン、中国語では盧凱とお呼びいただければ幸いです」
なまりが一切ない、完全にネイティブと思えるような中国語だった。後に知ったところでは、盧凱はアフリカ東部のルワンダ出身だ。現地に中国政府が建設したキガリ孔子学院で中国語を学び、留学先の北京外交大学で博士号を取得したらしい。母校の面ではわたしの先輩ということか。
■
宋科長から順番に握手を交わし、背後に数台停めてあった黒塗りのロングリムジンに案内される。
「宋建峰閣下、私どもはあなたの部下の白書記官と車内で雑務の打ち合わせをおこないます。閣下は賓客として、あちらの特別車両で先にご移動ください」
チャガンの指差す先には、さっきまで滑走路で出迎えていた女性たちが5人ほど、リムジンの前で微笑んでいる。
「お、うははは、悪いですなあ。これは悪い。ところでこのコたち、チェンジは可能ですかな」
なにを言い出すの。
しかし、チャガンは職業的な微笑を浮かべて「ご随意に」と応じた。
「じゃあ、あっちのおっぱいでかいコと、むこうのロリっぽいコと清純派っぽいコ。あ、やっぱ取り消し。そのコは意外と年食ってそうだから、隣の──」
宋科長は100人ほどいるコンパニオンの顔とスタイルを一瞬でサーチできるらしい。昭和の日本人のおじさんたちも、東南アジア出張ではこんな感じだったのだろうか。
つくづく、こんな人が自分の上司なのが情けなくなるが、彼と同じ車で移動しなくていいのは助かった。お守りをする彼女たちには本当に気の毒だけれど。
「ところでチャガン。いいかしら?」
満面の笑みの宋科長が女の子の群れに走っていってから、わたしは口を開いた。
「いかがなされましたか? 白希冰お嬢さま」
「要望がふたつ。今後、お嬢さま呼びはやめて頂戴。あと、こちらの謝雨萌さんは大切なお友だちなの。いっしょの車に乗せて」
「それは白家の姫としてのご下命でしょうか。それとも、外交官としての?」
「解釈はゆだねるわ」
チャガンは口元に一瞬だけ笑みを見せ「御意」とつぶやいた。




