映えないカノジョ
SNS映えする“理想の彼女”を探して、奥山拓海はスマホの画面をスクロールしていた。「お、この子良さそう」と呟き、華やかな雰囲気の女性の写真を選んで、予約ボタンをタップする。迷いはなかった。拓海にとって、レンタル彼女というサービスは、SNSという舞台に映える“演出”のひとつにすぎなかった。
『#カノジョとデート』シリーズの投稿で、拓海のフォロワーは一気に増えた。いいね数は順調に伸び、モデルをメインとした案件も増えてきた。数字が伸びれば、それが正解──SNSの世界とはそういうものだ。
「次はみなとみらいで、映えるデートコースでも組むか」
そう呟いたのが一昨日の夜。今日もまた、“映え”のための一日が始まるはずだった。
待ち合わせ場所に現れた彼女を見て、拓海は思わず目を疑った。
雲ひとつない快晴の空に、やわらかな陽射しが街を照らしていた。観覧車は白くきらめき、街路樹の葉は風に揺れていた。反射する光が水面を跳ね、どこを切り取っても、広告写真のように完璧な“映える日”。そんな理想的な背景のなか、現れた彼女の姿は、まるで別世界から来たかのように場違いだった。
黒髪を耳にかけた、薄化粧の女性。紺色のワンピースはシンプルで、ブランドロゴも装飾もない。足元は白いスニーカー。
地味すぎる。第一印象は、それに尽きた。
「奥山さん、ですよね?」
人懐っこい声で話しかけてきた彼女は、にこやかに頭を下げた。
「相川里穂と申します。今日は一日よろしくお願いします」
「……え。あ、うん。よろしく」
無意識に営業用の笑顔が浮かんでいた。だが、心の中では素直にがっかりしていた。プロフィール写真ではもっと華やかに見えたのに──盛りすぎだろ。期待していた“映える彼女像”との落差に、思わず内心で舌打ちしたくなる。見た目が映えないのはまだいい。だが、“写真に映えない”というのは、インフルエンサーにとって致命的だった。
みなとみらいの雑貨屋やカフェ、公園を巡りながら、拓海はスマホのカメラを構え続けた。
だが、どの写真を撮っても、彼女の表情はぎこちなく、ポーズもどこか決まらない。
「もう少し笑ってみようか。目線はちょっと上に……そうそう、あ、でもそれじゃ硬いな……」
「すみません、撮られ慣れてなくて……」
「……ううん、こっちこそ、無理言ってごめん」
苦笑いを浮かべながらスマホのフォルダを見返すも、使える写真は一枚もなかった。
これは失敗かもしれない。そんな予感が、胸の奥にじわじわと広がっていく。
昼過ぎ、人通りの少ない裏通りのカフェに入った。
白い漆喰の壁、木製のテーブルには小さな観葉植物。窓から差し込む自然光が、紅茶の入ったカップを淡く照らしていた。
「奥山さん、もしよかったら……写真、少しお休みしませんか?」
お店の雰囲気の写真を撮っていた拓海を前に、スプーンを静かに置きながら里穂がふいにそう切り出した。
「え?」
「せっかくなので、少しだけ写真を気にせずゆっくりお話ししませんか?」
その言葉に、拓海は少しだけ戸惑った。写真を撮らないのなら、今日に何が残るんだろう、そんな考えが頭をよぎった。だが、不思議と彼女の声には逆らえない空気があった。
「……わかった」
スマホを伏せ、カメラアプリを閉じた。
彼女との会話で、沈黙は不思議と重くなかった。
「奥山さんって、カメラすごく上手ですよね」
「そう?」
「さっき見せてもらった写真、どれも構図が綺麗で。お洒落だし、バズりそうな感じだなって思いました」
「まあ、慣れてるからね。なんていうか、そう撮るのがもう癖みたいになっててさ」
カップの縁に視線を落としながら、拓海は続けた。
「でも……最初は、ただ楽しくてやってただけなんだよね。高校のとき、初めて彼女ができたんだ。嬉しくて、彼女との思い出の写真をたくさん撮ってた。彼女が一番可愛く写るように撮れる角度を必死で探してた」
「ふふ、可愛いですね」
「……可愛い?」
「ちょっとだけ」
微笑まし気に笑う里穂に、拓海は続ける。
