【第十章】2027年6月15日 僕は魔王(欧思遠の物語)
──静寂。
目が、覚めた。
かすかに白檀の香りを感じる。
視点が像を結ぶ。ああ、また知らない天井だ。
シーツと枕カバーのシルクの肌触りが、驚くほど滑らかだった。
キングサイズのベッドを覆うカバーは胭脂紅、中央にエンドレス・ノットの巨大な刺繍が施されている。一見してわかる、仕立てのよいつくりだ。
パジャマ白い中華服で、やはり高級シルク製である。
そろそろとベッドを出た。
室内の壁にはガラスで額装された王羲之の書と、チベット仏教のマンダラ。
ベッドサイドの黒壇の棚には、巨大な翡翠の壺。
わずかに古書が並ぶ書棚。
古い毛沢東選集。孫子。韓非子。貞観政要。
ここはどういう部屋だ?
以前、僕はドバイにある最高級ホテルのエグゼクティブ・スイート・ルームで目が覚めたことがある。部屋の雰囲気が似ている。
だが、この部屋は調度品にあいつの趣味を感じた。面積も広い。
──自室か。
僕は寝室を出てから、巨大な居住空間でいくつかドアを開け間違えた末、ようやくバスルームを発見した。
完璧な温度調整がなされた、シャワーの優しいお湯を浴びる。
鏡。
贅肉がまったくない筋肉質の肉体が映っていた。古傷は多いが、新たな傷はみられない。
顔はしっかりと生えた口髭と、やや短めの頬髭と顎髭。
よく整えられている。
だが、業腹だった。
剃ってやる。人相を変えてやる。
安全カミソリを手に取り、石鹸をよく泡立てて髭を剃り尽くした。
■
僕の名前は欧思遠。そう、僕は欧思遠なのだ。
今日の日付もわかる。おそらく6月15日である。
現在位置を正確に知ろう。
そう考え、ガウン姿でバスルームを出た。
リビングに黒曜石の葉巻皿があった。それを手に取り、窓に思い切り投げつける。
ゴンッ、と鈍い音が鳴り、防弾ガラスに叩きつけられた葉巻皿が床に落ちる。
30秒後──。
電子ロックの解除音とともにドアが開いた。
「总司令。您怎么了?」(いかがなさいましたか?)
東南アジアの民族衣装風の制服に身を包んだ服務員だ。
大手航空会社のCAを思わせる美しい女だった。言葉からすると、中国人。
だが、彼女は僕の顔を見て一瞬目を見開くと、仕事用のアルカイック・スマイルを消し去った。
葉巻皿を拾い、黙々と片付ける。女に尋ねる。
「ここはどこですか?」
答えない。
「着替えを持ってきてください。軍服じゃない、ごく普通の服を」
無言のまま、サヴィル・ロウ仕立ての黒のスラックスとワイシャツが出てきた。
「では、朝食をください。そうだな……」
メニューを考える。あいつに嫌がらせをしたくなった。
「白飯と紅燒肉。豚肉は脂がたっぷり乗ったやつ、湖南省の本場の味付けで。思い切り発酵させた漬物もお願いします」
女が無言で引き下がる。
15分後。あいつの常食である陝西省の貧農メシが、やや少なめの量で出てきた。とうもろこし粉の硬いパンと、塩味の野菜スープだ。
畜生。食べてたまるか、こんなもの。
■
僕は1989年9月4日、湖南省長沙市で生まれた。
だが、実際に生きてきた時間はあまりにも短い。
なぜなら、僕のなかにもうひとりの人間がいるからだ。そいつが人生の大部分を乗っ取っている。
でも、この身体の主人は絶対に僕だ。
5歳の頃までは、僕が毎日「僕」だった記憶を持っているからだ。
きっかけは幼稚園のお遊戯だった。
中国の幼稚園では、党の往年の苦労を振り返るため、クラスで敵役──つまり国民党軍や日本軍だ──と味方役に分かれて戦争ごっこの劇をやる。
あの日、僕は正義の八路軍兵士の役だった。
紅旗が振られ、段ボール製の爆弾を投擲して日本鬼子を殲滅する。おもちゃの銃で突撃だ。僕はこの手の劇が苦手だったが、この日はなぜか異常に興奮したのを覚えている。
