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【第十二章】2027年7月26日 春眠航空(翔平の物語)

 ──これ、夢か?

 おれはそう思い続けていた。

 いや、いい夢か悪い夢かって話じゃない。状況が現実離れしていた。


 おれは中国行きの飛行機に乗っている。

 ほぼ20年ぶりの母国だ。

 まあ、これはいい。いまや自由の身のプータローなんだから、旅行くらいは。


 飛行機は悪名高き中国系LCC、緑の機体の春眠スリーピング航空・エア

 茨城発の天津行き。この区間だけなら往復3万4000円。

 シートは激狭でビニール張り。都バスのほうがまだマシな乗り心地。

 機内の9割は中国人。しかも、困ったことに金持ちなんか誰も乗っていない。


 飛行機が不慣れらしく離陸からずっと仏様に祈っている婆さん、騒ぎすぎてゲロを吐く夏休みのキッズ、その隣で平然と配信用動画を撮影して喋り続けるコスプレ姉ちゃん、ベルト着用サインの消灯前にトイレに立ってCAに怒鳴りつけられる角刈りのおっさん。

 カオスだ。

 春眠(あかつき)を覚えず。文字通り心を眠らせて耐えるしかない。

 ……だが、これも現実だ。激安チケットなんだから。


 場違いなのは隣の窓際席に座っているやつだった。

 いい匂いのするマッシュボブのつややかな黒髪。春眠航空CAの10倍くらいはきっちり着こなしたスーツと、左手首で静かに輝くフランク・ミューラー。ツンと伸びた鼻筋。手元にはフォーリン・アフェアーズの外交論文が表示されたiPad。

 形のいいアーモンドアイを伏せ、窓の下の九十九里浜に憂いを帯びた視線を送る。

 こいつの周囲だけ、春眠航空のビニールシートがJALのファーストクラスになってるぞ。地獄に舞い降りた天界の民かよ、おまえは。


「到着後はどうするの?」

「乗り継ぎが6時間と微妙な感じだからな。天津で適当に時間を潰すよ。おまえは?」

「上司は北京の外交部に挨拶に行くけど、わたしは政治的に迷惑だから来るなって言われた。だから、天津空港から北京まではのんびり行くわ」


 そうである、非現実的現象とはこれだ。

 おれはいま、アイスといっしょに中国行きの飛行機に乗っている。

 しかも、なぜか激安LCCの「茨城⇔天津」便に。


 どこから事情を話せばいいかな。

 そうだ、7月16日だ。おれの会社が潰れた日な。

 あの日、おれと元同僚たちは、さくらぎソフトの倒産記念でサウナに行って、夜は居酒屋でお別れパーティー。クソ職場だけどチームの仲はよかったのだ。アイスからは、今夜のお迎えはなしだとRINE(ライネ)が来ていたし。

 いっぽう、彼女は同夜に極めて衝撃的な事件があったらしい。

 子どもの頃から顔を知っていて、現在はミャンマーのネオ・中華シーノ・界域フロンティアの幹部を務めているやつと会って──。

 ああ、すでに意味不明だよな。


「チャガン・バトエルデネ。中国名は察罕ちゃあはん。モンゴル族で、おじさまの腹心だった人よ」


 その次の週明け、7月19日の夜だ。

 北京亭で夕食を食べながら、アイスはそう話した。

 食卓には広東風の煲仔ばおざいふぁん。土鍋に入れた生米の上に中華ソーセージとチンゲン菜を乗せて炊き込む。時間がかかる料理なのではじめて作ったが、なかなかいい出来じゃないか?

