95.盟約
「キャロライン嬢……私はフィリップ殿下と話をしています」
カルタット公爵は柔らかな声を出すが、その表情は険しかった。
「聞こえなかったのか。阿呆だな。国の半分以上は、庶民だ。その庶民がいなければ、我々の生活が立ちいかないのを知らないのか?」
もう一度きっぱりと告げたキャロラインの腕を、レインが抑えるように引っ張る。キャロラインがレインの耳元で小さく何かを告げる。
「キャロライン嬢聞こえなかったのかな? 私はフィリップ殿下と話をしているんだよ。そもそも、アルフォット国王の命が……」
カルタット公爵の言葉を遮るように、一陣の風がキャロライン達のいる場所に巻き起こる。
唐突な出来事に、レインとキャロライン以外の人間は怯む。そもそも、大広間の中で風が巻き起こることなどあり得ないからだ。
「一体何を! 今のはキャロライン嬢の魔法だろう!? そんなものを使って脅そうなど……」
忌々しそうにカルタット公爵がキャロラインを睨みつける。
だが、キャロラインはニヤリと笑う。
「カルタット公爵!」
オドリー侯爵の声に、カルタット公爵が後ろを振り向く。そこには、オドリー侯爵が捕まえていたはずのアルフォット国王の姿はなかった。
「バカな! 一体何を!」
「それで、アルフォット国王の命が何だと?」
キャロラインの言葉にハッとしたカルタット公爵がフィリップに向かって足を踏み出した瞬間、カルタット公爵の足が、床から浮き立つ。
「な、何だこれは!?」
「お前らが欲しがっていた魔法だ。十分に味わうがいい」
キャロラインがニヤリと笑うのを見て、レインはホッとして息を吐く。その途端、レインの耳に小さな悲鳴や慌てる声、そして時折混じる怒声が耳に入ってくる。
レインは周りを見回した。すると、レイン、キャロライン、そしてフィリップ以外の人間全てが、床から浮いていて、体験したことのない事態に、皆が慌てていた。
「キャル、やり過ぎです」
レインの忠告に、キャロラインは肩をすくめる。
「悪いが、誰が敵になるのかはっきりしない以上、こいつらだけを浮かせるわけにもいかないと思ってな。流石にこれだけの人数を選別するのは難しいからな」
「申し訳ないがキャロライン嬢、ミイファを下してもらってもいいだろうか」
キャロラインに近づいてきたフィリップの言葉に、キャロラインが首を傾げる。
「ケルク侯爵は裏切者のようだが?」
「フィリップ殿下、お言葉ですが、ミイファ様はケルク侯爵家の令嬢。例え、婚約した相手だとしても、信じてしまわれるのは……」
レインはキャロラインの言葉を補足するように告げる。
フィリップは苦笑して首を振る。
「ここにいる皆にも言っておくが、ミイファは、もうケルク侯爵令嬢ではないんだ」
声を張り上げたフィリップに、え、と声を漏らしたのは、レインとキャロラインの二人だけではなかった。喧騒の中に、更にざわめきが広がる。
「どういうことか、説明してもらってもよろしいでしょうか」
言葉づかいは丁寧で、口元には笑みを浮かべてはいるが、フィリップを見るキャロラインの視線は厳しいままだ。勿論、ミイファが下ろされることはない。
「私は信用されていないのかな?」
フィリップが困ったように告げる。
「申し訳ございません。信用するほどの交流を持った記憶はありませんし、ここでミイファ様が手のひらを返した場合、苦境に陥るのはフィリップ殿下になりますので、納得ができるまでは、お言葉に従うことはできません」
「キャル!」
レインが叱ると、キャロラインは肩をすくめる。
フィリップは苦笑する。
「誰の証言であれば、納得するだろうか? ……例えば、シルフィー嬢であれば、納得してくれるかな?」
フィリップの言葉に、レインとキャロラインが視線を交わすと頷く。その反応にホッとしたフィリップが、手を挙げ、大広間を見渡す。
「エダモン公爵とシルフィー嬢をここに」
同じように大広間の中に視線を向けたキャロラインが、シルフィーとエダモン公爵の2人を見付け、その体を床に下ろす。
「器用なものだな……」
苦笑するフィリップの元に、足早にエダモン公爵とシルフィーがやって来る。
エダモン公爵がフィリップの前に膝をつく。そして、シルフィーもフィリップに向かって礼を取る。
「お呼びでしょうか」
エダモン公爵の声に、フィリップが頷く。
「エダモン公爵、シルフィー嬢、昨日、ミイファ嬢をエダモン公爵の養女にするように手続きを進めたこと、相違ないな」
「はい。左様にございます。ミイファは、我がエダモン公爵家の娘にございます」
エダモン公爵の答えにシルフィーも頷く。大広間の中に驚きの声が広がる。同時に、カルタット公爵たちの表情が驚愕でこわばる。
「ミイファ! どういうことだ! ミイファは我が娘だ! どうして親である私が知らぬのに、エダモン公爵家の養子となるのだ!」
ケルク侯爵が叫ぶ。ミイファは青白い顔をしたまま、首を横にふった。
「お父様、いえ、ケルク侯爵。私は、悪魔に魂を売ってしまったケルク侯爵のことを、フィリップ殿下に告げないわけにはいかなかったのです。カルタット公爵との悪魔の契約を知った時、私の心は決まったのです。フィリップ殿下の愛するこの国を、乱れさせたくはなかったのです」
「ミイファ! 父親を裏切るなど!」
表情の歪むケルク侯爵に、ミイファが目を伏せて首を横にふる。
