プロローグ
海は夕暮れの光をすくい上げるように赤橙の色を湛え、沈みゆく太陽の余韻が波打ち際を染め上げる。
その岸辺に、一人の少年が横たわっていた。
編み込まれた長い金髪が、波に揺られ夕日を反射して煌めいている。少年の端正な顔立ちには、無垢なあどけなさが残るが、額から頬へと走る大きな切り傷が、痛ましくも鮮明にその存在を示していた。
血はすでに乾き、白い肌に荒々しい線を刻んだまま、過ぎ去った悲劇の痕跡を物語る。
少年は、意識の境界を漂いながら、口元から微かに息を漏らしていた。
そんな中、どこからか砂浜を踏みしめる足音が、波音に混じって静かに響いた。その向こう側から、一人の少女が現れる。
風に揺れる黒髪をなびかせながら、彼女は海岸線を優雅に散策するかのような足取りで近づく。そうして倒れた少年の傍に立つと、淡々とした口調で呟いた。
「こんな場所で寝るなんて、変わってるわね?」
少女の声が波音に溶け込むと、しばしの静寂が砂浜を包んだ。彼女は足を止め、少年の横顔に視線を落とす。そしてためらうことなく少年の頬に刻まれた切り傷に指先を伸ばした。
すると、少年はかすかに呻き、痛みに耐えながらか細い声をあげた。
「助け……」
その言葉は、砂浜に消え入りそうなほどか弱かった。少女は静かにため息をつき、小さく首をかしげる。
「このままじゃ本当に死んじゃいそう」
そう呟くと、彼女は肩に掛けた色褪せた革の鞄に手を伸ばす。鞄の中から、透明なガラス製の小瓶を取り出した。小瓶の中には青みがかった液体が入っており、夕陽の光を受けると、かすかに虹色を帯びて揺らめいている。
——エリクサー。
伝説的な霊薬として、滅多に世に出回ることのない至宝。飲む者の命を救い、重傷を負った体を修復するだけでなく、時に奇跡のような効力を発揮すると謂われている代物だ。
「助けてあげてもいい。でも、ただの善意じゃない」
朦朧とする意識の中、少年は少女の言葉をはっきりとは捉えきれない。それでも痛みと死の気配に抗うように唇を震わせる。
「……お、れは……しねな、い……」
「そう。ならいいわ」
少女はうなずくようにして小瓶の栓を抜く。青い液体が冷たい光を帯び、夕陽の残滓を受けてかすかに煌めいた。どろり、とした液体が傷口に垂れると、少年は小さく身をよじった。
「ぐっ……ああっ……」
燃えるような痛みと、鋭い冷たさが混ざり合った感触。しかし次の瞬間、それは静かに溶け込むように、傷口へと吸い込まれていく。少年の苦しげな呼吸が、わずかに安定したように感じられた。
それを見た少女は、少年の首筋にそっと手を添える。淡い光が彼の首筋で揺らめき、金色の鎖がまるで空中に描かれるように浮かび上がる。
細く美しい輪郭は、見る間に少年の首へと巻き付く。そして少女の指先へ繋がると冷たい輝きを放っていた。
「契約は成立ね」
少女は吐息まじりに言い、秘薬が流れ込んだ痕を確かめるように少年の頬を撫でる。傷は完全に塞がり、蒼白だった頬もいくらか柔らかな色に変わり始めた。
「さて、どうするか……」
誰に問うわけでもない独り言が、波打ち際の淡い闇へ溶けていく。星がまだ昇りきらない空は、赤橙色の残りを宿したまま静寂に包まれていた。少女は立ち上がると、躊躇なく少年の腕を取り、その体を引き起こす。
「重いわね……仕方ない。まったく、こんな面倒な夜になるなんて」
夜の帳が下りる海辺。さざ波がリズムを刻むなか、少女は少年の体を抱きかかえて、ゆっくりと砂浜を後にした。