5.常識とか普通とか当然とか
「キャロライン様! まだ、婚約の段階です」
ジョシアがキャロラインを叱る。ジョシアは間違いなく常識を持ち合わせている。
「……そうか、じゃあもう結婚していいんじゃないか?」
キャロラインの言葉に、レインは首を振る。流石に今は人との交流がないとはいえ、17歳までの間に、この国の常識は頭に叩き込んである。普通、この年で婚約をするとすれば、結婚までの間に1年かかることは普通だ。家の都合で2年になることもおかしくはない。だが、貴族と貴族の結婚とは、得てしてそういうものだ。
「キャロライン様、それはクォーレ公爵が許さないんではないでしょうか」
レインは同意を求めるためミアを見た。だがミアは思案顔でレインに同意をしてくれなかった。
「もう結婚するんだ、様付けなど必要ない。キャルでいいぞ」
そして、当のキャロラインも、レインの話など聞いてはいなかった。
「いや、ですから、キャロライン様。今日の今日で結婚とか、ありえませんから!」
あえて様付けでレインは話しかける。まだ結婚しないとの意思表示だ。
「でも、お兄様。平民の中ではその日のうちに結婚する人もいるんですって」
ミアがまだ何か考え込んだまま、そう呟いた。
「ミア様、それは一体どこからの情報ですか? 我々平民でも、そんなことはしません」
ぎょっとしたレインは、ジョシアがミアの言葉を否定してくれてホッとする。
「え? お母様の愛読書には、そんな話があったわ」
「愛読書。……あれは、フィクションだ」
レインはこめかみをもみながら、首を横にふった。確かに二人の母のメリッサは、ロマンスが描かれた本を好んで読んでいた。
「いーえ。確かにお母様も言っていたわ。……かけおちってロマンよね、って」
レインとジョシアは顔を見合わせた。完全にミアの基準がおかしい。
「ミア、私とキャロライン様は、かけおちという手段を取るつもりは一切ない。あれは結婚に反対されてそれでも結婚したいと願う人間がやるものだ。だから、ありえない」
レインがきっぱりと告げると、キャロラインがニヤリと笑った。
「かけおちというのは、おもしろそうだな」
レインは頭痛がしてきて、頭を抱えた。
「えーっと、キャロライン様。公爵様がやはり男爵家との結婚を認めないと言われるのであれば、この結婚の話はなかったことにすればいいだけの話です」
そもそも、かけおちをするということは、相手だけでいいと思える強い恋愛感情がなくては始まらないんではないかと、ロマンスなどに興味もないレインにも分かる。少なくとも、レインとキャロラインの結婚には、その部分はがっつりと欠けている。だから、かけおち、という選択肢は出て来ようがない。
「そうなる前にかけおちすればいいじゃないか」
「キャロライン様。お言葉ですが、かけおちをするにはキャロライン様の恋愛感情も欠けているように思いますが」
淡々とキャロラインを諭すジョシアと、レインは固い握手をしたくなった。
「何だ、単にかけおちをするだけじゃいけないのか。……まあいい。で、私の荷物はここに置けばいいのか?」
そして話が元に戻ったことに、レインは気が遠くなった。助けを求めるようにミアを見れば、ミアはポン、と手を打ったところだった。何かを思いついたらしい。
「キャロライン様。ここは応接間になりますので、荷物はこちらには置けません」
ミアの言葉に、レインはホッと息をついた。
「じゃあ、どこに置けばいいのだ?」
「キャロライン様、荷物は置けないと言われたばかりじゃないですか」
ジョシアがキャロラインに首を振る。だがキャロラインはぶぜんとした表情でジョシアを見返した。
「こちらには、と言われたぞ」
それは言葉の綾では、とレインは思う。勿論、ジョシアも同意見だ。
「それは」
「客間……いえ、両親が使っていた部屋がありますので、そちらにどうぞ」
ジョシアがまたキャロラインを諭そうと口を開いた直後、ミアがあっけなくそう告げた。
「ミア?」
レインが目を見開いてミアを見た。
「お兄様、キャロライン様……いえ、キャル姉様がこう言っているんですから、別に今日から同居を始めてもいいんじゃないかしら」
レインは頭痛が更に強まった気がして、こめかみをぐりぐりと押さえた。
「ミア、よく考えてみるんだ。もっと身分の低い令嬢だって、いきなり同居、なんて話には普通ならない!」
「お兄様。普通って何かしら?」
ミアの問いかけにレインが首を横にふった。
「ミア、普通というのは、常識だと考えられていることだ。そもそも男爵家に公爵令嬢が嫁いでくるという形も、聞いたことのない話だ。その上に、婚約する話になりました、即同居しました、などと、常識と全然違う動きをしたら、どう考えたって駄目だろう?!」
ゼイゼイ、とレインは呼吸を荒くする。レインがこんな風に熱く語ることなど、ミアはこの10年間ほぼ見ることはなかった。
「お兄さま。その常識って、誰のための常識なのかしら?」
ミアの純粋な瞳に、レインが戸惑う。
「それは、世間の人間の、当たり前のことだ。誰のため、というよりは、みんながそうだってことなんだ」
「でもお兄様。お兄様は既に常識とは離れたところで10年ほど生活されてましたよね?」