自分でも驚くほど口が軽くなっていることに気づいた。なぜこんなにも素直に語れているのか、不思議だった。ただ、里穂の声のトーンや間の取り方が、そうさせているような気がした。相手が何も急かさず、ちゃんと聞いてくれる。それだけで、こんなにも心が緩むものなのかと、戸惑いながらも思っていた。
「でも、フォロワーが増えてきたら、どんどん“映えるかどうか”で全部決めるようになっちゃってさ。彼女との時間も、バズるための時間にしちゃってたんだ」
言いながら、拓海は視線をカップに落とした。唇を少し噛むようにして、一瞬だけ苦しそうに顔をゆがめる。
そんな拓海の表情を見て、里穂がそっと問いかける。
「何かあったんですか?」
拓海は一瞬ためらったあと、小さく息を吐いて口を開いた。初対面の相手に、自分の過去をここまで話すのは初めてだった。言葉がぽつぽつとこぼれ出す。
「彼女が、未加工の動画を晒したんだ。『現実と違いすぎる』って」
「……」
「炎上して、フォロワーも一気に減った。まあ、自業自得だけどね」
里穂は少しだけ目を伏せたあと、そっと言った。
「でも、それでも投稿を続けてるんですね」
「うん。やめるのが怖かったんだ。彼女に裏切られて、友達も離れていって……。SNSまでなくなったら、俺に何が残るのかわかんなくて」
「……そうだったんですね」
里穂の声は、いつもより少しだけ低く、静かだった。
「奥山さんって、ずっと“見せたい自分”を大切にしてきたんですね」
「そうなのかな。よくわかんないけど、なんとなく続けちゃってた」
カップを置いた里穂が、ふっと微笑む。
「SNSって、よく見せたいものしか残せない場所ですよね。でも、心にしか残らない時間も大切だと思います」
「心にしか残らない時間……」
「誰と、どんな時間を過ごしたか。どんな言葉を交わして、どんな気持ちになったか。あとから思い出して、そのときの空気や表情まで浮かんでくるような時間って、すごく贅沢だと思うんです。写真には写らないけど、心のなかにちゃんと残るものって、あると思ってるんです。今日だけ、私とそういう時間を過ごしてみませんか?」
胸の奥にすとんと落ちた。飾らない言葉が、不思議と心に染み込んでくる。
夕暮れの川沿い、ベンチに並んで座った。
風が少し冷たくなり、空は茜色のグラデーションで街を包んでいた。
遊覧船の汽笛が遠くで鳴り、並木道には仕事帰りの人々がまばらに歩いている。
「一枚だけ、撮ってもいいですか?」
「……うん」
スマホを渡すと、里穂はカメラを構えた。
「奥山さん、何も考えずに笑ってみてください」
「笑えって言われると難しいんだけど……」
それでも、不思議と力が抜けて、自然に笑えた。
カシャ。
シャッター音が、夕風のなかで優しく響いた。
「この一枚は、たぶんバズりませんけど……私は大好きです」
その一言が、なぜか胸にじんわりと響いた。
翌日、投稿したその写真は、案の定反応が薄かった。
いいねの数は少なく、コメントもほとんどついていない。
それでも、不思議と消す気にはなれなかった。
そんなとき、一通のDMが届いた。
送り主の名前を見た瞬間、指が止まる。
元カノだった。
『この写真、素の拓海っぽくて好きだよ。私はこっちの方が好きだった』
あのときの彼女から、こんな言葉が届くなんて思ってもいなかった。画面を見つめながら、あの日々の景色がゆっくりと脳裏に浮かんでくる。胸の奥が、じんわりと熱くなった。
誰かに必要とされるために、映えを追いかけていた。
でも、“素の自分”を、思い出してくれる人がいた。
それだけで、少し救われた気がした。
もう一度、相川里穂に会いたいと思った。
だが、レンタル彼女サービスの一覧から、彼女のプロフィールはすでに消えていた。理由はわからない。でも、あの日のことを思い出すたびに、また会いたいと思ってしまう自分がいる。
拓海のSNSのアイコンには、ひとつの写真が設定されていた。
夕暮れの川沿いで、少し照れくさそうに笑う自分。
カメラの向こうには、相川里穂がいる。写っていないのに、彼女の姿だけは、一番はっきり残っている。
だけど、なぜかそれで十分な気がした。