 いや、煲仔飯の話はどうでもいい。問題はチャガンだ。

 アイスが以前に知っていた彼の肩書きは、重慶ちょんちん市公安局長である。

 重慶市は中国最大の街で、人口が3200万人もいる。当時のチャガンは、そこの警察のトップだったらしい。日本でいえば県警本部長、いや、それ以上の地位だ。

 彼の異例の若さでの出世は、重慶市を支配するばい錫来しーらい──、つまり、アイスのおじさまの意向が大きかった。

 家宰。

 白一族を代々支える「白家の盾」。チャガンは重臣筆頭の家柄だったのだ。


「ファイアーエムブレムのジェイガンっぽい感じか」

「それはよくわからないけど、いん聞仲ぶんちゅうとか、バットマンの執事みたいな家柄。社会主義国の中国に『家宰』なんて制度はないけれど、実際はそれに近い人たちはいるの」


 往年、アイスのひいじいさんが故郷の山西省で旗揚げしたとき、股肱ここうの臣として付き従ったモンゴル族の名将がいた。それがチャガンのじいさんだ。武人の義理堅さで、彼らはその後も代々、中国共産党そのものよりも白一族に忠誠を誓い続けたらしい。

 しかもチャガンの場合、父親が若き日の白錫来を警備中にかばって死んだとかで、学費や生活費を白錫来に負担してもらっている。結果、彼は中国人民公安大学に入って友好国のロシアに派遣留学し、帰国後は警察のエリートの道を歩んで──。


「なんだか、前に聞いたお前の経歴と似てないか?」

「そうなのよ。おじさまは中国政府の各部門に、自前で養成した人材を送り込んでいたの。チャガンは公安部で、わたしは外交部。年齢は離れているけど、ある意味では兄みたいな人」

「アイスの兄貴か」

「本人は『兄』じゃなく『白家の盾』だと思ってるけどね。おじさまが失脚した際も、重慶市の公安部隊を総動員して白家の防衛を計画したみたい。でも、事前に党中央に察知されて国外に脱出したと聞いたわ」


 物騒なやつだな。

 そんな兄貴(仮)が、夜のこんにゃく閻魔の前で彼女に話しかけてきた。

 いわく、現在の自分はミャンマーの新中華界域の警備軍事部門の最高幹部であると。

 6月4日にシーラが暴走してアイスを銃撃した件は「命令系統が異なる部門」とはいえ大失態だった。謝罪も兼ねて誤解を解きたい。ぜひ、いちど新中華界域を見に来てほしいと。


「異議が大ありだ。なんでそれに、あたしも行くことになってんの? 夏に長期の海外出張とか、人民曰報マジでふざけんなと言いたいのだが?」

 ああ、そうだ。

 あの夜の北京亭には、こいつもいたのだ。

 しぇ雨萌ゆぃもん。平素はクソまじめな党理論家……に擬態して、党にバレると物理的にクビが飛ぶ激エモ激シコ神BL作品(本人談)を描き続ける覆面同人作家、レッドスター先生。

 アイスいわく、こいつにはなにを喋っても問題ないという。まあ、六四天安門事件と聞いた際の最初のリアクションが「戦車✕バリケード」だったからな。安全なやつには違いない。頭は腐ってるけど。


 だが、そもそも奇妙だった。

 中国大使館員のアイスは、本来なら第三国に行けない。たとえバカンスでも上の渡航許可が必要だし、左遷者の彼女にそれが認められるはずもない。

 事実、アイスはチャガンにそう伝えたらしい。しかし。

「問題ありません。その点も含めて、希冰さまに新中華界域の実力をご理解いただけると考えています」

 われわれはただの軍閥やテロ組織ではない。中国共産党の真の理想を実現する中国人の新たな空間であり、一大経済体でもある。ゆえに大概のことはなんとかなる──。

 チャガンはそう話したという。


 やがて週明け、月曜日にアイスが出勤すると、午前中のうちに辞令が下りてきた。

 いわく。


・総務部庶務雑務科は今後、党の国際戦略である一帯一路政策に関連して、中国駐日大使館と新中華界域当局との連絡調整業務を担当する。

・さしあたっては事前調整と相互理解促進のため、同科長の宋建峰と科員の白希冰に10日間の現地視察および、界延安イエンアン・ノヴァ特別市で開かれる新中華一帯一路経済協力フォーラムへの出席を命ずる。

・なお、中継地の北京より先の日程は界域側が旅費を負担し、視察日程を調整する。宋科長と白希冰は大使館業務として北京に出張のうえ、それ以降の行動は界域側の差配に任せられたし。