10年間引きこもりだったことを引き合いに出されれば、レインも言い返すことはできない。
「そ、それは……」
レインは口をつぐむと、ふい、とミアから視線を逸らした。
「そして、キャル姉様は、常識とはちょっと離れたところにいる存在だわ。二人とも常識から離れているのに、結婚に限って常識にとらわれる必要ってあるのかしら?」
「あると思います」
言葉に詰まるレインの代わりに反論してくれたのは、ジョシアだった。
「あら、どうしてかしら?」
ミアがニコリと笑う。だが、目は笑っていなくて、どちらかと言えばこの議論に更に火が付いたように見えた。
「常識から外れている二人だからこそ、手順をきちんと踏むべきです。下手に言いがかりをつけられるようなことが起きた時、手順さえきちんと踏んでいれば、その部分にはきちんと反論ができる。王族もルイ殿下も一方的な言い分で婚約破棄をされているので、今更口を出してくることはないと思いますが、万が一婚約破棄を撤回するとされたら、お二人の結婚も常識的な手順を踏んでいないと無効であると判断される可能性はあります」
予想以上の反論に、ミアは、ん、と考え込む。
「ジョシア、私は頼まれてもルイとは結婚などせぬぞ。ルイは自分の都合でばかり私を呼びつけるし、そもそも狼を飼っていないではないか」
「キャロライン様。……キャロライン様だって、結婚と言うよりは、狼の事しか考えてはいないじゃないですか。ルイ殿下に呼び出された時だって、リュート殿のことが心配だとテコでも動かなかったですし」
「それの何が悪い。私にとっては、リュートは全てだったんだ! ルイの呼び出しよりも優先するべきことだ!」
怒った様子のキャロラインに、ミアとレインは首をかしげる。
「……あの、リュート殿、というのは?」
レインからすれば勇気のあるミアは、疑問を口に出した。
「リュートは私が飼っていた狼だ。……ようやく手に入れた狼だったんだ。なのに……」
沈んでいく声に、ミアもレインも、その狼が亡くなったのだと理解した。もしまだ生きているのであれば、このキャロラインが片時も離すことはないだろうと想像できたからだ。
「それで、キャル姉様は、狼に会いたかったんですね?」
ミアの問いかけに、キャロラインが顔をパッと上げる。その顔は、喜びに満ちていた。
「そうだ! やはり、この触り心地は素晴らしい! 本当に心が癒される!」
モフモフとカルロを撫で続ける手は、止まりそうな様子は全くない。
「……だとしても、キャロライン様。手順はきちんと踏むべきです」
困った表情でジョシアがレインを見た。レインもキャロラインが狼にこだわる背景は理解が出来たが、ジョシアに同意して頷いた。
「……ならば、お客様として、もてなしましょう?」
ミアがレインを見た。
「お、客さま?」
予想外の提案に、レインが首をかしげる。
「ええ。お客様。それであれば、キャル姉様……いえ、キャロライン様が我が家に滞在していても、問題はないんじゃないかしら? ね、ジョシアさん?」
問いかけられたジョシアは、少し逡巡して、ゆっくりと頷いた。
「確かに、それならば、特に問題はない……のかもしれません」
「よし、では私は今から客だ!」
満足したキャロラインとは反対に、レインがおろおろし始める。
「え? いや、でも、ミア、食事とか、キャロライン様の身の回りの世話とか……どうするつもりだ?」
「そう言えば、そうですわね……身の回りの世話は、私がすればいいんでしょうけど……食事は最低限のものしかご用意はできないんです……」
ミアが眉を下げる。
「身の回りの世話などいらぬ。これでも山で生活などしていたのだ。特に身の回りには困らぬ。食事も……魔法で出せばいい」
レインも魔法は便利だと思ったことはあったが、簡単に食事を魔法で出せばいい、などと言えるようなことはなかった。確かに食事も魔法で出せるのであれば、便利なことこの上ないだろう。
だがなぜかミアは首を横にふった。
「いえ。お客様としてもてなすのであれば、私共が用意いたします!」
「でも、ミア……」
レインとて、商売を手伝って来た身だ。もてなすために用意をしたいと思うミアの気持ちはよくわかる。だが、実際にはサムフォード家には、用意するための元手すらない状況だ。
「そうか……ああ、そうだ。客として滞在させてもらうのだから、滞在費を出そう」
キャロラインの言葉に、ミアはきっぱりと首を振った。
「お客様はおもてなしするのが当然です」
「ミアは案外、頭が固いんだな。さっきは常識がどうしたと言っていたではないか。私がここに滞在したいと願っているんだ、私が金を出して滞在させてもらって何がおかしい?」
「ですが」
「ミア、私はルイから腐るほど金を貰って困ってるんだ。それを使わせてくれないか? 要らないと言ったんだが、王家とルイが執拗に言ってくるので、好きにさせて置いたんだが。私には狼以外に欲しいものなどないからな。使い道もなくてな」
ため息をつきながら告げるキャロラインの表情は、呆れた顔をしていた。どうやら要らないというのは、本気らしい。
「ジョシアの分と二人分払うから、ジョシアの部屋も用意してくれ」
ジョシアが、え、と固まった。




