【第十一章】2027年7月16日 白家の盾(アイスの物語)
朝7時。
千代田線の綾瀬駅を出ていつもの道を歩く。
駅から徒歩5分。
監控対象──。と、いまさら言うのはバカバカしいけれど、つまり翔平の家がここにある。
中華料理、北京亭。これが彼の自宅だ。
かすれた文字。16年前に彼のお義父さまとお義母さまが相次いでガンで亡くなって閉めた店。
建物が持ち家だったことで、翔平はそのまま自宅の2階に住んでいる。
あ、でも、1階の北京亭も役割を終えたわけじゃないのだ。
とりわけ、最近は。
「早上好」(おはよう)
いちおう仕事なので、やや堅めの挨拶で引き戸を開ける。
翔平が「よ、おはよ」と出迎える。
「朝メシ食ってくよな」
わたしが「うん」と言う前に、翔平が厨房スペースに向かった。
砂糖を入れた温かい豆漿と油條、焼き餃子が2つ出てきた。北京の朝食だ。
「あ、うちで茶葉蛋を作ってもってきた」
「ありがたいな。食べよう」
油條は中国式の揚げパン。茶葉蛋は、茶葉と八角、桂皮で卵を煮込んだだけの料理だ。簡単な朝食だけれど、なかなか美味しい。
ちなみに翔平は、むかし家業を手伝っていたせいか、意外なことに料理が上手い。油條や餃子は中国物産店でも買えるのに、これはおそらく自分で作った味だ。いっぽう、料理といえばわたしは──。いや、その件はいい。
わたしが北京亭で朝食を摂るようになったのは、6月なかばごろからだ。
もともと、彼の家の前で毎朝張り込み、会社に到着するまで監視してから大使館に出勤するのが毎日のルーティンだった。だが、いつの間にか新たな日課が定着してしまったのである。
ちなみに夕食も、うちのルームメイトのメガネ──謝雨萌といっしょに食べに来ることがある。神社の一件は彼女しか知らない話だったらしく、別に外で食べてもいいのだが、こちらのほうが落ち着くのだ。
前には仁間さんとかいう翔平のお友だちと顔を合わせたこともあった。なんだか不思議な人だったけれど、野球? の選手はああいうものなのか。
まあ、わたしの連れのメガネも同じくらい変に思われていたはずなので、そこはお互いさまかな。
「毎朝、出る前に家に迎えに来るとか、集団登校の小学生かよって感じだが」
「日本はそうなのね。子どもだけで登校なんて、想像できないけど」
「楽しかったぞ。登校中にドブに入ってザリガニを取るバカがいてな。つまりは俺のことだが」
どうでもいい雑談をしながら駅に向かう。
いつもの朝。
いつものラッシュアワー。
いつも通りに翔平が会社に入るのを見届けて──。
いや、今朝は異常事態が起きていた。
さくらぎソフトが消滅していたのだ。
「グハハハ、マジで会社が飛びやがった」
「慣れりゃどうってことねえよ。勤務先が潰れたのは人生で2度目だ」
わたしが距離を取って眺める先で、翔平が加賀さんという声の大きな同僚と話している。
若手の社員がうろたえているのに、2人は平然としているようだ。日本のブラック会社員はこわい。わたしも幼少期から感情を表に出さない訓練をしてきたが、彼らは別種のなにかだ。
……そんな光景を見ながら、ある問題に気づいた。
翔平の会社が倒産。
じゃあ、わたしの監視任務は終わるのか。
■
「ねえ、白ちゃん、今日の昼、時間をもらえない?」
その日の職場で、意外な人物に声をかけられた。
李秀蘭。通称、李姐。
元夫の不倫のとばっちりで日本に左遷された気の毒な人だ。若いころは美人だっただろう、と思える比較的整った顔だちだが、生活と人生に疲れたオーラがそれを覆い隠している。
彼女は庶務雑務科で唯一の有能な科員だ。ただ、話しかけづらい雰囲気があり、深い付き合いはない。まあ、大使館内でわたしと親しい人なんかそもそも誰もいないのだけれど。
なので、誘いにはすこし驚いた。
公園でキッチンカーのお弁当を開ける。
店よりも外のほうがいいのだという。支払いは彼女が持った。