・付記。フォーラム報道のため、現地には人民曰報日本支社より謝雨萌記者が同行取材する。


 なんてことだ。

 アイスに説明されなくても、命令の異常さはわかる。彼女の部署に、そんな()()()()()()()仕事が降ってくるはずがないのだ。

 新中華界域は、中国駐日大使館の業務内容に介入し、アイスを自由に出張させられる能力がある。そう判断するしかない。

 だが、中国官僚の鉄の組織に対して、そんな工作をどうやって──。


「煲仔飯、やっぱ地元(広東省)で食うほうがうめーな。ま、無職若作り中年男性が作ったこれも悪くはないが」


 謝雨萌が思考の緊張感を削いだ。

 鍋半分を平らげてから、料理を作った人に言うセリフなのかそれは。

「話を聞く限り、その連中は人民曰報にも介入したっぽいね。単純にプロパガンダが目的なら、北京の本社の記者を呼ぶほうが簡単だ。あたしにミャンマーくんだりまで行かせる必要はない。マジで一切ない」

 あの連中なら、アイスの同居人が謝雨萌であることはとっくに調べているだろう。ひょっとしたら、最近の2人が仲良くしていることも。

 人民曰報は普通の新聞社ではなく、党中央の機関紙だ。つまり、新中華界域は党組織もある程度はコントロールできるってことだ。


「……諸悪の根源は新中華界域ってことか。マジ許せねえ」

 謝雨萌がレンゲを持つ手を震わせた。

「あいつら! うちの原稿落ちたらどーすんだよ! 線画の主席&前総理イラスト集出版でごまかすハメになってレッドスター先生超絶劣化とか未完商法やるやる詐欺で草とかXで叩かれて、売り上げガタ落ちで次回は印刷所と書店に土下座じゃねーか! そうなったら責任取れんのかチャガンとかいうアホは!!!」

 どうやら、自国の党組織や国家機関が謎の武装勢力に侵食されている事態よりも夏コミのほうが重大事らしい。

 まあ、こいつは触れずにそっとしておこう。


 ──とにかく、そんなわけでアイスは出張することになったのだ。


 機内。

 茨城空港のコンビニで買ったホットスナックを食べながら、「おまえ、北京に戻るのいつぶり?」とアイスに尋ねた。


「2年半ぶり。ちょっと複雑」


 そうだろうな。彼女は北京育ちとはいえ、現地に会うべき友だちはいない。帰るべき家もない。外交部本省への立ち入りすら認められない。

 まだしも、市の郊外に両親の墓があるおれのほうが、あの街に多少の縁が残っているのが皮肉に思えた。


 そもそもアイスが春眠航空に乗っているのも、左遷部署ゆえの悲劇だ。

 大使館のお荷物である庶務雑務科。その一般科員(科長以外)の海外出張は、日本国内の全空港・全フライトのなかで最安値の中国便チケットのみ経費申請を受理。自宅から空港への移動は自腹──。という、在りし日のさくらぎソフトもびっくりのブラック内規が存在するそうなのである。

 完全にいじめじゃねえか。

 もっとも、おかげでおれは往路に同じ飛行機に乗っているのだが。アイスの出張期間中、自分も新中華界域に行ってみようと考えて、スカイスキャンでいちばん安い乗り継ぎチケットを探して買ったのだ。

 茨城→天津→襄陽しゃんやん貴陽ぐいやん西シーサンパン→ミャンマーのタチレク。所要時間45時間のいかれた旅程である。

 アイスたちも一応は外交使節だ。苦労して渡航したって、界域の現地で会えるかはわからないけどな。


「でも、おまえは俺と同じ便でよかったのか? 自腹で普通のチケット買って、成田から謝雨夢と行く手もあっただろ?」

「まあ、それはそうなんだけど……」


 アイスは一瞬口ごもってから窓の外を見て、「にんむ」と小さくつぶやいた。

 なんだ? 別に機嫌は悪そうじゃないし、眠いのかな。都内から茨城空港まで移動するバス、5時起きで乗らなきゃいけなかったからな。


 機体は朝鮮半島を抜けて、黄海上空を飛んでいた。逆の側の窓の外には山東しゃんどん半島が見えているだろう。そういえば、俺の母さんは山東省出身なんだよな。


 今回はあくまでも乗り換え地だ。

 とはいえ、中国大陸はもうすぐである。

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