【第九章】2027年6月13日 転生者(翔平の物語)
──きっかけはデッドボールだったという。
5年前、乱闘騒ぎの直後の打席で、相手投手がビーンボールを投げた。
ボールは右の側頭部に突き刺さり、気を失ってバッターボックスにうずくまった。
やがて目覚めたとき、彼は前世の記憶を思い出していた。
「加賀先輩からもお聞きでしょう? 恥ずかしながら、過去の自分は褒められた人格の人間ではありません。デッドボール後もしばらく、周囲は私の変化を訝しんだようです」
自室の畳の上であぐらをかきながら、仁間はそう話した。
手元には塩入りのバター茶。皿に盛った謎の粉に、そのバター茶をちびちびと注いで粘土のように丸めてから食べている。
ツァンパというチベットの食べ物らしい。おれも試しに手元で粘土玉を作って口に入れてみたが、バター茶の塩気がきいてなかなか素朴な味わいがある。
いっぽう、仁間の部屋はカオスだった。
朝日新聞社の甲子園ベスト写真集と無数の仏教書と『セブンイヤーズ・イン・チベット』の特装版ブルーレイ。漫画は『聖☆おにいさん』と『バトルスタディーズ』が全巻。雑誌はクルマ雑誌と『野球太郎』。さらに『月刊住職』が並んでいる。
壁には悪そうなヒップホッパーのポスターと、チベット仏教の仏画掛軸。さらにヤクルトスワローズのチームカレンダー。
なにより圧巻は、野村克也の全著書が本棚をまるごとひとつ占領していることだった。この部屋、仏教書よりも野村の本のほうが多くないか?
「ははは。その通り。ブッダの教えは野村ノートにより完成したと言っても過言ではありません」
いわく、江夏のリリーフ起用は仏法の妙諦を示し、伊藤智仁の故障は諸行無常の理を顕すそうだ。
ネタか本気か。相変わらず、微妙によくわからないやつだ。
▪️
前世の仁間──。
つまりパンジュン・ラマ10世は、チベットで最高の権威を持つ坊さんの一人だったという。
もう一人のえらい坊さんであるダライ・ラマと違い、パンジュン・ラマは中国の統治が始まってからも国外に脱出しなかった。なので、色々としんどい目に遭ったそうだが、そこはあまり語りたくないらしい。
彼は1989年1月、中国共産党の統治政策を批判する説法をおこなったところ、激怒した党の誰かの差金で王昊天を送り込まれた。そして、自室で右の側頭部に銃弾を撃ち込まれて死亡して──。
3ヶ月後、チベット中部の農民の子であるテンジンとして生まれ変わった。
「もっとも、転生も大変なのです。生まれて5〜6年は脳みそが乳幼児ですから、事情をよく理解できない。物心がつくにつれて、徐々に前世の記憶や知識が像を結んでいくわけですよ」
おれだって長年、自分の能力に気づかないで生きてきた。超能力者は万能じゃない。不思議な力の実態とはそういうものなのだ。
もっとも、転生はチベットで広く知られている能力である。なので、えらい坊さんが亡くなった場合、周囲の坊さんたちがその転生者を探す。
テンジンも6歳のとき、家にやってきた坊さんから自分がパンジュン・ラマ11世だと告げられた。通常、見つかった転生者の子どもは寺に連れていかれ、先代の膨大な知見を思い出すべく勉学にはげむ。
──ただ、彼の場合はそうならなかった。
政治的事情から中国政府に拉致されたのだ。詳細な理由は「Wikipediaに書いてあります」とのことで、当時は世界的な大ニュースだったらしい。
公的な記録としては、6歳のテンジンの動向はここで途絶える。
やがて、当局は自分たちの思い通りになる別の少年を傀儡のパンジュン・ラマ11世として擁立し、中国共産党に都合のいい思想を叩き込んだ。テンジンの失踪は、中国政府の非人道的な行為として海外の人権団体から激しく糾弾されたが、やがて人々はこの事件を忘れた。
中国共産党はその後も「テンジンは保護され、一般人として暮らしている」と、根拠を示さず主張し続けている。だが、本物のパンジュン・ラマ11世──。すなわちテンジン少年はひそかに殺され、闇に葬られた模様である。
海外の専門家たちは、もっぱらそういう見立てだ。
▪️
「しかし、私は生きていたわけですよ。当局側で働いていたチベット人の警官が、組織を裏切って助けてくれたのです」
ここからは歴史が語らない話である。
テンジンは軟禁先からかろうじて救出されたが、その過程で例の警官をはじめ、同胞のチベット人たちが何人も犠牲になった。目の前で撃ち殺された人もいたようだ。それから数カ月間、中国各地をあちこち逃げ回ったものの、南方にある福建省の港町で進退が極まった。福清県、とかいう場所だったそうだ。
当時、彼を守っていたチベット人の最後の一人は、かすかな希望を託して──。蛇頭(密航ブローカー)が送り出していた港のコンテナ船にテンジンを押し込んだ。1990年代は中国と日本の経済格差が大きく、福建人たちがボロボロの船にすし詰めになって日本に密航していたのだ。
北九州の浜辺にたどりついたテンジンは、すぐさま福建マフィアにさらわれて売り飛ばされそうになった。だが、移動中に車両から脱出し、よくわからない街で川に沿って逃げた。そして……。
気づいたときには、柴又帝釈天の門前で倒れていた。
帝釈天は仏法の守護神ですから、と彼はいうが、確かにそうかもしれない。見つけたのは、子どもを数年前になくしたばかりの夫婦で、テンジンはそのまま彼らの子として柴又で育てられた。
こうして、パンジュン・ラマ11世は日本人の仁間になった。
おれ以上に壮絶な過去だった。
ツァンパの味がしない。
休憩を入れ、電子タバコを吸わせてもらう。仁間もヤンチャ時代には相当なヘビースモーカーだったらしいが、例のデッドボール事件を契機にすっぱり禁煙したそうだ。ただ、他人が目の前で吸うのは気にしないという。
……って、あれ?