「大したことじゃないのよ。子どもの宿題に付き合ってほしいの。ただし、他の人には内緒で」
小学校3年の娘が、塾の夏休み前の宿題で身近な大人の職業を調べるそうだ。
「日本の私立中学受験塾って、低学年のうちはこういう課題をさせるのよね。小学校だと、最近はやらないらしいけど。各家庭の差別になるからって」
この人は、子どもの話だと口数が増えるらしい。
しかし、彼女は中国大使館員なのに、娘を日本の普通の小学校と進学塾に通わせているのか。そういえば大使館宿舎で姿を見たことがない。
「私の仕事は、日本側の塾や学校には内緒。だから、自分では宿題の取材を受けられない。でも、母親として娘の関心には応じてあげたいの」
「別の同僚や、前のご主人にお頼みする選択肢は?」
事情はわかったけれど、わたしが協力する理由はない。
「庶務雑務科の他の科員たちに、教育的意義があると思う? あと、前の旦那はねえ……」
李姐の目が暗く燃えた気がした。
「不倫女とのハメ撮り動画が微博で暴露された罰で、南シナ海で10年間の勤務中なのよ。孤島の掘立て小屋に1人暮らし。畳2畳分のクソでかい中国国旗を振り回して、近づいてくるベトナム漁船を大声でビビらせる特別任務。笑っちゃうでしょ」
李姐の元夫は中国外交部の広報官で、一時期はテレビで顔をよく見た。自業自得の末路ながら、わたしの左遷よりもひどい処分だ。
「ほんと笑えて……。へへへ……ざまあみろって感じよ。男はねえ……。不倫をするのよ不倫を! 妙に帰りが遅いから変だと思ったのよ女の勘を舐めるんじゃないわよ高齢出産頑張ったのにちくしょう」
私の人生を返せ。彼女の割り箸がボキッと折れた。
心の余計なスイッチを押したようだ。人間、こうはなりたくない。
さておき、深入りしないのが得策だろう。
大使館宿舎に居住せず、娘に日本の私立中学を受験させる──。つまり、李姐は将来的な外交部からの離脱と、日本移住を狙っているのだ。
彼女と無用な接点を持って、自分の政治的失点をこれ以上増やしたくない。わたしより20歳近くも年上の、陰気な先輩の世話をする義理もない。
しかし、そもそもなぜ、彼女はこんなリスキーな情報を自分から開示するのか。
「やっぱり賢い子ね。他の科員とは大違い。……ただし、あなたも弱点がひとつあるでしょ」
え?
「翔平くんの一件。サレ妻の勘をなめてもらっちゃ困る。アホ上司と他の無能科員は気づいていないけどね」
「あの」
「大丈夫。この件を適当にごまかしてるの、実は私なのよ。あんな職場のあんな任務だから、一定の理解はしてるつもり」
李姐はすこし笑った。
「……ただし、逸脱はお互い様だから多少は協力せよと?」
「Exactly。話が早くてありがたいわ。外交官式交渉術ってやつだから、悪く思わないでね」
▪️
同夜。李姐と地下鉄の春日駅を出た。
こんにゃく閻魔の前を言葉すくなに歩く。彼女が「ちょっとごめんね」と話し、小石川のダイエーに立ち寄った。
野菜とヨーグルト、さらにバーモントカレー甘口のルー。娘の味覚がすっかり日本の子どもになっていて、中華料理は食べてくれないそうだ。
軽い文化的反感を覚える。
いくら日本で育てるつもりでも、私たちの血は中国人なのだ。祖国の料理に慣れるように、甘やかさず教育すればいいのに。
李姐の家はダイエーから路地を入ったマンションだった。築20年、家賃14万円。部屋の占有面積は大使館宿舎の2人住み独身者ルームの──、つまり私とメガネが住む部屋の3分の2ほどだ。
「散らかっていてごめんなさいね。今日、いきなり呼ぶと思わなかったものだから」
確かに雑然としていた。机の上にはなにかの請求書。さらに娘の筆記用具と「四谷サピ能研」、つまり塾のテキストがそのままだ。
床にはニンテンドースイッチ? のコントローラーが片方落ちている。壁には子どもの賞状と小学生向けの日本地図、冬休みに書かれた「お正月」の書き初め。