そう、人が変わったみたいに。
記憶は徐々に曖昧になる。僕は毛沢東主席の忠実な戦士だ。人民の敵を遊撃戦で葬り去るのだ。なので、無我夢中で日本兵を殺し続けた。
最後の一人が逃げ遅れ、無様に命乞いをしてやがる。ぶち殺せ。
僕はそいつの頭に銃を突きつけて──。
「バン」と叫んだ。
その瞬間、意識が暗転した。
僕はそれから、あいつが操作する自分(「偽僕」と書こう)を、どこかの暗い場所で眺め続ける存在になった。
ちょうど、駄菓子屋の店先で紅白機(海賊版ファミコン)の順番をいつまでも回してもらえず、プレイ画面を眺め続ける子どもみたいに。
あいつは頭がいい。だが、情を持たず手段を選ばないやつだった。
自分を乗っ取られた数週間後だ。偽僕は自宅のシッターに連れて行かれた自由市場で、人販子(誘拐犯)にさらわれかけた。1990年代の中国では人身売買目的の児童誘拐が多かったのだ。
このとき偽僕は、人販子の男に担ぎ上げられながら、金物屋台で売っていた裁ち切りバサミに手を伸ばした。そして、切先を男の目玉に迷いもなく突き刺した。それで助かった。
他にも似たようなことがいろいろあったが、述べたくない。胸糞の悪い行動ばかりなのだ。しかし、すべては限りなく合理的だった。
いっぽう、偽僕は少年時代、テレビの抗日ドラマを好んだ。
日本に深い恨みはなさそうだ。血と銃声に触れたかったんだろう。なので、小遣いが貯まって街で海賊版のVCDを買えるようになると、『地獄の黙示録』なんかの洋画や、戦記物のドキュメンタリーを多く見るようになった。
両親はそんな偽僕を、やや苦々しく感じていたようだ。
父は軍の人間だが、仕事は国防科技大学で国際法を教える教授だ。母も軍医である。彼らは中国と西側の共存、体制の穏健な民主改革を望む知識分子だった。国際派の平和主義者だ。
だが、偽僕は闘争を好んだ。加えて愛国心が強烈で、中国を強国化してアメリカと地球を二分割するべきだとする主張に強く共感していた。また、中国人民に政治的自由を与えることは、社会混乱と敵の和平演変(体制転覆工作)を招く、という強固な社会認識も持っているようだった。
偽僕は賢いやつだったので、両親と露骨に衝突したりはしない。だが、明らかに違う考えを持つ様子は言動の端々に滲み出た。
偽僕の生活はストイックだった。なので成績はよかった。やがて北京の国防大学に進学し、人民解放軍の士官教育を受けている。
その後は──。
無念だ。話せない。
成人する前後から、あいつの意識を覗き込めなくなったのだ。いよいよ脳みそを占領され、僕は傍観者の立場としてさえ、偽僕に関与できなくなった。
ただ、唯一の例外は、6月15日からの3日間だった。
なぜか、偽僕の精神はこの時期だけ活動を止める。ゲームのコントローラーが僕に回ってくる。
毎年、僕は目覚めるたびに驚いた。
国防大学の宿舎。どこかの国に駐留する人民解放軍の兵営。ドバイの高級ホテル。日本のニセコにある別荘。
わずかにわかるのは、こいつの人生がここ十数年は昇り調子であること。そして、常に政治とカネと硝煙の匂いがすることだった。
どうやら、僕が人生のコントローラーを握れるのは、偽僕──。つまり前世のあいつの誕生日から3日間らしい。
1953年6月15日、陝西省延梁県生まれ。
1989年6月4日、北京市西城区で死亡。享年、満36歳。
名前。王昊天。もしくはH・T・ワン。
これが、偽僕を演じる男だ。
■
「あら、おヒゲ剃っちゃったんだ」
声が聞こえた。さっきの女とは別の、脳天気な明るい声だ。
「大将と同じ顔なのに、何の威厳も深みもない。不思議なものね」
女を見る。東南アジア系のきれいな華人の娘だった。