「私は、私の正義を貫きたかったのです。例え、フィリップ殿下の側を離れることになっても」
じっとミイファを見ていたキャロラインが、ミイファの体を床に下ろす。
足が床についたミイファが、驚いたようにキャロラインを見た。
「その言葉、信じよう」
キャロラインの言葉に、ミイファが僅かにほほ笑む。だが、その笑顔は、弱弱しかった。
「何が正義だ! 正義は我々にある!」
カルタット公爵の叫びに、フィリップが首を横にふる。
「民を大切にできぬ政など、国が疲弊するだけだ。民から搾取ばかりしていたカルタット公爵にはわからないかもしれないが」
「民など、使い捨てればよい! 子供などいくらでも生まれて来るではないか! 下々がどんなに苦しもうと、我々には関係ないだろう!」
「……子供は生まれないこともあるぞ。我が兄弟は、母上と共に儚くなってしまったではないか」
ルイが不思議そうにカルタット公爵を見る。アルフォット王妃は、ルイの下の子供を身ごもった後、生む前に亡くなってしまっている。その後、国王は新しい妃を求めなかったため、アルフォット王国の王妃は不在のままだ。カルタット公爵は忌々しそうにルイを見る。
「ルイ殿下、余計なことに口を出さないでいてもらえるかな」
カルタット公爵の表情と言葉に、ルイがムッとした表情になる。
「なぜ、私の疑問に答えないのだ。今までは何でも答えてくれていたではないか。どうして、我が理想の国にすることを、兄上は怒っているのだ?!」
「黙れ!」
カルタット公爵が叫ぶと、ルイはビクリと体を縮こませる。
「カルタット公爵、我が弟を良いように操り、この国を乗っ取ろうと考えていたんだろう?」
フィリップの言葉に、カルタット公爵が肩をすくめる。
「乗っ取るなど、聞こえの悪い。私はただ、もっと理想の国を作り上げたかっただけです」
フィリップが目を細めると、胸元から、紙の束を取り出す。
「この盟約書、知らぬとは言わせぬぞ」
フィリップが取り出した紙を、カルタット公爵に突き付ける。カルタット公爵の目が泳ぐ。レインとキャロラインは驚きの表情でその紙を見つめた。
「こ、これは……これは、偽装されたものだ!」
「ルイを国王に祭り上げ、自分が宰相として国の実権を握る、と、ここには書いてあるな?」
フィリップが読み上げた言葉に、カルタット公爵が首を激しく振る。
「それは偽装されたものだ!」
だが、フィリップは呆れたように首を横にふる。
「この署名が、それぞれの署名に間違いないと、バルオス王国の鑑定士が認めている。申し開きはできないぞ!」
「バルオス王国の鑑定士?!」
カルタット公爵が眉を寄せる。
「我が国には、署名が本人のものかどうか、魔法で鑑定できる人間がいるんだ。それは、国が認めている鑑定士だからね、ほら、この書類にも、バルオス王国の印が刻まれているだろう? きちんと鑑定されたものだと言う証拠だ」
いつの間にか近くに来ていたファジーが、カルタット公爵を見つめる。カルタット公爵がグッと詰まる。
カルタット公爵の後ろにいたケルク侯爵、スーリン侯爵、オドリー侯爵は、真っ青な顔をして項垂れている。その手に持たれていたナイフや宝石は、いつの間にか床に落とされていて、そしていつの間にか床の上に下ろされていた王立騎士団に回収されて行く。
レインが大広間を見回すと、一部の貴族を除いて、いつの間にか床に下ろされていた。床に足がついていない貴族たちは、盟約書に名前がある者たち、そしてその家族だった。
当然、ルイも床には足は着いていないままだが、自分の体を抱きしめて、何かをブツブツと呟いているだけで、今の現状を理解しているようには見えなかった。レインがキャロラインを見ると、キャロラインが肩をすくめる。
ミイファを、フィリップが抱き寄せる。
「カルタット公爵を始めとするカルタット公爵派の人間たちは、ルイを王座に祭り上げ、我が国そのもののあり方を否定しようとしていた。ミイファはそのことに気付き、わが身を顧みることなく、実の父親を告発したのだ。その勇気、そして、国のことを一番に考える態度は、我が妃としてふさわしい」
静まり返っていた大広間に、フィリップの言葉が染み入った。だが、ミイファは顔を伏せて首を横にふる。
「私には、フィリップ殿下のお側に居続ける権利はありません」
「ミイファ様、何をおっしゃっているのです。私は、ミイファ様こそフィリップ殿下にふさわしいと考えたから、今回、我が家の養女になる話を、父上に進言したのですよ」
ミイファの言葉を否定したのは、シルフィーだった。
ミイファの恋敵だったはずのシルフィーの言葉に、大広間の中がざわめく。
「そうだ、ミイファ。私がシルフィーからその話をされた時の驚きは、今でも忘れられない。だが、シルフィーの話や、フィリップ殿下の話を聞いて、ミイファ、いやミイファ様こそ、皇太子妃、そして王妃としてふさわしいと納得したのだ」
頷くエダモン公爵に、ミイファが青ざめた顔を上げる。
「……本当に、いいのでしょうか」
パチパチと、拍手を始めたのは、シルフィーだった。それに倣うように、レイン、キャロライン、そしてファジー、ルルリアーノ、その奥まで近づいてきていたミア、ジョシアが拍手を始める。そうしてその拍手は、大広間の中に広がって行った。