そもそも、えらい坊さんの転生者なのに、なんでヤンチャやってたんだ。仁間は。
「転生者の記憶は周囲の環境に左右されるのです。本来、前世の生活とつながるものに触れ続けることで、現世の本人と魂が融け合う。ただ……」
彼の場合は王昊天に力を奪われていたうえ、逃げ込んだ日本に前世の手がかりがなにもなかったのだ。まあ、葛飾柴又とチベットの共通点なんて、それこそ帝釈天くらいしかないよな。
最初は新しい国への適応にも苦労した。おれも経験済みだが、往年の小学校で外国人の子どもが生き残るのは大変である。日本語を覚えるだけで一苦労だし、教師やクラスメイトの同調圧力もきつい。
おれの場合、ちゃらけたテキトーなキャラになることで環境に合わせたが、仁間は野球という方法を選んだ。ボールを投げて打つのに、言葉はいらなかったからだ。
スポ小で友だちができて、頭角をあらわした。中学ではリトルシニアチームに所属して全国大会に出た。高校は推薦で入り、帝城高校野球部の寮住まい。大学もやはり野球推薦で進んで神宮球場を沸かせて……。
結果、仁間は見事に、平成日本の野球部カルチャーに染まった。
清原や中村ノリが現役の人気選手だったマッチョな時代だ。ちょっとぐらいは荒っぽいほうが周囲にナメられない。いや、仁間はちょっとどころじゃなかったらしいが。ガタイがよくて野球が上手いと、監督やチームメイトも素行を注意しない。
球歴を重ねるにつれて、自分が活仏だったことは、なにかの間違いだろうと考えるようになった。使う機会がゼロなのでチベット語は忘れたし、前世の記憶もまったく思い出せない。
大学以降は、ニンニクマシマシのドカ盛り牛丼を3人前たいらげ、クラブでテキーラをラッパ飲みして女の子と遊び回るライフスタイルが定着した。ドラフトに落ち、独立リーガーになってからもそれは変わらなかった。チベット僧の厳格な戒律なんて、もはや悪い冗談でしかない。
もっとも、それでも野球に対しては真面目だったので、野村ノートは熟読していたらしいが。
「クルマやファッション、音楽の趣味は、そんな時代のなごりです。良いものは良いわけですし、いまさら変えなくてもいいと思いまして」
とはいえ、デッドボール事件後の仁間の人生は一変した。
最初は漠然とした使命感と、前世の最期の瞬間のヴィジョンが浮かんだだけだったらしい。だが、仏教書やチベットの写真集を手に取るうちに、芋づる式にスルスルと知識を取り戻した。
どうやら彼の能力は、徳が下がること──。つまり、怒ったりスケベなことを考えたり、肉や酒を摂取したりすると抑制されるようだ。それらを断つことで、力もかなり戻った。生活習慣がストイックになったので、選手寿命も伸びたそうである。
一昨年、オフシーズンに中国プロ野球(めちゃくちゃ弱いらしい)の短期コーチの募集を見かけ、ただの日本の野球人のフリをして北京に3週間行った。
現地でツテをたどって調査した結果──。
王昊天の死亡と、おれの両親の名前を知った。
念のため、王昊天が転生している可能性を考えてネットを検索してみた。結果、新中華界域の指導者のニュース映像を発見し、さらに調べて、この人物が王昊天の生まれ変わりだと確信するにいたった。
現代の日本で生きるチベットの活仏・仁間が、おれに語った半生はそういうものだった。
■
「仁間。おまえ、えらいよな」
夕刻。
江戸川沿いの道を連れ立って歩きながら、おれは言った。
「いいえ、ちっとも。記憶と一部の能力は戻ったものの、故郷の民を救うためにできることは限られています。それを考えない日はありませんが」
インドのダラムサラにあるチベット亡命政府に、直接の知り合いはいないらしい。まあ、実際に行けば彼の正体を感知できる高僧はいそうだが、あちらも政治組織だ。無用な権力闘争のタネを蒔きかねない。
しかも中国では、偽物がすでにパンジュン・ラマ11世を名乗っている。日本の野球選手が自分こそ本物だと名乗り出れば、混乱を生む。そもそも「偽物」の彼も、党の意向で人生をゆがめられた被害者であり、いまから困らせるのは気の毒だという。
「なにより、チームや実家という俗世のしがらみと、野球を続けたいという執着の心を捨てられません。私はさっぱりだめな転生者なのですよ」