字を見る限り、子どもに書道を習わせていないらしい。わたしは幼少期、中国の児童のたしなみとして真っ先に叩き込まれたのだが。
▪️
李姐が「すぐ戻るから」と、近所の学童保育所に娘を迎えに行った。
出されたティーパックの日本茶を前に、ため息をつく。
党を離れる人生とは、こういうものなのだ。
加えて、人それぞれの生き方は理解するけれど、たとえ党を捨てても子どもを中国人にする教育まで捨てなくていいのに。人間の規範というものがある。
小学生の相手も億劫だった。
実はすこしだけ、子どもが苦手なのだ。
わたしは幼少期から、大人から見て聞き分けのいい子だった。大人に駄々をこねたことも、人前で泣きわめいたこともない。言われたことは習い事も勉強もすべてやって、自分の意見は言わなかった。
わたしは孤児で、なのに血筋は紅二代の白一族の子だったからだ。大人が必要とする役目を果たさないと、自分の居場所はなくなる。党と一族にあてがわれた「ご学友」の子たちも、それぞれが役目を演じている存在だった。
だから、普通の子どもらしい子どもを見ると、心のどこかが尖る。
「わたしたちとは違う子です。叱られるから遊んではいけません」
自分のなかにいる幼少期のわたしが、賢しらな口調でそう言ってくるのだ。
きっと、子どものときの翔平が目の前に現れたら、わたしは大嫌いになるだろうな。わんぱくボウズだったみたいだし。
……はあ。
わたしは将来、結婚したり母親になったりするのだろうか。本来それを意識しはじめていい年齢だが、現実感がまったく湧かない。
20年後のわたし──。
李姐みたいに不幸で疲れた女には絶対になりたくない。
でも、おひとりさまで中高年? 家庭のことなんか気にならないほど、人生を擲つに足る仕事なんて、この先も絶対に回ってこないのに。
考えすぎて落ち込んだ。
そんなときに玄関のドアが開いた。李姐が娘を連れて戻ってきたのだ。
▪️
「それで、外交官のおしごとって、どういうものですか?」
「自分の国と世界の人たちが、仲良くするお手伝いをする仕事よ。もちろん自分の国は大事だけど、相手の国にも中国と仲良くしてよかったなって思ってもらうのが大事なの」
丁寧に切り揃えられた柔らかい髪が揺れ、ビー玉みたいな丸い目がわたしをじっと見ている。言葉は日本語だ。ちゃんと敬語で喋っている。
李可心ちゃん。9歳。
わたしは先ほどまでの自分の思考を恥じた。
可心ちゃんは、かわいい。
子どもはかわいい。
中華料理が苦手でも大丈夫だよ。大人になってから食べたらいいんだから。文字も、子どもらしく伸び伸び元気に書いているからそれでいい。100点満点じゃないの。
「わたし、ママの国の中国も、おともだちがいる日本もすきです」
「ふたつの国は仲がわるいけど、おねえさんは仲よくするためのお仕事ですよね。かっこいいです」
とても耳が痛い。「中日関係はすごく難しいけれど、可心ちゃんママもわたしも、仲良くするための努力を続けているの」と話す。
「ぐたいてきに、どんな努力をしているんですか?」
質問がするどい。どうしよう。
翔平の監視と大使館の慰安旅行の計画づくりと、ダメ人間の宋科長のお守り。
私の仕事に、中日関係を改善できる要素は1ミリもない。
それにしても、思う。
可心ちゃんはかしこい。
外交官の親から生まれた中国人の子どもを、文京区の小学校と四谷サピ能研に通わせると、こんなにお利口で礼儀正しくてかわいい女の子ができあがってしまうのか。
日本で子育てという李姐の方針は──。正しいのかもしれない。
「おねえさん?」
「あっ、ごめんなさい。ええとね、よく考えてみたけれど、国家の秘密がたくさんでお話できないの。仲良くするためには、すごく難しい課題をひとつひとつ解決する必要があって……」
「すごいです。スパイファミリーみたい」
憧れできらきらした目が、わたしを逃してくれない。
ごめん。外交官の仕事は、嘘をつくことでもあるの。