愛嬌がある顔つきだ。22歳くらいか。
卵型の丸顔に白い肌、やや鼻が低いが整った目鼻。肩甲骨の下まで伸びたストレートの黒髪。細身だが健康的な痩せ方である。
メイクが薄く、すこし眉が濃い。服装は黒のブラウスとベージュのホットパンツ。足元はスニーカー履き。
「誰ですか?」
「あれ? 前にも君とチラッと会ったけどな。シーラ。諸葛詩月」
名前に聞き覚えがある。
「君はあの時点で、私が孔明の子孫かを5622番目に聞いた人だよ。誤差は±2」
だが、確かその名の人って。
「ああ、そっか。去年のロケーションポイントはニセコだ」
一瞬、僕は視力が大幅に落ちたと思った。
彼女の姿が急速にぼやけたからだ。
そして。
「こちらなら覚えていますか? 日本の坂道系アイドル、シーラです」
別の女が、つくりものめいた笑顔で小首をかしげていた。
顔の輪郭も髪型も背丈も……。声も違う。
だが、彼女は見覚えがあった。昨年、軽く自己紹介された相手だ。
「しっかり驚いてくれるのは新鮮でうれしいな。大将だと、中野良子や山口百恵の姿で登場したって鼻で笑うからね。あの世代には刺さると聞いたんだけど」
そうだった。昨年会ったときも、この女は意味のわからないことばかり話していたんだ。
「なんなんです。あなたは?」
「さあ? 魔法使いとか」
だめだ。僕はいま、無意味な質問をしている。現実の世界で生きている時間が短すぎるんだ。
戸惑う僕を見て、シーラは「んーとね、私はこういう悪いことしちゃう人」と、もっとよくわからないことを言った。
「サイバーおっぱいパブ」
突然、彼女の上半身の服が消える。
は?
僕は「やめてください」と言った。そのつもりだが、声が気持ち悪く裏返った。
「うわあ、きっも。最低。そう言いながらしっかりこっちを見てるよね? 下の服も取って、ご開帳したらどうなるのかな?」
女が爽やかな笑顔のままで言う。
「それとも、さっきのバンコク・エディションがお好み? ジャパン・エディションはパイパンだけどバンコク・エディションはマン毛をIデザインに整えてるから、君が見て抜けるやつを選んでみて。それとも、2次元キャラのほうが好み?」
頭がおかしい。
「あら失礼」
シーラの姿はいつの間にか、最初のバンコク・エディションに戻っていた。
「大将と同じ顔の童貞で遊ぶの、楽しすぎるのよ。これ全部、アバター。声は骨伝導」
「……」
「人類は各文化圏ごとに、老若男女から最も好感を抱かれやすい社会的外見が存在する。その統計的データをAIで立体生成したイメージを、相手の網膜に投射して再現する。ちょっと自信作でね」
■
エレベーター。
まったく音がせず、驚くべき速度で階下に向かっていく。
「ここ、どこなんですか?」
「新中華界域の界延安特別市」
「いま、どこに行くんですか?」
「なぜなぜ坊やの相手、めんどい」
シーラは自分が興味のある話しかしない。
そのため、僕の質問攻めに辟易し、他に押し付け先を探しはじめたようだ。
とはいえ、外に連れ出してくれるのは嬉しかった。数年ぶりの屋外なのだ。
1階のエントランスで、奇妙な乗り物に乗るように言われた。
スマートホバークラフトバイク。この街で開発されたらしい。
だが、僕には乗れない。「自転車に乗れるなら大丈夫」というが、僕は人生で自転車に乗ったことがないのだ。
「ほんと、びっくりするほど木偶の坊ね。来年は朝から頭にVRをかぶせとこうかな。理想の人生を3日分デザインしておくから」
冗談に聞こえない。
シーラが通信したのだろう。ほどなく、ゴルフ場のカートのような無人電動カーがやってきた。
趣向を凝らした中華風庭園を2キロほど進んだ。やがて、背の低い植物が生えた広大な草原に出た。
▪️
ずっと向こうに、誰かがいた。
馬?