「いや、そういう意味じゃなくてさ。野球やってきたのも、能力に目覚めてから故郷のことを考えてるのも、両方えらいと思うんだよ」
おれは言った。
夕日が射す河川敷の柴又野球場で、どこかのスポ小チームがまだ練習を続けている。
「おれ以上にキツい経験をしてんのに、日本で打ち込むものを見つけたわけじゃん。で、いまは過去の記憶も背負ってるわけだろ?」
おれはどうだろうか。
ブラック企業を渡り歩いているのは、周囲の事情も多少は関係がある。大学3年のとき、養父母が相次いで亡くなり就活に乗り遅れた。しかも、ちょうど仕事を選ぶ時期にリーマンショックと震災不況が直撃した。
だが、その後も業界に残り続けたのは、なかば自分で望んだためだ。よくよく考えてみると、本当はそうなのである。
膨大な業務に追われていれば──。
自分が生きる理由も、生き残った意味も考えなくていい。
父さん母さんが死ななきゃいけなかった事情も、知らなくていい。
時間がないから。仕事が大変だから。
そんな言い訳ができたのだ。
■
柄にもなく情緒的な気持ちである。
いま見ている景色をアイスに送りたくなった。
スマホを出す。
なんと、メッセージが何通も溜まっていた。
”津軽弁の通訳、しんどい”
”夜の交流レセプションは札幌の総領事館の担当だから、わたしは自由時間”
”夕食がイカ刺しとホタテ焼きなのを知って、山奥育ちの副県長がずっとぶつぶつ言ってる”
”温泉行ってきます!”
あいつがこんなにあれこれ送るのも、「!」を使うのもめずらしいな。
文句は言いつつ、出張は楽しそうじゃないか。
そう思ってメッセージを追っていると、スーツ姿のまま微妙な表情で大衆温浴施設の足裏マッサージ機に両足を突っ込んでいる画像が送られてきた。
”友だちに撮られた”
”温泉って個室があるか、水着着るんじゃないの?? 入るか一瞬だけ迷ったけど絶対むり”
なんだそりゃ。
どうやらお育ちがよすぎて、普通の大浴場に行ったことがなかったらしい。あまりにも「らしい」オチに笑ってしまった。
「失礼。画面がチラッと目に入りましたが、奥様ですか? きれいな方ですね」
おれの笑いは、巨漢のキャッチャーのせいで中断された。
「違えよ。仕事関係だけど、まあ女友だち? の範囲の子」
「なるほど。しかし、この子の意外とかわいい自己開示と、翔平さんのにやけた反応。いざ付き合ったらテンション高めのカップルになっちゃう2歩手前ぐらいの関係とお見受けしますが」
「あー、ないない。バカなこと言ってると徳が下がるぞ。エロ坊主」
現実的に考えてありえんわ。
笑って受け流しつつ、夕方の河川敷の写真をアイスに送る。
「そういやおまえは? 結婚の話とかはなかったのか?」
「ええ、5年前は。付き合っていた女性に、そろそろ年貢を納めろと言われ」
「うん。それでどうなった」
「デッドボール事件の後、彼女が出家して尼になってしまいました」
やべえ。こいつのエピソード、マジで滑らねえ。
■
「……さておき。徳を下げぬために真面目なことも申しますか」
仁間が足元の小石を拾い、川に向けてヒュッと投げた。
川面まで60メートルくらいあったが、石が見事に音を立てて水に落ちる。
「翔平さん。歩むべき道はいつ見つけたって遅くはないのですよ。わたし自身もそうだったのですから」
言う通りかもしれない。
人体特異効能。王昊天の正体。そして、父さんと母さんの死の理由──。
そもそも、両親はどんな人たちで、どんな人生を送っていたのか。党の暗殺者に殺されてしまうくらいだから、なにかをやろうとしていたことは間違いない。彼らが目指したものは、知っておきたい。
いますぐに、とはいかないかもしれないが。
でも、おれは動きはじめていい。
「アイスさんを幸せにしてあげるだけでも、いい目標です」
はいはい。
女ネタを引っ張るなよ仁間。
せっかくいいこと言っていると思ったのに。
そういやおれ、仕事がブラックすぎて彼女って8年ぐらいいなかっ……。
いや、そうじゃない。
なんで、仁間がアイスの名前を知ってるんだ?
「言い忘れました。私、軽い読心能力もありまして」
おまえ、それを後出しで言うのかよ。