でも、あなたはこんな嘘はつかなくていい大人になってね。
きっと、なれると思う。
▪️
「大変だったわよね。ありがとう、白ちゃん」
李姐が手元の缶ビールをブシュッと開けた。わたしも続けて開けて、宿題の成功に乾杯する。
午後9時15分。可心ちゃんはもう寝た。寝つきのいい子らしい。
彼女がわたしに懐いたことで、宿題が終わった後も、なんとなく帰りそびれてこの時間になっていた。夕食に3人で食べた甘口のカレーはとても美味しかった。
「あの、李姐」
「なあに?」
「ごめんなさい。あの、わたし」
世の中には、自分の目で見ないとわからないことがあったのだ。
彼女がすごくうらやましい。そう口にした自分に驚いた。
「どこが。結局、シングルマザーのしつけなんか限界があるのよ。あの子は中国人なのに中華料理も食べなくて、普段はもっとワガママで生意気なの。これは親の責任で……」
そんなことはない。あなたは子どもの教育環境を考えて、大変な経験のあとでも最大限に可能な範囲で自分の人生を設計しなおして、未来のために戦っているのだ。
人間の自立と、未来か。
わたしも、もっと頑張らなきゃ。
「ところで、例の翔平くん。会社潰れたんだって?」
昼にすこし話した話題だった。
「そうなんです。どうしましょう」
「どうもしなくていいわよ。アホ科長には、私が言い添えておくわ。日本一仕事がブラックな会社員がフリーランスになったが、やっぱりブラックだから懲罰任務の継続に支障なし──。こんな感じでいい?」
「ありがとうございます。助かります」
よかった。あの部署は李姐がいないと回らない。宋科長は彼女の意見なら聞くだろう。
「それにしても、高田翔平。中国名は高翔平か……。名前も彼の顔も、どこかで見た記憶があるのよね。気のせいかな」
「北京時代に資料を見たんじゃないですか? 彼の監視は駐日大使館の罰ゲームで有名ですし」
李姐は「そうかもねえ」と、あまり納得していなさそうな顔でつぶやいた。
缶ビールはあと半分を残して、ぬるくなりはじめていた。
さすがにそろそろおいとまするべきだろう。
▪️
夏の夜風が心地よかった。
長い1日だったが、心が弾んでいた。
理由はお酒を口にしたからではないだろう。
この1ヶ月ちょっとで、翔平とメガネと──。李姐。
党とも実家ともほとんど関係がない友だちが、3人もできたのだ。
自分に役割を与えられなくても、わたしはちゃんと生きていける。
人間活動、ちゃんとできている。
自分の人生で、これは小さな奇跡だと思うのだ。
「──希冰さま」
こんにゃく閻魔を通り過ぎたとき、中国語で自分の名を呼ばれた気がした。
日本に赴任してから2年半は、一度も聞いていない──。しかし、かつては日々耳にした表現。
「希冰お嬢さま」
間違いなかった。振り返る。
見知った顔の男が立っていた。
身長は翔平よりもすこし高い、180センチ台後半、細身で筋肉質。端正だが厳しさのある顔。
服装は仕立てのいいチャコールグレーの詰襟風のジャケットで、ボタンを上まで留めていた。足元はレザー製の乗馬靴。
そうだ。この人はたとえ私服のときでも、正規の制服以上に制服っぽい服装を好んだ。重慶市で警察官だったときから、なにも変わっていない。
「お久しゅうございます。日本へのご赴任に心を痛めておりましたが、お心ご安らかな様子。すこし安心いたしました」
やめてほしい。その言葉づかいは。
いまの自分に使ってほしくない。
もう、わたしは彼が知っている役割では生きていないつもりなのだ。
「こんな場所で会うと思わなかったわ。どういう用件があるの?」
あえて端的に尋ねた。
この人は無駄な会話をほとんどしない。
目的もなく動くこともないはずだった。
「白家の盾として、お迎えに上がったのです。希冰さま」
長身の乗馬靴の男──。
チャガンは、表情をまったく動かすことなくそう言った。