そいつはおそろしく遠方でこちらの姿を認めた。駆る。
途中──。
男は疾駆する馬上で弓を構え、いきなり天を射た。
バシュッと音がして、矢が突き刺さったドローンが草原に墜落する。
「毎回、これやめてもらえる? ラジコン壊されるスネ夫の気持ちなんだけど」
下馬した男は、シーラを無視して僕を眺めた。
「例の3日間か」とつぶやく。言葉は中国語だ。
身長は180センチ台後半、細身で筋肉質。30代前半くらいに見えるけれど、いくつだろう?
色白で整った顔立ちだが、近寄りがたい雰囲気だ。全体的に白い狼みたいなイメージだった。
「なぜなぜ坊やの質問に、バカ正直に答える人がほしかったのよ」
「AIを使え」
「坊やがビビる反応を見たい」
「別の七常委がいる」
「……ライはシンガポールでアランはカラチ。キャセイは真面目に喋るヤツじゃない」
「ノイナーでいい」
「あの子の話、坊やじゃ理解できないでしょ。というわけで、チャガン。あんた」
彼らの仲間は何者だろう。中国人にしては、不思議な名前ばかりだけど。
▪️
「手短に済ませろ」
草原にあらかじめ設置されていた円形のテント──ゲルというらしいが──の前で野戦用のチェアに腰掛けたチャガンが、スチール箱からシガリロを出しながら言った。
机の上にはブラックの雲南コーヒー。人生経験がすくない僕でも、香りだけでわかる上質な豆だった。
場をほぐそうと「このテントは何ですか」と尋ねると「貴様の疑問はそれか」と撥ねつけられた。重要ことだけを聞けというわけか。
「ごめんなさい。じゃあ、僕……。王昊天は、なにをやりたいんですか?」
沈黙。
答えないのではなく、考えを巡らせているのだろう。やがて口を開いた。
「端的に回答しよう」
シガリロの煙。草原の風に散る。
「王閣下は中国共産党の真の理想を実行するお方だ。ゆえに──」
「中国人民をひとり残らず、より適切な形式で、完全に管理する。政治・軍事・経済・民生の隅々までが一切の矛盾なく正確に計画された、理想の中国統治を実現する」
「すなわち、中華人民共和国を本来あるべき姿に変化させ、新中華秩序を建設する」
「世界を新中華秩序の徳で覆い、人類文明を飛躍させる。これが閣下の思いだ」
中身を細かく教えてもらえる雰囲気じゃない。「それは、どうやってですか?」と、かろうじて聞けた。
「テックの力で」
シーラが言った。
「新中華秩序の世界は、中華テックの千年帝国なの。もっとも、それを実現するには現行ver.の中華人民共和国を削除する必要がある」
「バグだらけの古いファイルは、楽しくぶっ壊しちゃうのよ。だから第一歩として、うちの大将は──」
チャガンが言葉を引き継いだ。
「天安門事件を、再び起こす」
僕は人生経験がない。
だから、判断がつかないことが多い。だが、そんな自分でも感じることがある。
後悔だ。
自分が何者かなんて、知るべきじゃなかった。偽僕、つまり王昊天とは、どんな人間か。
僕は、魔王だったんだ。




